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存在しなかったZEN :誤訳、神智学者、そして廃墟となった寺院がどのようにして「ZEN美学」を生み出したのか



英語版
https://medium.com/@izayohi/the-zen-that-never-was-0610efe8a63f


https://claude.ai/public/artifacts/1a1fb692-5505-4112-bd49-1bf775161705

The Zen That Never Was

How a Mistranslation, a Theosophist, and a Ruined Temple Invented "Zen Aesthetics"


Motohisa Ishibe (石部統久) @mototchen / @izayohi・Claude Opus 4.6
査読 Claude Opus4.6・Grok・Gemini3.1pro・ChatGPT5.4


§1 「"それ"が射る」——たった一人の証言者

弓は自分が射るのではない。「"それ"(It)」が射るのだ——。

この教えを聞いたことがある人は多いだろう。弓道と禅の精髄を一言に凝縮した、日本武道の核心。世界中の弓道愛好者、禅の実践者、そして「Zen and the art of ...」型の書名を冠した無数の自己啓発書が、この命題を繰り返してきた。出典はオイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』(独語版1948年、英語版1953年)。20世紀後半に最も広く読まれた「日本精神文化」の入門書の一つである。

だが、この教えには奇妙な事実がつきまとう。

弓術研究者・山田奨治の広範な調査によれば、流派弓術が成立して以降およそ600年の文献の中に、「"それ"が射る」という教えは確認されていない(Shoji Yamada, Shots in the Dark: Japan, Zen, and the West, 2009)。未発見の資料が存在する可能性は当然ある。しかし、より決定的な事実がある。阿波研造——ヘリゲルが師事した弓道家——がこの教えを説いたと証言しているのは、ヘリゲルただ一人なのである。阿波の他の弟子たちに、同様の指導が行われた痕跡はどこにも見つかっていない。

つまり、世界中で「日本の弓術の中心的教え」として流通している命題の出典は、たった一人の外国人の証言しかない。

この事実から出発して、一つの問いを追跡する。「"それ"が射る」という教えは、どこで、どのようにして生まれたのか。そしてなぜ、誰もそれを疑わなかったのか。


§2 阿波研造——「伝統」の外部にいた人物

ヘリゲルの師・阿波研造(1880-1939)は、しばしば日本弓術の伝統を体現する達人として語られる。だが、同時代の弓術界における阿波の位置は、この像と大きく異なる。

阿波は本多利実に師事した弓道家だが、いわば傍流の出だった。大正の初め頃から自身の弓術に疑問を持ち始め、やがて従来の弓術を「一種の技巧的試練能とした遺伝病」だとして否定し、「人間学を修める」ための「射道」なるものを独自に構築し始めた。

弓術界の反応は厳しかった。本多利実の孫で、後に本多流宗家を継いだ本多利時は、阿波の射風を酷評し、気分だけで引いていると言った。同じく本多門下の大平善蔵は、阿波が説いた「一射絶命」の教えについて「ただ死ぬまで頑張れなどというのはばかげたことだ」と切り捨てた。阿波が伝統弓術の盛んな場所に出向くと、後ろから石を投げられたこともあったという(以上、山田2009が採録する弓術史資料による)。

1927年には、第二高等学校弓術部の師範であった阿波が、二高生の反対を押し切って「大射道教」という団体を設立する。弓道家というより、宗教家のように振る舞い始めたのである。

そしてもう一つ、決定的な事実がある。阿波は禅寺に通ったことも、禅の老師に参禅したことも一度もなかった。仏法や禅を思わせるような表現で教えを説いたのは確かだが、制度的・系譜的な禅修行の裏付けは持っていなかった。

ここで、二つのことが明らかになる。第一に、「弓道と禅の一体性」の物語は、弓術の正統的伝承者によって語られたのではなく、弓術界から排斥された逸脱的な個人によって始まった。第二に、その個人自身が、禅との制度的な接点を持っていなかった。弓術の側からも、禅の側からも、この結合には根拠がない。

では、「弓と禅」はどこで結びついたのか。


§3 「Es」問題——通訳の非人称構文が生んだ神秘

ヘリゲルは1924年に来日し、1926年から阿波のもとで弓を学び、1929年に帰国した。稽古は一週間に一回。そして重要なことに、阿波とヘリゲルは直接会話ができなかった。ドイツ語に堪能な小町谷操三の通訳を介して意思疎通をしていたのである。

小町谷自身が後に認めているところによれば、彼は阿波のことばを正確に訳すことにこだわってはいなかった(山田2009が小町谷の証言を採録)。阿波は「丹田に力を入れて無我の境に入り、宇宙と一体になるべきものである」などと教えたそうで、こうした難解な教えをその場で厳密にドイツ語に通訳するのは困難だったという。

ここで山田奨治は、一つの仮説を提示する。「"それ"が射る」という教えは、通訳の過程で生まれた意味変容ではないか、と。

山田の再構成はこうだ。ヘリゲルがよい射をしたとき、阿波が「それです」と言った——つまり「まさにそれ(that's it)」という肯定・承認の意味で。この日本語がドイツ語に訳される際に、「Es」を主語とする構文に変換された。

ドイツ語の「Es」(英語のitに相当)には、日本語にも英語にもない独特の用法がある。たとえば「すみません」に相当する「Es tut mir Leid.」は直訳すると「それが私を申し訳なく思わせる」であり、「我慢できない」に相当する「Es wird mir zu bunt.」は「それが私をして混乱させる」となる。ドイツ語のEsには、人々がある行為をするのは人を超えた力に動かされた結果だという含意を持つ構文が存在する。

「それです」(指示代名詞的な肯定)が、Esを主語とする非人称構文として通訳されたとき、意味は「人を超えた何かが射る」に変容する。日本語の「それ」とドイツ語の「Es」の間に横たわる統語構造の差異が、超越的な行為主体を——言語構造上の事故として——捏造した可能性がある。

注意すべきは、これが山田の再構成仮説であり、確定的結論ではないということだ。だが、現存する証拠の中で最も説明力の高い仮説であることは確かだろう。阿波は「それ」が射るとは教えていない。ヘリゲル以外の弟子は誰もそれを聞いていない。そして通訳者自身が正確さを追求していなかったことを認めている。

『弓と禅』の日本語版は、日本語→ドイツ語→英語→日本語という翻訳の連鎖を経て、阿波のことばの原型をとどめないほどに変形していた。「神秘体験」の正体は、言語構造上の事故だった可能性が高い。

なお、ヘリゲルの背景にはもう一つの文脈がある。ヘリゲルは後にナチ党員となった人物であり、彼の「弓と禅」への傾倒は、当時のドイツにおける精神文化的な欲望——近代合理主義の外部に「より深い真実」を求める運動——とも共振していた。この物語は「日本人が伝統を創った」という一方向の話ではなく、ドイツ側もまた自らの欲望に合致する「東洋の叡智」を求めていたという、双方向の力学の上に成り立っている。


§4 鈴木大拙——「Zen」の再構成者

1953年に出版された『弓と禅』の英語版には、鈴木大拙(1870-1966)の序文が添えられている。鈴木はこの本を高く評価し、英語圏の読者に推薦した。ちょうど欧米で「禅ブーム」が始まろうとしていた時期である。鈴木の権威に支えられて、『弓と禅』は禅ブームの波に乗り、その信頼性を誰も疑わないまま広く流通していった。

ここで一つの問いが生じる。「禅の権威」として序文を書いた鈴木大拙自身は、何を西洋に「伝えた」のか。

鈴木大拙が20世紀の英語圏における「Zen」の最大の紹介者であることは疑いない。だが、鈴木が西洋に提示した「Zen」は、臨済録や碧巌録をそのまま英語に訳したものではなかった。

伝記的事実を確認する。鈴木大拙は神智学協会(Theosophical Society)の会員であった。スウェーデンボルグの著作を日本語に翻訳し、その思想を高く評価していた。彼の知的形成は、日本の禅宗の伝統だけでなく、19世紀末から20世紀初頭にかけての西洋の普遍主義的神秘主義——異なる宗教伝統の背後に共通の神秘的真理があるとする思想潮流——の中でも行われていた。

鈴木の仕事を「偽物だった」と断じるのは、このエッセイの目的ではない。だが、鈴木が行ったことの性質は正確に記述される必要がある。鈴木は禅を西洋に「伝達」したのではなく、「再構成」した。西洋の読者が内面的な精神体験の語彙として受容できるように、禅を近代西洋の宗教的感性の文法の中で書き直したのである。

これが意味することは重大だ。「"それ"が射る」という誤訳に「禅の権威」としてお墨付きを与えた人物が提示していた「禅」自体が、すでに近代的な再構成物だった。権威付けした側の「Zen」が、伝達物ではなく再構成物だったのである。入れ子構造がここに成立する。


§5 逆輸入と追認——「外国人が認めた日本」の自己強化ループ

『弓と禅』が英語圏で高い評価を得た後、興味深いことが起きた。日本の禅宗の高僧たちが、ヘリゲルの物語を追認し始めたのである。

臨済宗の高僧・山田無文(1900-1988)は、外国人相手に禅について語る際に『弓と禅』を用いた。同じく臨済宗の大森曹玄(1904-1994)は、「専門の禅の立場から見て、阿波範士の指導ぶりやヘリゲル博士の体験はまことに立派」と書いた(大森曹玄『現代弓道講座 第六巻 第二版』雄山閣、1968年)。

本来であれば、禅の側から疑義が提出されるべきだった。阿波は参禅したことがない。阿波の教えは独自の身体論・精神論であって、禅の系譜に属するものではない。しかし、そうした批判はほとんど出なかった。逆に、禅の側がヘリゲルの物語を自らの伝統の中に取り込んだのである。

なぜか。ヘリゲルが描いた日本像が、日本人にとってあまりにも都合がよく、自尊心をくすぐるものだったからだ。「西洋の知識人が日本の弓道に深い精神性を見出した」——この物語は、「日本の伝統は素晴らしい」という自己像を強化する。そして、その自己像の強化が、「だからヘリゲルの記述は正しいに違いない」という推論を駆動する。逆輸入の自己強化フィードバックループが成立したのである。

この同じメカニズムは、弓道だけでなく、別の回路にも作動した。

竜安寺の石庭を考えてみよう。現在、竜安寺は世界中から年間数百万人の観光客が訪れる京都の代表的寺院であり、その石庭は「禅の覚りを表現したもの」として世界的に知られている。

だが、1950年頃まで、竜安寺は訪れる人もまれな貧乏寺だった。江戸時代から明治の中頃まで常任の住職すらおらず、妙心寺が管理していた。1907年に就任した大崎龍淵は、桃山時代以来約300年ぶりの常任住職である。戦時中は雨漏りの修理も行われず、境内は荒れ放題だった。

そして、竜安寺の石庭を「禅の精神の表現」と結びつける言説は、戦前にはほとんど存在しなかった。日本庭園史研究者のワイベ・カイテルト(Wybe Kuitert)によれば、枯山水が禅哲学を表現しているという言い方は20世紀以降のものであり、古い日本の庭園文献にも20世紀初頭の庭園研究にも見られない(Kuitert, Themes in the History of Japanese Garden Art, 2002)。英語圏でこの結びつけを先駆的に行ったのはロレイン・カック(Lorraine Kuck, 1936年『京都百名園』)だが、カックの見解に影響を与えたのもまた鈴木大拙だった。

戦後、禅・弓道・石庭はセットで世界に紹介され、これらを一体の「Zen aesthetics」として捉える物語が反復され、拡大再生産されていった。弓道が弓術界の逸脱者から始まったように、石庭の「禅的意味」も事後的に付与されたものだった。そして両方の場合に、鈴木大拙が結節点として機能していた。

ここで一つ明確にしておきたい。追認した禅の高僧たちも、「Zen aesthetics」を世界に広めた人々も、それぞれの文脈においては合理的に行動していた。山田無文が外国人に禅を語る際に『弓と禅』を使ったのは、それが最も効果的なテクストだったからだ。大森曹玄がヘリゲルの体験を高く評価したのは、その体験記述が禅的な境地と確かに類似していたからだ。竜安寺が禅の象徴として再定位されたのは、戦後の国際環境がそれを要請し、またそれが寺院の存続に寄与したからだ。

これは詐欺の物語ではない。各層の行為者がそれぞれの合理性に基づいて行動した結果として、変形の連鎖が進行した物語である。


§6 構造の抽出——単一起源なき「伝統」

ここまでの因果連鎖を、四つの層として再構成する。

第1層:阿波の「射道」。 伝統弓術の正統的継承者ではなく、弓術界から排斥された個人が、独自の身体論・精神論として構築したもの。禅の系譜的裏付けなし。

第2層:ヘリゲルの「"It" shoots」。 通訳の非人称構文による意味変容——山田奨治の再構成仮説によれば、「それです」(肯定)が「"それ"が射る」(超越的行為主体)に変わった言語構造上の事故。加えて、ドイツ側の精神文化的欲望がこの変形物を受容可能にした。

第3層:鈴木大拙の「Zen」。 神智学・スウェーデンボルグを経由した知的環境の中で、西洋の読者が受容できる形に再構成された禅。伝達ではなく再構成。鈴木が神智学の語彙や普遍主義的な枠組みに親しんでいたのは、英語圏の読者に禅を伝えるための回路を構築する必要があったからであり、それは翻訳行為に内在する構造的制約の産物であって、個人の欺瞞の結果ではない。

第4層:戦後の逆輸入。 臨済宗高僧による追認、竜安寺の禅パッケージ化、「外国人が認めた日本」の自己強化ループ。批判が出なかったのは隠蔽ではなく、フィードバックの構造による。

このエッセイが否定しているのは、禅や弓道や石庭の歴史的実在ではない。それぞれは確かに存在し、それぞれの歴史を持っている。否定しているのは、それらが最初から一つの整合的な「Zen aesthetic tradition」として存在していたという回顧的な物語である。

各層が先行層の変形物を「本物」として受け取り、さらに変形して次の層に渡している。どの時点にも、単一の整合的パッケージとしての「オリジナル」は存在しない。弓術界の逸脱者の教え、通訳の言語構造が生んだ意味変容、西洋の宗教思想と融合して再構成された禅、荒れ果てた寺院に事後的に付与された精神的意味——これらが積層して、「Zen aesthetics」という戦後のパッケージが組み立てられた。

これを「偽物」と断じることは、このエッセイの目的ではない。

四層構造は、起源の「正統性」を問うている。現在の弓道や禅や石庭の実践が、多くの人に変容的な経験をもたらしていることを否定するものではない。だが、実践の効果があることと、起源が正統であることは、別の問いである。この二つの問いを混同すること——「効いているのだから起源も正しいはずだ」——こそが、逆輸入の自己強化ループを駆動させてきたメカニズムなのである。

むしろ、「本物/偽物」の二項対立そのものが、このような積層構造の前では機能しない。伝統とは、純粋な起源から直線的に伝承されるものではありえない。変形、誤訳、再構成、追認——これらの連鎖の中で、各層の行為者がそれぞれの合理性に基づいて行動した結果として、「伝統」が事後的に結晶化する。エリック・ホブズボームの言う「創られた伝統」(invented tradition)の、メカニズムが異例なまでに精密に追跡可能な事例が、ここにある。

最後に一点だけ付記する。このエッセイ自体もまた、ある種の知的パッケージとして機能しうる。「脱神話化された日本」は、「神秘的な日本」に代わる新しい消費商品になりうるのだ。四層構造の分析は、この自覚なしには完結しない。


主要参考文献

  • Shoji Yamada, Shots in the Dark: Japan, Zen, and the West (University of Chicago Press, 2009)

  • 山田奨治『禅という名の日本丸』(弘文堂、初版2005年)

  • Eugen Herrigel, Zen in the Art of Archery (1953; 独語初版1948年)

  • Robert Sharf, "The Zen of Japanese Nationalism," History of Religions 33, no.1 (1993): 1-43

  • Eric Hobsbawm and Terence Ranger, eds., The Invention of Tradition (Cambridge University Press, 1983)

  • Wybe Kuitert, Themes in the History of Japanese Garden Art (University of Hawai'i Press, 2002)

  • Loraine Kuck, The Art of Japanese Gardens (John Day, 1940; 初版は One Hundred Kyoto Gardens, 1936)


関連note等

https://note.com/prapanca_snares/n/n4ceb806be776

https://note.com/prapanca_snares/n/n1cbf87e3d733

https://note.com/prapanca_snares/n/nfa124e4eda39

https://note.com/prapanca_snares/n/nb4497e9d6d5d

https://note.com/prapanca_snares/n/nd5497f3271b1

https://note.com/prapanca_snares/n/n2f7b49b43062


山田奨治『禅という名の日本丸』読了。衝撃的な本だった。「弓道は禅と似ている」とか「竜安寺の石庭は禅の世界を表現したものだ」というのは最近までほとんど存在しなかった思想であり、戦後に創作されていった新しい神話であることを証明するのに成功している。 まず、明治以降の日本では、体育のため、あるいは楽しみのために弓道をするのが主流だった。実際、戦前の弓術書には、弓と禅を強く結びつけたものは(全くないわけではないが)ほとんど存在しない。 弓道がことさらに禅と結びつけられるようになったのは、ドイツ人のオイゲン・ヘリゲル(1884-1955)が書いた『弓と禅』が出版されたあとに見られるようになった特異な現象である(日本では1956年に翻訳・出版されている)。 ヘリゲルは1924年に来日し、1926年から阿波研造(1880-1939)のもとで弓を学び、1929年に帰国した人物である(ただし、稽古は一週間に一回だけだった)。だが阿波は、「伝統流派」の傍流を学んだ人物だったうえに、大正のはじめごろから自分の弓術に疑問を持つようになって、独自の弓術をこしらえた人だった。弓術を「一種の技巧的試練能とした遺伝病」だとして、「人間学を修める」ための「射道」なるものを説き始めたのである。そのため阿波は弓術界から変人扱いされ、「伝統弓術」が強いところに出向くと、後ろから石を投げられたこともあったという。 阿波は本多利実に師事しているのだが、利実の孫で、のちに本多流宗家を継いだ本多利時は、阿波の射風を酷評し、気分だけで引いていると言った。同じく本多門下の大平善蔵は、阿波が説いた「一射絶命」の教えを、「ただ死ぬまで頑張れなどというのはばかげたことだ」と言った。本多流の人々による阿波に対する評価は散々だった。また、阿波は第二高等学校弓術部の師範だったのだが、1927年にはニ高生の反対を押し切って「大射道教」という団体を設立し、「宗教家」のように振る舞っていた。 さて、阿波は禅寺に通ったり、禅の老師に参禅したりしたことは一度もなかったという。阿波は「射裡見性」ということばを用いたし、仏法や禅を思わせるような表現で教えを説いたのは確かなのだが、阿波の教えそのものには禅の香りはあまりなかった。ところが、阿波に学んだヘリゲルは、阿波の教えを禅と結びつけた。ヘリゲルは、『弓と禅』で弓道と禅を結びつけて、弓は自分が射るのではなくて、「それ」が射るのだとしており、「それ」という概念の解釈はこの本の核心部である。 ところが、流派弓術の成立以降の600年に及ぶ弓術の歴史を眺めても、「“それ”が射る」などという教えはどこにも存在しない(!)。しかも、「“それ”が射る」という教えを阿波が説いたと言っている人物はヘリゲルだけ(!)であり、阿波がヘリゲル以外の弟子にそんなことを教えた痕跡はどこにも見つからない。それにもかかわらず、「“それ”が射る」というのが日本の弓術の中心的な教えであるかのように海外に広く喧伝されてしまったのである。 なぜこんなことが起きたのか。そもそも、阿波とヘリゲルは稽古の際に、ドイツ語に堪能な小町谷操三の通訳を介して意思疎通をしていた。山田奨治氏はこの問題を検証し、ヘリゲルがよい射をしたときに、阿波が「それです」と言ったのが、「“それ”が射る」と伝えられたがために意味が変化したと結論している。 というのも、ドイツ語のEs(英語で言うit)には独特の言い回しがある。例えば、日本語で「私には我慢できない」と言うようなときに、「それが私をして混乱させる」(Es wird mir zu bunt.)と言ったり、「すみません」と言うときに「それが私を申し訳なく思わせる」(Es tut mir Leid.)と言ったりする。ドイツ語のEsは、人々がある行為をするのは、人を超えた力に動かされた結果だという考え方があるというわけだ。 阿波の言ったことがEsを主語にして通訳され、「“それ”が射る」と伝えられたがために、「自分」を超えた何かが射るのだという風に意味が変化したのではないかというわけだ。実際のところ、ミもフタもないようだが、小町谷は阿波のことばを正確に訳すことにこだわってはいなかった(画像1枚目)。小町谷によれば、阿波は「(ヘリゲル君は)丹田に力を入れて無我の境に入り、宇宙と一体になるべきものである」などとも教えたそうで、阿波の難解な教えをその場で厳密に通訳するのは困難だった。 そういうわけで、「“それ”が射る」というのが日本の弓術の中心的な教えだという「物語」は、「誤訳」によって新しく創作されたのである。『弓と禅』の日本語版は、「日本語→ドイツ語→日本語」という翻訳の過程で、阿波のことばの原型をとどめないほどに形を変えたものだった。そして、ヘリゲルが描いた日本像が、日本人にとってあまりにも都合がよく自尊心をくすぐるものであったがために、ヘリゲルを批判する論調は日本側からほとんど出てこなかった。かくして、新しい「伝統」が創作されたのである。 1953年に出版された『弓と禅』の英語版には、この本を高く評価した鈴木大拙の序文が添えられている(これは日本語版には載っていない)。ちょうど欧米で禅がブームになっていく時代に、『弓と禅』は鈴木大拙のお墨つきを得る形で英語圏に登場したのである。かくして、その信頼性を誰も疑うことなく、『弓と禅』は禅ブームに溶け込んでいった。 しかもその後、山田無文(1900-1988)や大森曹玄(1904-1994)などの臨済宗の高僧たちも、『弓と禅』を高く評価してしまった(!)のである。山田無文は、外国人相手に禅について語る際には『弓と禅』を用いていた。『剣と禅』(1966年)という著書があり、禅や武道を論じた大森も、「専門の禅の立場から見て、阿波範士の指導ぶりやヘリゲル博士の体験はまことに立派」と書いてしまったのである(大森曹玄『現代弓道講座 第六巻 第二版』雄山閣、1968年)。 また、山田氏によれば、竜安寺の石庭は禅の「覚り」を表現したものだという言説が世界に広まるのは戦後のことにすぎず、竜安寺の石庭と禅を結びつける言説は戦前には非常に少数だったという。 そもそも竜安寺は、今でこそ世界中から観光客が押し寄せる有名な寺院だが、1950年ごろまでは、訪れる人もまれな貧乏寺だった。江戸時代から明治の中ごろまでは決まった住職もおらず、妙心寺が寺を管理していた。明治維新の際には、境内の土地や宝物を打って寺を維持するありさまだったという。 1907年には、大崎龍淵が住職になっているが、その前の住職は桃山時代の人(!)で、大崎は約300年ぶりの常任の住職だった。大崎の次の住職である松倉紹英によれば、戦時中はいつ空襲があるかわからないということで雨漏りの修理も行われず、境内も荒れ放題で草ぼうぼうだった。 また、日本庭園を研究しているウィーベ・カウテルトによれば、風景式庭園が禅哲学を表現しているという言い方は、20世紀にならないと見られないものであり、英語の文献ではロレイン・カックという人物がその先駆けだという。カックは1936年に出した『京都百名園』で竜安寺の石庭を禅と結びつけているのだが、そうしたカックの見解に影響を与えたのも鈴木大拙だった。 戦後に、禅・石庭・弓道はセットで世界中に紹介され、これらを一体のものとして捉える「物語」が反復され、拡大再生産されていくのである

https://x.com/prapanca_snares/status/1898346474741878977?s=20

 https://x.com/prapanca_snares/status/1898346474741878977?s=20

https://note.com/mototchen/n/nc92be4d96ba7

ヘリゲルは日本文化の根源に仏教や禅の精神性を見出したとしている。”Zen in the Art of Archery”には、阿波研造が1本目の矢に2本目の矢を当てた[7]際にichではなくEs(エス)(「それ」)が射るといったという有名なエピソード[8]がある。これに対し元ドイツ弓術連盟会長フェリックス・ホフ(Feliks F. Hoff)は、弟子がよいパフォーマンスを見せたときに「今のはよかった」という意味で発した日本語の「それです」をドイツ語: Esを主語にしたため意味が変わってしまったという説をとなえた

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%A4%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%AA%E3%82%B2%E3%83%AB#cite_note-9
オイゲン・ヘリゲル - Wikipedia

ほとんどみえないほどの的に向かって第1矢を放つと的心に命中し,第2の矢は的心に刺さっている矢の筈に命中してそれを裂いた.これは,たいへん感動的な場面である.しかし,ヘリゲルの文章とこのときの様子を阿波が高弟の安沢平次郎に語ったことのあいだには,相当な温度差がある.雑誌『弓道』の対談のなかで安沢は,阿波自身はこの出来事についてこんな風に語ったといっている.

「あの時,礼射をやったんだ.甲矢が中って,乙矢がターッという何かにブッツかった様な音がした.それからあと,オイゲンさんがいくら経っても帰ってこないんだ.オイゲンさんオイゲンさんって呼んだ」と云うんだ.「何だ,返事しない」というんだ.それからまあオイゲンさんが的の前にちゃんと坐っている.先生がこうやってそば行って(のこのこ出掛ける格好)「どうしたんだ」と云うと,声も出さずにオイゲンさん凍てついた様に坐っている.そしてそのまま矢を抜かずに持ってきた.(中略)先生は,「いや,あれはただ偶然だよ」,「こんなこと別におれはして見せたつもりでもねえんだ」と云うんだ.(『弓道』183号,1965年)

 これは阿波が安沢に語ったということばだ.要するに,あれは偶然だったということだ.阿波のいうことはとてもわかりやすく,ここには神秘の香りはない.ところが,阿波がヘリゲルに語ったとされることばは,これとはまったく違う.『弓と禅』にはこう書かれてある.

 甲矢の方は別に大した離れ技でなかったとあなたはお考えになるでしょう.何しろ私はこのあづちとは数十年来なじんできているので,真暗闇の時ですら的がどこに在るか知っているに違いないというわけでね.そうかも知れません.また私はいい訳しようとも思いません。しかし甲矢にあたった乙矢――これをどう考えられますか.とにかく私は,この射の功は“私”に帰せられてはならないことを知っています.“それ”が射たのです.そしてあてたのです.仏陀の前でのように,この的に向かって頭を下げようではありませんか

 一転して,こちらはとても難解で神秘的なことばになっている.阿波が安沢に語ったということばと,ヘリゲルに語ったということばの落差はいったい何なのだろうか.そこで疑いたくなるのは,通訳のことだ

身体技法の模倣と創造
―オリジナリティとは何か
山田 奨治
P65-66
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcoaching/21/1/21_63/_article/-char/ja/

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