【#創作大賞2025 #恋愛小説部門】『制服にサングラスは咲かない』18章
「なんか久し振りに大勢の人と話したなぁ」
アジサイが枕を抱きながら、布団の上で横になっている。
「僕もそうかも、何年ぶりだか覚えてもいないや、棚の奥にしまってあった、いつかの記念で買っておいたマグカップみたいな感じかも」
「出た出た」
「結構仲良くなった?」
「うん、みんなお姉さんって感じで話しやすかったよ、でも」
とアジサイは続ける。
「どこの学校か、とかお父さんは何しているのか、そういう話になるとね、なんだか自分はそういう輪のなかに入る権利なんてない人間なんだぁって」
僕はアジサイにふわりと枕を投げた。
「わ」
枕がアジサイの顔に覆いかぶさる。
「そんなことない、そんな権利がない人間なんて誰もいない、アジサイは悪くない、楽しいは楽しいでいいんだよ」
アジサイは枕をどかさずに小さく頷いた。
室内はジーっと低音で唸るような電球の音がする。
外からは開け放たれた窓から蛙の大合唱。
蛙が一つの波となって僕とアジサイめがけで迫っているような。
階下では、まだ居間で賑わう大学生たちの喧騒。
アジサイはなかなか顔を覆った枕をとらなかった。
玄関から大学生数人が外にいった音がした。
袋を開ける音。バケツに水を溜める音。
世界には人びとが形どる色とりどりの音の輪郭で満ちている。
パッパッパと何かがはじける音がした。
手持ち花火だ。
僕の左耳が手持ち花火の音を捉えながら、僕の両手がアジサイの顔に覆った枕をどかす。
声を出さずにアジサイは泣いていた。
うすうすはそんな気がしていた。
普通っていいよね。
楽しいって悲しいよね。
誰かといると寂しいよね。
僕はこれまで生きてきた孤独から生まれてきた言葉の全てをアジサイに言ってあげたくなる。
でも彼女は僕と比にならない物を背負っているから、簡単には言えない。
アジサイの嗚咽が次第に広がっていく。
誰もいない朝方の霧が霞む湖の水面に淡く広がっていく波紋のように。
僕はベランダの方へいって、窓から少しだけ顔を出して花火をしている学生たちを見た。
辺りはあんなに暗いのに、なんの光か、とても眩しくて、とても苦しい。
僕にできることってなんだろう。
と考えていたら、横になっていたはずのアジサイが、後ろから僕に重なった。
最初は自分がどういう状態にあるのかわからなかった。
耳元でアジサイの熱のこもった息を感じた瞬間に、ああっと思った。
僕は後ろからアジサイに抱きしめられているのだ。
やわい柑橘系の匂いが、明け方に僅かに振りそうな雨の匂いに紛れて、花火を堪能する大学生の賑やかさにまぎれて、僕の鼻腔をくすぐる。
「ありがとう」
「何が?」
僕は何もしていない。
「さっきの言葉もだし」
「さっきの言葉?」
「普通っていいよねってくだり」
「あれ、僕声に出してた?」
「うん」
想いが口をついて出たのか。
「あれは僕に対する言葉でもあるんだよ」
「うん」
「僕もずっとさ、孤独で色んなものに憧れて、普通になりたくて、でもなれなくて、このまま永遠に他人とすれ違いながら生きて行くしかないんだって」
「うん」
「親にも騙されて借金を背負って、捨てられて、学校にも行けなくて、友人もいなくて、何か楽しい場所に行ってみても、自分だけが不幸の海の中で一人、豪華客船をながめているような」
「うん」
「嫌になるね」
「うん、嫌になっちゃう」
僕らは互いの触れているところにに汗をかきながら、しばらくそうしていた。
こうして蛙の音を聞いていると、アジサイと二人で寝過ごして山のなかまできてしまった、あの夜を思い出す。
木々の影が恐ろしかった。今ではこんなにもなじみ深く、自然に対する畏怖のような尊敬までも持っているのに。
「お兄ちゃん」
「はいはい、どうしたんですか、妹様」
「好きだよ」
「……ん?」
後ろから回ってきたアジサイに目を覗き込まれる。
お兄ちゃん好きだよ?
「照れてる」
「いや、照れてるっていうか、複雑というか」
「冗談だよ、ツリバリってすぐ顔に出るよね」
「心臓に悪い冗談やめて、びっくりした」
「お兄ちゃんって呼んだのが冗談ってこと」
「ん?どういうことだ?」
お兄ちゃん好きだよでからかわれていると思ったら、お兄ちゃんの部分が冗談と言われ、そうしたら残るのは……
『好きだよ』
僕の心臓は打ち上げ花火になった。けたたましく空でバンバン言っている。
「アジサイ?」
真剣な表情でアジサイが僕を見ている。
月明かりがまっすぐにアジサイの顔半分を照らしていて、その月明かりのなかでアジサイのまつ毛が震えているのがわかった。
「気づいてたでしょう?」
「え、本気なの!?僕のどこにそんな要素あった?」
「気づいてなかったんだ」
「そりゃ、日々を生きるのに必死ですから、でも本気なの?」
「本気」
「なぜ」
「救われたから」
「救ってないよ」
「救ったの、私逃げてよかった」
「あれは全部自分のためだよ」
僕は煙草に手を伸ばした。
伸ばした手はアジサイの手によって掴まれた。
「すぐに煙草に逃げない」
「はい、ごめんなさい、癖で」
「ツリバリがさ、自分のためでも私は救われたって言ってるの、それから今日までの日々、ずっと一緒にいてくれたし、ちょっと自分の気持ちに気づいてたんだ」
「それが好きの理由になるの?」
「なんでもいいの好きの理由なんて、ツリバリにわからなくたっていい、全部じゃないけど、今言ったし、私だけが知っててもいいの」
「そういうものなんだ」
「恋はそういうものなの、むしろね」
「涙出そう」
「どうしたの?」
「人生で初めて告白された」
「私も人生で初めて告白した」
「されたことはあるの?」
「そりゃあるよ、でも全部断ってきた」
「なんで?」
「なんでって、そうだなぁ、今日の貴方に好きだと伝えるためです」
その言葉で、僕は、僕の存在がようやく、誰かに受け止められたような、そんな気がしてしまった。
「えーとえーと」
「返事は別にいいの、本当は言うつもりもなかったし、ごめんね」
「そうなの?じゃあなんで言ったの?」
「後悔したくなくてって感じかな、同じ日々なんてないでしょう?いつか変わっていってしまうし、ツリバリも最近変わってきてね、そうしたら色んな人が私の知らない人になって、どこかへ行ってしまうかもしれない、だからせめて今だけはちゃんと言葉にしたいなって、私達の日常なんてそれこそ当たり前じゃないからね、だからね」
とアジサイはつづけた。
「ツリバリ、好きだよ」
誰かに好きと言ってもらえる、僕はそんな機会をどれだけ待っていただろう。
親も僕を愛してはくれなかった、異性の誰も僕に見向きもしなかった。
ずっと誰にも必要とされない人間だと、結論付けて、そんな日々は過去に流していたはずだったのに。
こんな時になって、誰かに僕の存在を認めてもらえるなんて。
僕は幸せ者だと、心の底から思った。
明日どうなるかもわからないのに。
普通なんてもう二度と手に入らないのに。
どうでもよくなるくらい、満たされる部分があるのだ。
どうしようなく、止められない種類の感情があるのだ。
「返事は?」
「返事、さっきいらないってアジサイが言ってたのに」
「言ったけど気になってきた」
「とてもうれしいけどいきなり言われても、わからないよ」
「ガーン」
「そんなこと言う人いるんだ」
「さ、さすがに私の事嫌いはないよね?」
「当然、ない、それならずっと一緒にいないよ」
「気長に待ちますか」
「何を」
「ツリバリの気持ちがちゃんと私に向くのを」
気長……という時間は僕らに残されているのだろうか。
「でも、きっと僕もアジサイのことを……だと思うんだよ」
「え、なに?」
「悪くは思っていないと思うんだ」
「うわ、卑怯な言い回し、つまり好きに近いってこと?」
「多分、そうかなぁって」
最初は完全に自分の為だけに逃げた。けれど今は違う。僕は自分でも変わったと思う。アジサイのためだったら、僕は色んなことができる。
今さらになって、向き合えるものが出来て来たんだ。
もしかしたら、それって僕のアジサイへの気持ちが変わったってことにならないか。
きっとそう。
今まではアジサイを無事に逃がして、その先も逃げることばかり考え続けていた。つまりは表面の世界に懸命になっていた。
けれども、表面の世界の支えになっている内側は、アジサイへの色んな気持ちがあったのだ。
僕はどうしようもない。
いつも、どうしようもないくらい後になって自分のことがわかる。
アジサイが目を閉じた。月が動いて、ちょうどベランダ側に座るアジサイの上で白く輝く。
僕らは、キスをした。
「ツリバリ、結局何も言ってないからね」
「うん、ごめん」
夏の夜ということもあってか、どうしてか僕らはキスよりも先に進んでしまった。
最後までというか。なんというか。
布団の横には、何もまとわないアジサイの裸体が、まるで割れたガラスみたいに転がっている。
身体全体で息をしているのがわかった。
僕も何も着るものもなく、生まれた姿のままだ。
「痛かった」
「ごめん」
「いいよ」
アジサイは僕の肩に顎を置いて、体をつけてきた。
汗を掻いている。すべての部分に柔らかい弾力を感じる。
これが女性というやつなんだ。
「あ、今これでよかったのかなって顔してる?」
「うそ」
「本当」
僕は本当に顔に出やすいみたいだ。
「よかったんだよ、痛いけど」
いたずらっ子みたいに笑うアジサイ。
カバンからカメラを取り出した。
「何する気?」
「胸まで布団かけて」
「はい」
「はい、チーズ」
シャッター音。
僕らは初めての夜をフィルムのなかに切り取った。
上半身を薄い布団で隠して、アジサイは変わらず僕の肩に顎を載せたまま。
「ちょっときわどい写真だね」
「きわどいくらいじゃないと思い出にはなれないんだよ?」
前にも言っていた。
前は確か
ーー恥ずかしくないと思い出にはなれない。
だったような気がする。
確かに今日という日を忘れないだろう。
不意に視界に入った携帯が、何かの通知があることを、小さな緑の光で僕に教えてくれる。
僕は体を起こして、携帯を手に取った。
ビーチサンダルだろうか?
今は完全に無視を決め込みたい気分だが、懸念は消しておきたい。
ーー『ういっす、今から花火やるっすけど、一緒にどうっすかね?もちろん疲れてたら全然休んでほしいっす』
1時間くらい前にリョートさんから来ていたメッセージ。
あのときに花火をしていた人のなかにリョートさんがいたのか。
ーー『すいません、完全に気づきませんでした。もう花火は終わってしまいましたか?』
すぐに返信が来た。
ーー『あちゃー、それは残念っす、花火は終わりっすね、線香花火なら余っているんっすけど、初日からやるもんじゃないって、誰も手をつけなかったっす』
「アジサイ」
「んー?」
まだ気怠そうな伸びた声。
「線香花火できたらやりたい?」
「やりたい!」
アジサイは飛び起きた。
微かな汗と、シャンプーの匂いが、なんだかまた妙な気分になりそうだったがそれは内緒。
ーー『申し訳ないのですが、もし可能でしたら幾つか線香花火をわけてもらうことはできますか?妹と花火をしたいな、と思いまして』
ーー『全然いいっすよ、玄関のところにライターとセットで置いておくんで、勝手に持って行ってくださいっす』
「いい人だね、リョートさん」
いつの間にかアジサイが携帯画面を覗き込んできていた。
「大学生にもいい人がいるんだ、当たり前だけどね、僕は自分の狭量さを呪いたいよ」
「ん?何の話してるの?」
「僕のコンプレックスの話」
「ツリバリ、いっぱいコンプレックスありそうだね、親とか愛とか友達とか」
「さっきの話でそう思ったの?」
「んーそれだけじゃないよ、日々の何気ない会話から」
「正解だよ、自分でも困ってるんだ」
「私と同じだからいいじゃん」
「そうだね」
ーー『ありがとうございます、それではお言葉に甘えて線香花火を持って行かせていただきます』
「よし、花火行こうか」
一人、また一人と大学生は早い明日のために寝支度を済ませたのだろう。
1時間前よりもずっと静かで、ずっといつもの夜に近い。
僕らは適当な服を羽織って、玄関に置いてある線香花火を持ち、外に出た。
自分が初めて、女性とそういうことをして、外に出ると、世界は漠然と立体感を持って広がっているように思えた。
「ここら辺でいいか」
「はい、ツリバリの分」
「ありがとう、アジサイは自分の分持った?」
「持ったよ」
「火を点けるから、ライターに近づいて」
僕らは横並びで線香花火に火を点けた。
淡い命の灯。静けさをまとう夏の夜。
僕らの足元を微かに照らして。
アジサイと縁日行きたいな。屋台の間を縫うように歩いて、神社の境内のどこかに座って、食べてたりなんだり。
「ツリバリ、こっち向いて」
僕がアジサイの方を向くと、またカメラのシャッター音。
「こんな夜に映らないでしょう」
「あ、やっぱり?」
「カメラ貸して」
僕はアジサイから借りたカメラで、今度はアジサイを撮る。
「一応、映る可能性もあるから撮ってみた」
「映るといいなぁ」
僕も切に願うよ。
だって、アジサイ、君はきれいだ。
座ったまま、片手で柔らかく持った線香花火。
小首をかしげてポーズを決めるアジサイ。
耳にかけられた髪、白い首筋。
きれいだよ、アジサイ。
口には出せないけれど。
一通り線香花火を終えて、僕らは家に戻って明日のために眠ることにした。
立ち上がって玄関の方へ歩いて行こうとすると、僕らの位置から近い窓に人影がある。
目を凝らしてみた。
サトルさんだ。
サトルさんがただ、ずっと立ったまま僕らを見ている。
いつから?何が目的で?
怖いというよりは、もう怒りを覚えてきた。
何がしたいんだ。
僕はアジサイにサトルさんのいる場所を見せないように玄関へ向かった。
どうして、関わってほしくない人間に限って構ってくるのだろう。
学生時代も社会人をしていたときもそうだ。
やたら人と関わろうとしてくるくせに、情緒が不安定で、周囲の人間を辺り構わず不幸にしていく人間って一定数いる。
それなら一人でいてくれた方が回りだって何気なく生活できたのに、やらと干渉してくるから厄介なのだ。
もしかしたらサトルさんは、たまたま廊下を歩いていたら、僕らを見つけて何をしているんだろうと見ていたのかもしれない。
それは少ない可能性だけど、
なぜなら玄関へ歩いている僕らの事も彼はずっと見ていたから。
僕はイライラと毛羽立った気持ちを出さないようにして歩いて、玄関をあけた。
アジサイが驚く。
サトルさんが扉の前に立っていた。
移動してきたのだ。
「こんばんは、サトルさん、外は暗いので足元に気をつけてくださいね、それじゃおやすみなさい、ほら紫、行こう」
僕はアジサイの手を握って、サトルさんの脇を通ろうとする。
すると彼は僕の前を塞いで通れないようにした。
じっと眼鏡の奥の重たい一重瞼が僕を睨んでいる。
あえて無言を貫いているのか。
それにも僕は腹がたつ。
何がいいたい?何がしたい?何のためにここへきた?
お金を貯めたいなり、思い出がほしいなり、何かしらの目的があってきたのだろう?
なぜアジサイに執着する。そしてどうして、人との距離感がそんなにわからない?
サトルさんは徐に携帯を取り出して操作した。
ポケットに入れておいた僕の携帯が振動する。
まさか、リョートさんが僕の携帯の番号を彼に教えた?
いや、そんな人じゃないだろう。
僕はサトルさんから視線をそらさずに携帯を取り出した。
着信だ。
僕はディスプレイをみた。
それは電話帳にきちんと登録された文字だった。
登録名は
『ビーチサンダル』
「やっぱりな、さっき外で会話してるの聞こえたんだ、『ツリバリ』『アジサイ』って」
