中島 智先生による言語やアートの身体化について
中島 智先生の身体化についてのX投稿をまとめました。
ほっとくと学校的学習観というものは〈fast food〉ならぬ〈fast study〉に向かってしまう。ほっとくと、この学習観を学校から学習して、雑学のつまみ喰いに陥ったり、その学習観に則って学校を軽蔑したりする人々もでてくる。重要なことは、その先に進むことで、じっくりモヤモヤして身体化すること。
— 中島 智 (@nakashima001) July 24, 2025
https://x.com/nakashima001/status/1948195458524012867?s=20
音楽は訓練がなければ大脳右半球で印象を味わうけれど音楽家たちは大脳左半球でリテラシーしていて、美術では訓練がなければ大脳左半球で記号や意味として理解するけれど美術家たちは大脳右半球でリテラシーしていることが解っているけど、いずれも学習者は先行作品に身がさねし、自身の身体に目覚める
— 中島 智 (@nakashima001) September 28, 2025
https://x.com/nakashima001/status/1972244189749694531?s=20
新たな研究により、人はそれぞれ固有の “呼吸 - 指紋” を持っており、またそのパターンが身体的・精神的健康の特徴も反映していることを発見したというが、宗教・民間療法・武道・芸能、音楽でも美術でも「呼吸」で踊ったり奏でたり描いたりしてきたわけで、それを観てなかったの? と逆に驚かされる。 https://t.co/MmjTdeivUx
— 中島 智 (@nakashima001) June 15, 2025
https://x.com/nakashima001/status/1934303817417527436?s=20
これがわからんのよねぇ、ゲージツ鑑賞(体験)の素養がないひとにとっては。。。
— speedy car (@speedy_car) November 26, 2025
どうしても自分の意志で身体をコントロールしていると考えがちなので、「鑑賞=理解」ととらえてしまいがち。鑑賞を体験(自分の内側を通す/作品の内側を通る)するってのが身につかない。。。。 https://t.co/EeV78ISFZz
https://x.com/speedy_car/status/1993546785063944334?s=20
芸術鑑賞についても、知識の必要論とか不要論とかではなくて身体性をいかに開くかというところに本質があるのだけれど、これがほとんど問題にされない現状がある。
— 中島 智 (@nakashima001) November 25, 2025
https://x.com/nakashima001/status/1993215055333380536?s=20
身体性というのは認識論的な場である。これが解せないと身体はマジックワードと揶揄されてしまう。身体の有無とは、例えば、参与と観察との違いのこと。すなわち、他者の有無に通ずるものである。参与において他者は現前化する。観察はいかに精緻であってもフレーム投射の罠から免れえないものだから。
— 中島 智 (@nakashima001) October 11, 2025
https://x.com/nakashima001/status/1977055581677686905?s=20
かつて討議した諸先輩からの親身な助言に「それはレトリック/記号操作/戯論にすぎない」という指摘があった。それは「中味がない」生成AIの饒舌さと変わらない。AIの普及によって能弁さがいかに平易なことかという認識も公知化すると思われたが、いまだ言語化が「中味」の〈翻訳〉と信じられている
— 中島 智 (@nakashima001) October 10, 2025
https://x.com/nakashima001/status/1976502735018262812?s=20
いまだ過半の方々は「ラッセンがすき」なのだ。レトリック(小手先)で描かれた記号操作(売り絵)の他者不在に、否、他者不在ゆえに自身の解釈が脅かされない安心感に浸れるのである。それは生成AI画像でも同じこと。その身体性のなさ、呼吸のなさに息が詰まらない。情動の〈理〉には興味すらないから
— 中島 智 (@nakashima001) October 10, 2025
https://x.com/nakashima001/status/1976525681808015728?s=20
むろん(記号操作で描かれた絵以外の)美術作品というのは(詩以外の)慣習言語に〈翻訳〉され得るものではない。それらはあくまでも各々に自律している〈理〉であって互換性がないから。ゆえにヴィジュアルシンキングをロジカルシンキングによって語らんとすれば必然的にそれは「語り得ぬもの」となる
— 中島 智 (@nakashima001) October 10, 2025
https://x.com/nakashima001/status/1976525767229231353?s=20
よく「言語化」と、あたかもそれ自体が佳きこと優れたことであるかのように謂われるけれど、少数民族などフィールドワークしてきた身(そして地方出身の身)として思うのは、「言語」とは「文化」の鏡だということ。語学を習うプロセスが、当該文化を体得するプロセス抜きでは、形骸化するのと同じこと
— 中島 智 (@nakashima001) November 1, 2025
https://x.com/nakashima001/status/1984668087694880796?s=20
言語化もまた、非言語的な実在にたいする虚像として映しだされるものである。でなければ、たんなる抽象的な記号操作、美辞麗句を連ねるだけの空言になってしまう。もちろんその操作や連ねかたの〈癖〉が語りかけてくるものもあるけれど、その身体性への文化接続がなければやはり〈癖〉ていどでしかない
— 中島 智 (@nakashima001) November 1, 2025
https://x.com/nakashima001/status/1984668322605253082?s=20
だから結局、「言語化」いぜんに「身体化」なのである。虚像いぜんに実像であること。◯◯のようなもの、◯◯らしさ。そういうところに浮遊していないで、ぐちゃぐちゃべたべたと巻き込まれながら胆力をつけていくこと。話はそれからだ。それいぜんでは話にならない。
— 中島 智 (@nakashima001) November 1, 2025
https://x.com/nakashima001/status/1984668616856650009?s=20
「言語化」いぜんに「身体化」は仰る通りですね。そういう観点から言語習得を考えると、日本の英語教育は「身体化」をなおざりにしているから、英語が話せないまま、すなわち英語での「言語化」ができないんですかね?…
— 豊川 諒 (@MakotoToyokawa) November 1, 2025
https://x.com/MakotoToyokawa/status/1984734446617239964?s=20
「知識教養」を
— ベルモン太(カクレカメ) (@belmontakame) November 26, 2025
「脳みその中に収められてるデータ」と考えるか
それとも
「脳みそという身体の一部分とそれに繋がる身体全体を動かすためのOSやアプリ」と考えるか
それによって「知識教養」というモノに対する認識が変わってくるよなと思った… https://t.co/l4rgRibJwu
「知識教養」を 「脳みその中に収められてるデータ」と考えるか それとも 「脳みそという身体の一部分とそれに繋がる身体全体を動かすためのOSやアプリ」と考えるか それによって「知識教養」というモノに対する認識が変わってくるよなと思った 「脳みその中に収められてるデータ」と考えたらそれは「情報」だけど 「脳みそという身体の一部分とそれに繋がる身体全体を動かすためのOSやアプリ」と考えたらそれは「身体全体を動かす『自分』という物体の構成要素」ということになるし 単なる「情報」の領域を超えて、「身体全体の感覚を研ぎ澄ませて身体の毛穴から何から全てを感覚で震わせて動かす原動力」になる なのでつまり、その「知識教養」は「情報」を超えてわたし自身のこの身体を動かす「燃料」になるって感じかな、と思った
「知識教養というのは努力で誰にでも身につくが感性的なものは素質」という旨のポストをみかけた。このイメージがいわゆる天才神話とかを生む元凶なのであろう。知識/感性という二分法は好まないが、情報/身体とした場合、情報では思考枠は変わりにくいが身体技法は思考回路それ自体を変容させていく
— 中島 智 (@nakashima001) November 26, 2025
https://x.com/nakashima001/status/1993641463788511305?s=20
なのでここで言われる「感性」が優れて身体的なものであるなら、思考枠や思考回路そのものを変容させていく身体技法は教えることも教わることもできるものである。しかし教わるのは知識のほうだと思い込みやすい近代学校教育だけを教育とみなしている方々には、それを知らなかったり見えなかったりする
— 中島 智 (@nakashima001) November 26, 2025
https://x.com/nakashima001/status/1993641525113401759?s=20
だから「誰にでも身につく知識・教養はそれゆえに民主的なんだ」とは言えなくなる。誰もがすでに生きている身体に「文学身体」とか「美術身体」とかを身につければ、知識・教養での愉しみとはまったく別の、思考フレームそのものが根底から変わっていくジェットコースター以上の動的体験が愉しめる
— 中島 智 (@nakashima001) November 26, 2025
https://x.com/nakashima001/status/1993644178753098112?s=20
美学的な教養主義、自己投影をうながす対話型鑑賞、ビジネスに活かせるアート思考などのダメなところは、誰しもがもつ身体に働きかけてアート身体を励起させ、そのアート身体がアート思考を誘発していくという手順を解していないことにある。一、二回のワークショップで満足度を与えようとするのは欺瞞
— 中島 智 (@nakashima001) November 26, 2025
https://x.com/nakashima001/status/1993748419660402728?s=20
アート(技藝)にはそれぞれに特有の身体知がある。知識に身体性が先んじるのは、知識の修得においても身体性がそれを個別化(自己化)するのであって、身体性に委ねなければ借り物のままで腑に落ちることはない。それはたんなる記号操作になる。すでにもつ知見も、新たな知見も、身体知が応用していく
— 中島 智 (@nakashima001) November 26, 2025
https://x.com/nakashima001/status/1993777027665825943?s=20
身体性がどれほど学習しうるものか?という質問をいただいたが、学習には師を選ぶことはもちろんだけど修得プロセスにも個人差はある。一般知にせよ身体知にせよ、そこはかわらない。けれど、前者が量的に測られやすいのと違い、身体知は質的なものなので、個別化され、安易に優劣比較などに収まらない
— 中島 智 (@nakashima001) November 26, 2025
https://x.com/nakashima001/status/1993781858946175267?s=20
行為(身体性)がイメージや思考を生みだすことは、脳神経科学に触れた方々ならば承知していることだけど、これが痛感される制作などの実践経験などを積み重ねていくと、逆に、誰かの「イメージや思考」に触れたさい、その誰かの「行動原理」まで読めてくることになる。それが発話動機へのリテラシー。
— 中島 智 (@nakashima001) September 19, 2025
https://x.com/nakashima001/status/1968922425740984668?s=20
それは技術というものが身体技法なのだから自明である。同様のことは邦楽家からも舞踊家からも聞いた。いわゆる「伝統の型」にも固有名詞がある。固有の身体によって伝承されるのだから当然のこと。この厳然たる個別性を「類型」で語れば「藝(作品)」は観えなくなる。https://t.co/QelPtNBwF4
— 中島 智 (@nakashima001) October 18, 2025
https://x.com/nakashima001/status/1979567452804841817?s=20
某大学教員が低偏差値学校出身の人が書く文章を蔑んだり、某批評家が「読み」よりも「書くこと」が文意伝達の肝だと語っているのを見かけた。これらに共通している過誤は、「文章」しか読んでいないということ。その人の「記述行為」が読めていないということである。文章を書いているのは身体なのだ。
— 中島 智 (@nakashima001) July 30, 2024
https://x.com/nakashima001/status/1818150476929769850?s=20
だから「読めない文章はだめだ/書けなければわかってない」などと考えてしまうのは、その文章がどのような身体が書かせたものかが読めない、読もうとしていない証左であって、頭(観念)で書かれた慣習的文法や、自分にわかる記述しか文章だと思えない輩。読めただけで理解したつもりになってしまう輩
— 中島 智 (@nakashima001) July 30, 2024
https://x.com/nakashima001/status/1818150653778391433?s=20
稚拙な文章、拙劣な表現といったものを、拙劣であるがゆえに未熟とみなす人は、その文章や表現が「その人の肉」によって生起したものであるがゆえにそのような様相にあることが理解できない。大学のみならず、教員とか批評家であるならなお、そこがわかってないと加害者になる。
— 中島 智 (@nakashima001) July 30, 2024
https://x.com/nakashima001/status/1818153396505088506?s=20
ファインアート
https://note.com/mototchen/n/n4f5542416cfc
