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料理と芸術 Research Report: Is Cooking an Art?


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永井荷風と三浦つとむ

料理やお菓子も「分身」であるから、精神的な部分をそなえている。料理人の精神的な労働のいかんで、この精神的な部分のありかたも変わってくるし、そこから食べる人たちの楽しみも変わってくることになる。おなじことは食器についてもいえるわけで、皿や茶わんがゆがんでいたり、ナイフやフォークがよごれた色をしていたのでは、食事の楽しみが傷つけられるから、食器の美しさということにも心を配るようになった。銀でナイフやフォークをつくって、その柄の部分に真珠などの宝石をはめこむようなことも行なわれた。酒をつぐ盃についても、同じような豪華なものがつくられた。そしてまた、料理と食器とをどう調和させるかということも考えるようになった。永井荷風はこんなことを書いている。

 「思ふに西洋支那の食卓共に華麗荘厳の趣あれども四時を通じて其の模様大抵同じきが如く、その料理と之を盛る食器との調和対照に意を用ゆる事我国の如く甚しからざるに似たり。我が国の膳部に於けるや食器の質とその色彩紋様の如何によりて其の趣全く変化す。夏には夏冬には冬らしき盃盤を要す。誰か鮪の刺身を赤き九谷の皿に盛り新漬の香物を蒔絵の椀に盛るものあらんや。日本料理は器物の選択をもっとも緊要となす。此に於て其の法全く特殊の芸術たり。盃盤の選択は酒楼にあっては直に主人が風懐の如何を窺わしめ一家にあっては主婦が心掛の如何を推知せしむ。」(『矢はずぐさ』)

 哲学者とか美学者とかいわれている人たちは、食べたり飲んだりすることなどは卑しいことで、芸術は崇高な魂のよろこびを与えるものだと思いこんでいるためか、料理が芸術だなどと論じている者は見あたらない。荷風は哲学者でなく文学者であるから、芸術家としての経験が料理について考える時にも生かされて、日本料理は特殊な芸術だという結論が出たのであろう。

 この「分身」の精神的な部分を調和させるという問題は、衣服のデザインにアクセサリーのデザインを調和させるとか、部屋のデザインに道具のデザインを調和させるとかいうかたちにもなってくる。洋装のときのハンドバッグと、和装のときのハンドバッグとは材料やデザインがちがってくるし、おなじ洋装でも色彩が変わればネクタイや靴の色も変える必要がある。事務所の証明にふさわしい蛍光灯の器具を、そのまま和室の茶の間に持ちこんだのでは調和がとれないから、丸形の蛍光灯にシェードをつけた和室向きのものがいろいろ考案され売り出されている。事務所のカーテンと住宅のカーテンとはちがってくるし、教室のイスと喫茶店のイスとはちがってくるというわけである。

三浦つとむ『芸術とはどういうものか』明石書店、2011.pp.34-36.
三浦つとむ『芸術とはどういうものか』を今読む。
https://blog.goo.ne.jp/hisao-mizutani/e/5f62751921af4e663408b5b3cbcbdc9c

芸術とはどういうものか 単行本 – 2011/8/9 三浦 つとむ
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また思ふに西洋支那の食卓共に華麗荘厳の趣あれども四時しじを通じてその模様大抵同じきが如く、その料理とこれを盛る食器との調和対照に意を用ゆる事我国の如く甚しからざるに似たり。我国の膳部ぜんぶにおけるや食器の質とその色彩紋様もんようの如何いかんによりてその趣全く変化す。夏には夏冬には冬らしき盃盤はいばんを要す。誰たれか鮪まぐろの刺身を赤き九谷くたにの皿に盛り新漬しんづけの香物こうのものを蒔絵まきえの椀に盛るものあらんや。日本料理は器物の選択を最も緊要となす。ここにおいてその法全く特殊の芸術たり。盃盤の選択は酒楼にあつては直ただちに主人が風懐ふうかいの如何いかんを窺うかがはしめ一家にあつては主婦が心掛の如何を推知せしむ。八重多年教坊きょうぼうにあり都下の酒楼旗亭にして知らざるものなし。加くわうるに骨董こっとうの鑑識浅しとせず。わが晩餐の膳をして常に詩趣俳味に富ましめたる敢て喋々ちょうちょうの弁を要せず。いつも痒いところに手が届きけり。されば八重去つてよりわれ復また肴饌こうせんのことを云々うんぬんせず。机上の花瓶かへい永とこしなへにまた花なし。

矢はずぐさ
永井荷風
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三浦つとむ『芸術とはどういうものか』を今読む。自衛隊、防衛大学校の実態!
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  レポート



by Gemini

英語版

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Research Report: Is Cooking an Art?


日本語版

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料理は芸術であるという見解について



第1章 序論:料理と芸術をめぐる問いの提起



1.1 永井荷風と三浦つとむの見解にみる「料理と芸術」の出発点


料理が芸術であるかという問いは、古くから多くの議論を呼んできた。哲学者や美学者が、食事を「卑しいもの」と見なし、崇高な精神的喜びを与える芸術とは一線を画す傾向がある中で、日本の文学者である永井荷風は、日本料理を「特殊な芸術」と明確に位置づけている [資料1]。三浦つとむは、永井荷風の随筆『矢はずぐさ』からの引用を通じて、この見解の核心を提示している。

永井荷風は、西洋や中国の食卓が「華麗荘厳」でありながら、その料理と食器の調和に意を用いることが日本ほどではないと指摘する [資料1]。これに対し、日本料理においては「器物の選択をもっとも緊要となす」とし、器の質、色彩、紋様によって食事の趣が「全く変化す」と述べる [資料1]。例えば、夏の鮪の刺身を赤い九谷の皿に盛り付けたり、新漬の香物を蒔絵の椀に盛ったりすることはあり得ないとし、季節に応じた盃や器を選ぶことが不可欠であると説いている [資料1]。この指摘は、日本料理における芸術性が、料理単体の味や見た目だけでなく、それを盛る器や、ひいては食事全体を構成する環境との「調和」に深く根ざしていることを示唆している 1。さらに永井荷風は、この器の選択に、料理を供する主人の「風懐」、すなわち趣や心掛けが表れるとし、それが単なる技術や職人の腕前を超えた精神的な側面を持つことを強調した [資料1]。

三浦つとむは、このような料理や食器を「分身」であり、「精神的な部分」をそなえていると捉える [資料1]。料理人の精神的な労働がその「精神的な部分」のあり方を左右し、それが食べる人々の楽しみを変えるという見解は、芸術が作者の内面や精神を表現する行為であるという、美学的な議論の出発点となりうる。本レポートは、この永井荷風と三浦つとむの見解を出発点とし、料理が芸術として成立するための哲学的、歴史的、文化的、そして現代的な根拠を多角的に探求する。


1.2 本レポートの目的と構成


本レポートの目的は、永井荷風が提示した日本固有の視点を踏まえつつ、「料理は芸術である」という見解が普遍的な芸術の定義にいかに当てはまるかを、多層的に考察することにある。この命題を単なる比喩ではなく、文化的・歴史的・美学的な根拠に基づき論じるため、以下の構成で分析を進める。

まず、第2章では、芸術の哲学的定義が歴史的にどのように変遷してきたかを概観し、料理が五感を刺激する「美的経験」の創出手段として、その定義にどのように合致するかを考察する。次に、第3章では、フランスと日本という異なる文化圏における料理の芸術性の形成過程を歴史的・文化的な視点から比較する。これにより、料理が芸術として認識される過程が、その文化圏の社会構造といかに深く関連しているかを明らかにする。第4章では、料理が芸術たりえないとする主な反論である「消費性」や「職人性」に焦点を当て、現代アートの動向と比較することで、これらの境界線がどのように揺らいでいるかを検証する。最後に、第5章でこれまでの議論を総括し、現代において料理がどのような意味で芸術と見なせるのかについて結論を導き出す。


第2章 芸術の定義と料理の接点:哲学的・美学的考察



2.1 芸術の哲学における定義の変遷


芸術の定義は、歴史を通じて絶えず変化してきた。古代ギリシアでは、芸術は現実世界の「ミメーシス(模倣)」であると考えられていた 3。この古典的な見解の下では、料理はせいぜい自然の食材を写実的に、あるいは美しく再現する職人技に過ぎなかった。

しかし、近代以降、芸術の価値観は大きく転換する。19世紀末から20世紀初頭にかけては、作り手の内面の感情や思考を表現する「表現主義」が台頭し、芸術は単なる模倣から、作者の主観的な経験を視覚的に表現する手段となった 4。同時期に登場した「芸術のための芸術(L'art pour l'art)」という芸術至上主義の思想は、芸術が社会的・道徳的制約から独立し、それ自体に価値を持つべきだと主張した 4。これにより、芸術は作者の内面表現や純粋な美的経験を追求する対象へと変容した。

さらに、現代の芸術哲学は、従来の美学的価値観にとどまらず、社会的、政治的、倫理的な文脈を重視するようになった 4。芸術作品は、社会や文化の構造を反映するだけでなく、鑑賞者に思考や対話を促す役割を担うようになったのである。この芸術概念の拡張は、料理を芸術として捉える現代的視点の基盤を築き、シェフが料理を通じて自己を表現し、さらには社会的なテーマを語ることを可能にした。


2.2 料理は「五感に訴える表現」か


料理が芸術であると見なされる主要な根拠の一つは、それが絵画や音楽と同様に、五感を介した複合的な美的経験を創出する手段であるという点にある 6。

  • 視覚(Visual): 料理の盛り付けは、絵画や彫刻に匹敵する「アートフォーム」と見なされる 8。シェフは、食材の色、テクスチャー、形、そして配置を巧みに組み合わせ、食べるのがもったいないほど美しい一皿を創り出す 8。例えば、ソースでドット模様やハートを描くソースアート 10、あるいは複数の食材を幾何学的に配置し、色の対比を楽しむ盛り付け 9など、その手法は絵画的創造性に富んでいる。

  • 嗅覚・味覚(Olfactory & Gustatory): 現代のガストロノミーでは、単なる美味しさを超え、味と香りの組み合わせを科学的に分析することで、シェフの独自の「世界観」を表現する 11。分子ガストロノミー(後述)は、この領域をさらに推し進め、新たな味覚体験を創出している 12。

  • 触覚・聴覚(Tactile & Auditory): 食材の食感(クリスピー、クリーミー、プチプチなど)の組み合わせは、音楽における音の強弱やリズムに似た感覚的体験を生み出す。イギリスのシェフ、ヘストン・ブルメンタールの代表的な料理「海の音色」は、iPodから波の音を流しながら魚介料理を食べるというものであり、咀嚼音だけでなく、聴覚そのものが鑑賞体験の一部となることを示している 14。

これらの要素を駆使した料理は、単なる生理的な欲求を満たす行為を超え、五感に訴えかける創造的な表現となる。


2.3 芸術の定義の流動性が料理の芸術性を可能にした


料理が芸術であるという見解は、芸術という概念自体の歴史的な変遷と密接に結びついている。古代の「芸術=模倣」という狭い定義のもとでは、料理は自然の食材を美しく再現する職人技に過ぎなかった。しかし、近代以降、芸術の価値が「作者の内面表現」や「純粋な美的経験」に移り変わったことで、シェフが自らの創造性や世界観を料理に込めることが芸術的行為として認識されるようになった。

この変容は、現代に入りさらに加速する。芸術が社会的・倫理的な文脈を提示する役割を担うようになったことで、シェフは料理を単なる味覚の追求から、環境問題や社会的価値観といったテーマを語るための媒体へと昇華させた。例えば、味が劣るとされる経産牛をあえて用いるレストランの料理は、食材の価値やフードロス問題に対するメッセージを内包しており 16、これは美的表現を超えたコンセプチュアルアートの実践である。

このように、芸術という概念が伝統的な「物」や「模倣」から、より広い「表現」「経験」「社会的実践」へと拡張されたことが、料理が芸術として認められる土壌を築いたのである。料理の芸術性に関する議論は、芸術そのものが何であるかを問い直す哲学的なプロセスの一部だと言えるだろう。

以下に、この関係性を整理した表を示す。

芸術の歴史的定義概念の核心料理の具体的な要素との対応ミメーシス(模倣)現実の写実的再現旬の食材のありのままの魅力を引き出す調理法。表現主義作り手の内面や感情の表現

独創的な盛り付け、オリジナルレシピの開発 7。

美的経験五感を介した純粋な美の追求

色彩、テクスチャー、香り、味の複合的な調和 8。

社会的・倫理的実践社会的メッセージの提示、問題提起

フードロス削減やサステナビリティをテーマにした料理 16。


第3章 歴史的・文化的視点から見る料理の芸術性



3.1 フランス料理の歴史:職人から芸術家への昇格


フランス料理の歴史は、料理人が社会的に低い地位の職人から、創造的な芸術家として認められるようになる過程を描いている。フランス革命以前、料理人は主に貴族に仕える存在であり、その社会的地位は低く扱われていた 18。しかし、1789年のフランス革命前夜に世界初のレストランが誕生したことは、この構造を根本から変える転機となった 19。

映画『デリシュ!』が描くように、貴族社会から解任された宮廷料理人が、一般市民のためにレストランを開いたことは、料理人が自身の「作品」を不特定多数の顧客に直接提供する場を得ることを意味した 19。これにより、料理は貴族の嗜好に縛られた技術から解放され、料理人自身の創造性を自由に表現するメディアとなった。この自由な創作環境は、料理人が「職人」から「芸術家」へと自己認識を高め、社会的な地位を向上させる直接的な要因となったのである 18。

また、19世紀の美食家ジャン・アンテルム・ブリヤ=サヴァランの『美味礼讃』(Physiologie du goût)は、食を単なる生理的欲求の充足から、科学的・文化的な考察の対象へと昇華させた画期的な出来事であった 21。これは「ガストロノミー」という概念の成立を促し、「美食」が思想や学問の領域へと進出する道を開いた 21。さらに、産業革命によって食文化が均一化されることへの懸念から台頭した「地方主義」は、フランス各地の多様な食文化を再評価する動きを加速させ、料理の「多様性」や「芸術性」を復興させようとする推進力となった 23。このように、フランス料理の芸術性は、社会構造の変革と、食を思想的に捉え直す運動によって、外部から権威づけられる形で発展してきた。


3.2 日本料理の美意識:食と器、空間の調和


一方、日本料理における芸術性は、西洋とは異なる美意識の中で自然発生的に育まれてきた。永井荷風が『矢はずぐさ』で指摘したように、日本料理は「器物の選択を最も緊要となす」という文化を持つ 1。これは、料理が単体で完成するのではなく、それを盛る器との調和によって初めてその真価が発揮されるという思想に基づいている 1。

日本の懐石料理や茶の湯に代表される「しつらえ」の文化は、この美意識の典型である 1。それは、料理、器、空間、季節、そしてもてなしの心が一体となった総合的な美的体験を創出する 1。例えば、和皿には季節の移ろいや自然の美しさを表現した絵柄が描かれ 25、料理の盛り付けと器の模様が一体となって楽しむことができる 26。和食店の空間演出においても、自然素材を用いた内装、間接照明による陰影、そして琴や尺八の音色といった視覚的・聴覚的要素が、食事の非日常感を高める役割を果たす 24。

このように、日本料理の芸術性は、フランスのように社会構造の変革を直接的な契機とするのではなく、永井荷風が指摘したように、伝統文化に根ざした「調和」と「しつらえ」の美学の中で育まれてきたと言える。


3.3 料理の芸術性は、文化的な権威構造と密接に関わる


フランスと日本における料理の芸術性の発展を比較すると、その根源的な違いが明らかになる。フランスでは、フランス革命とレストランの誕生という社会構造の変革が、料理人を貴族の支配から解放し、彼らが自身の創造性を公に発表する場を与えた。この自由な創作環境が、ガストロノミーという思想的枠組みと結びつき、料理人が「職人」から「芸術家」へと自己認識と社会的地位を向上させる推進力となった。

対照的に、日本では、料理の芸術性は伝統文化に内包されていた。外部からの権威付与(例えば、ポーランド王室料理人パウロ・トレモのような事例)ではなく、永井荷風が指摘したように、器や空間を含む「しつらえ」の美意識の中で、料理そのものが芸術的価値を持つと認識されてきた。この違いは、それぞれの文化圏における芸術と社会の関係性、すなわち西洋では「革命と市場経済」が、日本においては「伝統と調和の美学」が、料理を芸術として認識させる主要な推進力となったことを示している。

フランス料理日本料理芸術性の根源

シェフ個人の創造性、ガストロノミーという思想的枠組み 11

料理と器、空間、季節との調和。自然素材と繊細な美意識 1

発展の契機

フランス革命による社会構造の変革とレストランの誕生 18

伝統的な「しつらえ」の文化(懐石料理、茶の湯)の継承 1

料理人の地位

貴族に仕える職人から、一般市民を顧客とする芸術家へと上昇 18

伝統文化を担う職人であり、その技術を通じて美意識を表現する 28

主要な価値

料理単体、味覚、創造性、科学性 11

料理、器、空間の全体的な「おもてなし」と美的体験 1


第4章 料理と芸術の境界線:消費性、職人、そして現代アート



4.1 「消費性」と「永続性」の論争


料理が芸術たりえないとする最も一般的な反論の一つは、その「消費性」にある。絵画や彫刻といった伝統的な芸術作品が物理的な永続性を持つ一方で、料理は食べられると消滅してしまうため、芸術作品と呼ぶにふさわしくないという見解が存在する 30。

しかし、この反論は現代の芸術観においてはもはや絶対的なものではない。パフォーマンスアートや即興演奏、あるいはハプニングといった芸術形式は、料理と同様に一過性のものであり、物理的な永続性を持たないが、それでも芸術と見なされている 31。さらに、料理そのものが食べられると消滅するとしても、その「レシピ」は音楽の「楽譜」のように、永続的に残り、再制作が可能である 31。これは、料理の芸術性が、単なる物理的な「物」にあるのではなく、その背後にある「概念」や「技術」にあることを示唆している。また、物理的な芸術作品であっても、ランドアートのように特定の自然環境の中でしか表現できないものや、ブロンズ像のように原型が破棄されるものも存在する 32。現代の芸術哲学は、作品の「永続性」を物理的な保存ではなく、「他者にとっての意味として存在し続けること」と捉えており、その意味で、料理もまた語り継がれ、再解釈されることで永続性を持つことができる 34。


4.2 「職人」と「芸術家」のパラダイム


料理人が「受け継がれた技術を極める職人」か、「独自の世界観を表現する芸術家」かという問いも、料理の芸術性をめぐる重要な論点である 28。多くの料理人、特に日本や中国の料理人は、自らがアートを創造しているという意識を持たず、伝統を追求する職人タイプであると評されることがある 28。

しかし、現代のガストロノミーを追求するシェフは、この二元論を融合させている。彼らは、長年の修練によって培われた伝統的な技術(職人技)を基盤としながらも、その技術を用いて独自のコンセプトや社会的メッセージを表現している。例えば、ペルーの「セントラル」は、ペルーの多様な生態系を表現するために、標高別に異なる食材を用いたコース料理を提供している 16。これは単なる料理技術の披露ではなく、文化や環境というテーマを探求する行為である。さらに、日本のレストラン「フロリレージュ」が、味が劣るとされる経産牛をあえて用い、その美味しさを最大限に引き出す料理を提供している事例は、食材の価値観やフードロス問題に対する深い思考を鑑賞者に促す 16。これは、職人技の範疇を大きく超え、料理をコンセプチュアルアートへと昇華させる実践だと言える。


4.3 現代アートにおける「食」の役割


現代アートは、料理と科学、社会学、テクノロジーといった異分野との融合を積極的に試みている。

  • 分子ガストロノミー: フランスの物理化学者エルヴェ・ティス博士によって提唱され、フェラン・アドリアやヘストン・ブルメンタールといったシェフが実践した「分子ガストロノミー」は、料理を物理的・化学的に分析し、新たな調理法や食感を創出した 12。この潮流は、厨房を「実験室」とし、シェフを「科学者」と捉えることで、従来の料理の概念を覆し、未知の表現領域を切り開いた 12。フェラン・アドリア自身は自らの料理を「脱構築主義」と称し、予期せぬコントラストや驚きを提供することを目標とした 29。これは、現代アートが常に従来の枠組みを解体し、再構築しようとする姿勢と軌を一にしている。

  • 食のインスタレーションアート: 現代美術家は、食そのものを表現媒体として用いることで、新たな芸術体験を創造している。リクリット・ティーラワニットが鑑賞者にタイ料理を振る舞う作品は、食べ物を通じて「人々の間に適切な関係をもたらす」ことを目的としており、料理が社会的なコミュニケーションを創出するメディアであることを示している 16。同様に、アメリカ発のプロジェクト「OPEN」は、食をテーマにしたアートイベントを通じて、生産者と料理人、アーティスト、消費者を結びつけ、食べ物の背景にある物語を探求する機会を提供している 36。

  • 没入型体験としてのレストラン: プロジェクションマッピングや空間演出を駆使した現代のレストランは、食事体験全体を一つの「インスタレーションアート」として構成している 37。壁に映像を投影し季節感を演出したり 37、自然光やオブジェ、版築の壁などを用いて生命への敬意を表現したりする空間は 17、料理そのものが芸術であるというだけでなく、食事という行為全体が芸術的経験になりうることを示唆している。


4.4 現代の料理は「物理的産物」から「概念と体験」へと進化している


伝統的な芸術や料理は、完成した「物」や「味」そのものに価値が置かれていた。しかし、分子ガストロノミーは、科学的なアプローチで「味」や「テクスチャー」を再構築し、驚きや挑発といった「体験」を重視する方向性を示した。さらに、現代アートとの融合によって、料理は単なる美的産物から「概念と体験」へとその価値の重心を移動させている。

リクリット・ティーラワニットの作品や現代のガストロノミーレストランは、料理に社会的メッセージや哲学的概念を込め、顧客に深い思考を促す「概念的な体験」を提供するようになった 16。この進化は、料理が単に「美味しい」や「美しい」といった感覚的な評価から、「なぜこれを食べるのか」「この料理が何を語っているのか」といった知的な問いを内包する「知的・社会的実践」へと変貌したことを意味する。料理の芸術性は、単なる職人技の範疇を大きく超え、現代アートが追求するパラダイムと重なり合っているのである。


第5章 結論:料理はどのような意味で芸術か



5.1 多角的な議論の総括


本レポートで展開した哲学的、歴史的、文化的、現代的な議論を総括すると、「料理は芸術である」という見解には多層的な根拠が存在する。芸術の定義が「模倣」から「表現」へ、そして「社会的実践」へと拡張されたことで、料理は五感を刺激する複合的な表現手段として芸術の範疇に入りうるようになった。また、フランスと日本という異なる文化圏で、料理の芸術性はそれぞれ「革命と市場経済」および「伝統と調和の美学」という独自の歴史的・文化的背景の中で発展してきたことが明らかになった。

さらに、料理の「消費性」は、パフォーマンスアートなど一過性の芸術と比較することで、その芸術性を否定するものではないことが示された。現代の料理は、「職人技」を基盤としつつも、科学やアートとの融合を通じて、「概念」や「物語」を表現する「知的・社会的実践」へと変貌を遂げている。


5.2 料理がもたらす「精神的な部分」の現代的意味


永井荷風と三浦つとむが言及した「料理の精神的な部分」は、現代の料理においては、単なる作り手の思いや食べる人の楽しみ(資料1)を超え、社会的メッセージ、環境倫理、文化的アイデンティティといった広範なテーマを内包している 39。料理は、食を通じて人々を繋ぎ 16、思考を促し、そしてより良い社会や未来を想像させる力を持つようになった。例えば、経産牛の利用や地元の生態系を表現する料理は、食べるという行為を通じて、持続可能性や文化的価値について深く考えさせる 16。これは、芸術が社会に問いかけ、変革を促すという重要な役割を、料理が担っていることに他ならない。


5.3 展望:未来の「食」と「アート」の可能性


今後、フードテックやAIの進化が、料理の創造性をさらに拡張する可能性がある。3Dプリンターによる食材の造形や、AIが考案する斬新なレシピは、料理の表現を物理的・化学的な限界から解放し、新たな芸術的領域を切り開くだろう。また、気候変動や食料危機といった地球規模の課題は、料理に新たな芸術的テーマをもたらす。持続可能な食材の選択や、フードロスをなくすための創造的な取り組みは、単なる調理技術の進化ではなく、未来の食文化と芸術の融合を象徴する実践となる。

結論として、料理は単なる栄養摂取の手段ではなく、永井荷風の時代から続く「調和」と「精神性」の追求、そして現代アートが探求する「概念」や「体験」の提示を通じて、多角的な意味で芸術として成立している。未来において、食はますます創造性、知性、そして倫理を内包する、複合的な芸術形式として進化していく可能性を秘めていると言えるだろう。

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