魔法のキス(シロクマ文芸部)
「風が吹くよ」と彼女は頬をかきながら言った。
僕が頷くのを確認する前に彼女は続けた。
「ビューンとね、庭にいる雀達をけちらすの。かまいたちなの。がぼーんて音がするんだよね、でもねグンブラーンって音かもしれない」
言い終わる前に白いカーテンが揺れ、室内にそよ風が吹き込む。小春日和の柔らかな光が、迷い込んだ世界を優しく撫でていた。
部屋の外では昼食を運ぶ荷台のキャスターがキュルキュルと行き来する音がする。
何かが始まる感覚が昔から苦手だった。
誰もいない教室、朝礼前の会社、そして恋愛やセックス。新しいものが体に馴染むまでの拒否感は、僕と世界を隔て、自分だけが異物のように思える。
「ねぇ、ねぇ」と彼女は屈託なく笑う。ベッドの上で。患者の服を着て。
「なんで魚は水の中でしか生きられないの?酸素ボンベを開発しなかったのはどうして?そんなにバカなのに、生きて来れたの?」
そんなこと、僕に言われてもわからないよ。
とは言わない。
「そうだな、酸素ボンベはいらないんだ。僕らもまだ宇宙で生活してないから」
「あなたって、宇宙人なの?」
「僕は魔法使いなんだ」
彼女が羨ましそうな表情を浮かべて拍手する。
僕は病室の壁に貼られた献立表を何気なく見る。
わかめご飯、鶏胸肉の煮物、にんじんとカボチャのスープ・ほうれん草のおひたし・リンゴのコンポート。
時計の針は献立表に書いてある昼食の時間を20分過ぎていた。
献立を作った人が時間を間違えているのか。
あの時計の針が20分早いのか。
建物全体が昼食の匂いで充満しているのに、まるでここだけが、隔絶されたような静けさだった。
彼女の周りから遠ざかった日常と、陽気な彼女と、病室という場所も相まって全てが歪に映る。
正解のないパズルのピースを片手に延々と悩んでいるような。
「失礼します。お食事を持ってきましたよ」
看護師が慣れた手つきでベッドにテーブルを設置して食事を載せた。
献立通りの品だ。こんな感じで人の未来が運命によって決定づけられていたら楽なのにな、と思った。
寒くなるなら厚着をすればいい。
心だって同じ。寂しくなるなら、淡い期待を糸のように解けばいい。
長い時間をかけて、そのときがくるまでに。
看護師は僕を一瞥すると会釈してそのまま出て行った。
またキャスターの音がのらりくらりと消え、世界の輪郭がぼやけた。
「これ、おいしいね!ねぇあなたも食べる?健くん」
「せっかく美味しいんだから食べてしまいなよ」
君は僕に美味しいものは最後に食べる派だと言ったんだ。
「このほうれん草のおひたしも出汁がきいてていいなぁ」
ほうれん草は嫌いだと、彼女は言っていた。小さい頃、母親が毎日作ったのに、毎回残していたそうだ。
「健くんは今日何時までいられるの?」
僕は腕時計をみた。壁にかけられた時計は信用ができない。あんなに不正確なものに頼る時代は終わったんだ。
嘘か本当か。時間が正しいのか。あの時計はそんなこともわかっていない。
まるで、君のように。
そして僕の名前は健じゃない。
「夕方まではいようかな」
「夕方って誰が決めたんだろうねぇ、お昼と夜だけのあいだの短い時間の名前!夜明けもそう!あ、蝶々!!まちがえた、カーテンだ、健くんは明日もきてくれる」
「うん、そうだね」
君は僕に最後まで健くんの話をしてくれなかった。
まだ昼なのにも関わらず、停滞する日差しからは重たい夕日の微かな気配を感じた。
僕の心はここから離れたがっているのかもしれないし、或いはそうでないのかもしれない。
もしくは君との思い出が夕日のなかに沢山あっただけなのかもしれない。
僕は来客用の丸イスから立ち上がって窓の方へ行った。
短いため息が出た。煙草が吸いたくなった。
カーテンを指でつまむと生地同士が擦れる音が鳴った。
間違っても蝶々には見えない。
「ねぇねぇ、健くん、怒った?怒ったら、また怒鳴るの?ごめんなさい」
「怒っていないよ、何も怒ることなんてない」
「あたし、いい子?」
「とてもね」
犬のような鳴き声がした。僕は窓から外を見下ろす。
四つん這いになった中年男性が花壇に向かって吠えている。
となりにいる看護師がその男性の手を踏んだ。
キャンと悲鳴をあげる。
「健くん、あたしのおっぱい見る?それで仲直りしよ」
「いや、大丈夫、怒ってないからね」
「うそだよ!あ、わかった、他の女だ!他の女だ!他の女がいるんだ!まぐわるんだ!きも!きんも!他の女に決まっているよ、不潔!きんもぉ!バカにしやがって!」
ベッドの上で彼女が暴れ回る。
僕は急いで近くに行って体を抑えた。
感じたこともない力。
「痛い!痛い痛い!すぐに暴力ふらないで!他の女には優しいくせいに!他の女!他の女ぁ!」
彼女の体が傷つかないように抑えながらだとナースコールのスイッチまでもが宙で暴れて始末がつかない。
まるで宇宙空間の無重力だ。
僕は彼女の体を押さえつけるのをやめて、手を握った。
「僕が愛しているのは君だけだよ」
君も愛しているのは僕だけだと思っていた。
「ほ、ほんとうに?」
「うん、本当だよ」
「それなら、健くん、私にキスしてよ」
僕は、健として、君にキスをした。
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