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友人がくれた贈り物に、心からありがとうと言いたい。

 人間は、深いようで浅い。有料部分は、読まずとも完成していますが、読むとコニシ木の子という人間がよく分かります。結局は「なんのはなしですか」と完結しておりますので、読まずとも何も問題ありませんし、読んでも何も残りません。それが「なんのはなしですか」ということですが、これが私のエッセイであり文学です。




 取引先には、缶珈琲を一緒に飲む友人がいた。月に一度だけ、私はその取引先に出向いて書類を渡す。たったそれだけの出来事が変化したのは、その友人が私のことを見付けてくれたからだ。

 「兄ちゃん。サボりたそうな顔してるな。珈琲飲むか?好きか?」

 缶珈琲を飲む仕草をしながら、その友人が私に対して、何度もその笑顔で、修羅場を乗り越えてきたことが分かるような、還暦を過ぎても人の心にすんなり入るような純真な笑顔を見せてきて、最初にかけてくれた言葉だった。

 ズルいなと思った。

 「好きです。どうして分かったんですか?サボるかサボらないかで仕事を決めて良いんでしたら、私はもちろんサボります」

 私は、私の中にもその純真さを持ち合わせていることを示すように、渾身のウインクをしながら、缶珈琲を飲む仕草をその友人に返した。

 以来、私が取引先に訪れるとその友人は、私と一緒に缶珈琲を飲んでくれる友人関係になった。すべての友人関係は、私の場合こういう風にして出来上がる。時間にすると15分ほどの邂逅だが、その時間を味わえる私は毎月友人に顔を出すのが楽しくなってきていた。それを目的に仕事をするのが楽しかった。

 友人から聞かされたのは、若き日の武勇伝や、会社にいる可愛い女性の話、休日に出掛ける趣味の釣りのことなど。そこには、本来しなければならない筈の仕事の話など一切しなかった。

 それが、とても居心地良かった。

 そして、私はだんだんとその友人に会うということが楽しいのだろうと気付いていた。不毛な会話をする。何にも役に立たない時間を味わいながら珈琲を飲む。たったそれだけの事だけど、私の人生には必要な時間だった。

 私は別に急いでいない。

 仕事は、仕事だが、働くことに対して求める情熱はあまり持ち合わせていない。社会でも、うまくその役割で立ち回れてもいない。それでも取り繕って、馴染んでいるフリを精一杯している。会社や仕事に対しての生きづらさを感じている。仕事に対しての情熱や、そこに全てを懸けて自己投影をしている人達の話や、物語を読むのも辛くなる。

 たぶん、私は社会から取り残されているからだ。社会の主役にはなれない。

 だから、私に対して、普通でいていいのだと言ってくれて、肯定してくれているようで嬉しく思えていたのかも知れない。

 「老々介護って知ってるか?」

 その日の友人は、珈琲を私に渡し、飲む前に唐突にこの話題を切り出してきた。

 「ええ。あなたみたいな人が親を介護するってやつですよね」

 私は、友人に冗談めかして笑いながら伝えた。重いはなしだと気付いていた。そういう時に、どうしても逃げたくなってしまう。私は、読書が好きなクセに、人が何かを伝ようとしていることを本当は読めるクセに、どうしてもそこに向き合いたくない。

 「知ってるねぇ。そう。俺来月から老々介護になるから、もうここにはいねぇからな」

 やっぱりか。

 唐突に宣言された別れを飲み込むのに数秒かかった。数秒だが、重い数秒だった。頭の中では、否定と肯定が入り交じり、私は自分の都合で、友人とはもう話が出来なくなる、ここに来ることに対しての意味がなくなってしまうという、ただただ寂しいという事実の方を優先していた。

 薄情な自分というものには、こういう時に気付かされる。

 優先されるべきは、友人の家族の事情なのだが、私としては話すべき相手が居なくなることの方が心が痛かった。

 「え。誰か他に居ないんですか?それは嫌です」

 私は、歳の離れた友人にそれこそ今までで一番の純真を魅せて、子供っぽい返答をしてしまっていた。友人は、笑顔のような、苦笑いのような笑みを浮かべて、開けたばかりの缶珈琲を一気に飲み干した。

 「代わりは探しておくよ」

 友人は、私に笑いながらそう伝えてくれた。代わりなんてものが都合よく存在しないことなど知っている。そして、誰かに代わって欲しくもない。

 無駄な時間を缶珈琲に一緒に捧げてくれる他人なんてもう現れない。連絡先も知らない友人なのに、間違いなく友人だった。そして、これは私にしたら、働く意味を失いそうな宣告だった。

 「そうですか。マジで楽しかったです」

 私は、握手をすることしか出来なかった。

 「握手されて感謝されるなんて、悪くない人生だな」

 照れ隠しを装うように、友人は私に伝えてくれた。私は、出会う人とはなるべく握手をするようにしている。もしかしたら、自分を渡せるかも知れないと思っているからだ。

 もし、生きていて何かを渡せる方法があるならば、それは直接触れることかも知れないと思っている。そしてそれは、握手がふさわしい気がしている。自分がそれを信じていれば、必ず何かが相手へと渡る気がしている。

 そして、今月、友人が居なくなってしまった取引先を訪ねた。急にはじめて訪れた会社みたいに新鮮な色が付いた景色になっていた。私は、それこそぶっきらぼうに書類を渡し、かつて存在していた温かさや寂しさを消すように明るく声を出して去ろうとした。

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