恋をするのに年齢なんて関係ない
※この物語は、フィクション。
※○○(主人公)の視点から見た物語。
雑居ビルと住宅街の狭間にある、古びたブックカフェ。湿った紙の匂いと、煎りたての珈琲豆の香りが漂う店内で、その読書会はひっそりと開かれていた。参加者はわずか5人。
「○○が最近読んだ本は、何?」
斜め向かいの席から、澄んだ声が届く。
声の主は、綾乃。どこか凛とした佇まいの30歳。少し長めの前髪の隙間から覗く黒目がちな瞳が、まっすぐに○○を射抜いていた。彼女は華奢な指先で、白い磁器のコーヒーカップをゆっくりと傾けている。
○○は、一瞬だけ言葉を詰まらせ、あからさまに目を泳がせた。
大人の女性に気後れしないよう、今日のために新調したネイビーのシャツ。その首元が、急に苦しくなった気がした。
「えっと……『湊かなえの告白』かな」
言った瞬間、後悔が走る。もっと高尚な、たとえば古典文学や海外の翻訳小説の名前を挙げるべきだったか。綾乃の眉が、ほんの少しだけ、描いたように美しく跳ね上がった。
「……私は、東野圭吾の白夜行」
短く答えると、綾乃は再びカップに口をつけた。
ふたりの間に、すっと静寂が落ちる。周囲の話し声が遠のき、壁掛け時計の針が刻む音だけがやけに大きく響いた。○○は自分の発言がひどくミーハーで、幼く響いてしまったのではないかと焦り、照れ隠しに自分のカップの縁を指先でなぞった。熱の冷めかけたコーヒーが、微かに揺れる。
読書会が終わり、打ち上げの居酒屋でも二人の会話はどこか上滑りした。
○○が意を決して、綾乃が趣味だと言っていたゲームの話を振ってみても、返ってきたのは「へえ、〇〇くんもやるんだ」という素っ気ない一口。
逆に綾乃が気を遣って、○○が少しだけ勉強していったワインの産地の話を振っても、○○自身知識が浅く、「へえ、ボルドーって有名ですもんね」としか返せなかった。
夜風が心地よい帰り道。駅へ向かう歩道橋の上で、○○は小さくため息を吐き出した。吐き出した息はまだ白くはならないけれど、胸の奥を冷たく冷やした。
「やっぱり……年が離れすぎてるのかな」
彼女の歩幅、選ぶ言葉、ふとした瞬間に見せる落ち着いた仕草。そのすべてが、25歳の自分には眩しすぎて、そして少しだけ遠かった。
橋の上から見下ろす国道には、絶え間なく車のヘッドライトが流れていく。その光の帯を眺めながら、○○はふと思う。自分と綾乃も、あの光のようにすれ違うだけの関係で終わるのだろうか、と。
その日の夜、布団に入ってからも、綾乃の横顔が瞼の裏に焼き付いて離れなかった。カップを傾ける仕草、伏せた睫毛の影、ほんの少しだけ揺れた声のトーン。どれもが、○○の心のどこか柔らかい場所を静かに叩き続けていた。
(また、会いたいな)
そう思う自分に、少し戸惑いながらも、○○はスマートフォンの画面を開いた。読書会の連絡用グループに、次回の感想を投稿する体で、こっそり綾乃のアイコンを確認する。それだけで、頬がじんわりと熱くなるのを感じた。
次の週末。なぜか二人は、街の片隅にある大型の古本屋にいた。
読書会での不完全燃焼を挽回したい○○が、「今度、本当にお互いのおすすめ本を探しませんか」と半ば勢いで誘ったのだ。
店内は静まり返り、独特の紙の匂いが満ちている。
綾乃は文芸書コーナーに立ち、美しい指先で小説の背表紙を優しく撫でるように追っていた。その姿はまるで、本と対話しているかのようだった。
一方の○○は、少し離れたマンガコーナーで、話題の新刊を手に取っていた。
背中合わせの通路。ふたりの視線は決して交わらない。
またしてもすれ違っている。そう思って○○がマンガを棚に戻そうとしたとき、後ろから気配がした。
ふと、綾乃が振り返っていた。
綾乃の視線は、○○の手元にあるマンガの表紙に注がれている。
「ねえ、それ面白いの?」
「あ……うん。めっちゃ面白いよ。登場人物の感情表現がすごくリアルで」
○○が素直に答えると、綾乃は少しだけ目を細めて、手を伸ばした。
「貸して」
「え、読むの? こういうの読むイメージなかったけど……」
「人が『めっちゃ面白い』って言うものは、読んでみたくなるの」
翌週のカフェ。約束通り現れた綾乃は、カバンから少し角の丸くなったそのマンガを取り出した。
「これ、読み終えたよ」
綾乃はいつものブレンドコーヒーを一口飲むと、フッと柔らかく笑った。
「この主人公のライバルのキャラ、めっちゃ腹立つけど……なんか憎めないね。わかる気がする、〇〇くんがハマる理由」
「本当!? すごく嬉しい」
「はい、これお返し。あとね、これ……私からのおすすめ」
綾乃がテーブルの上に滑らせたのは、村上春樹の薄い短篇集だった。
その日の夜、○○は部屋のベッドに寝転がり、ページをめくった。普段はあまり読まない静謐な文章。けれど、読み終えたとき、不思議な余韻が胸に残った。
翌日、○○は綾乃にメッセージを送った。
『読んだよ。この物語の主人公、めっちゃ孤独だけど……でも、なんか温かいね』
すぐに既読がつき、返信が来た。
『それ、私が一番伝えたかった感想。ぴったり一緒だね』
好き嫌いの好みは、最初から最後までぴたりと分かれていた。
綾乃はクラシックが好きで、エナジードリンクを飲みながら仕事をこなすバリバリの働く女性。
○○はアニメソングが好きで、休日は手頃な赤ワインを嗜むのがささやかな贅沢。
でも、その「違い」を否定し合うのではなく、「相手の窓から見える景色」を覗き込み合う時間が、どうしようもなく心地よかった。
「君と話してると、自分の知らない世界がどんどん広がる気がする」
ある日の帰り道、並んで歩く綾乃がぽつりと呟いた。
○○は驚いて彼女を見つめ、自分の頬が耳まで熱くなるのを感じた。
それから二人は、月に二度ほど、示し合わせたように顔を合わせるようになった。読書会という建前はいつしか薄くなり、ただ「会いたいから会う」関係へと、少しずつ形を変えていった。誰からともなく連絡先を交換し、他愛のないスタンプのやり取りが日常に紛れ込んでいく。それは恋人と呼ぶにはまだ淡く、けれど友人と呼ぶには少しだけ濃い、名前のつかない甘やかな時間だった。
綾乃は都心のIT企業でマーケティングの責任者を務めていた。年齢のわりに大きな裁量を任され、部下も十数人抱えている。傍から見れば、まさに「デキる女性」そのものだ。
けれど、その肩書の裏側を、○○はまだ知らなかった。
ある平日の夜、○○は仕事帰りに、綾乃の会社近くまで足を運んだ。特別な用事があったわけではない。ただ、なんとなく、彼女が働くビルを一目見てみたかったのだ。
見上げるほど高い自動ドアのオフィスビル。ガラス張りのロビーの奥、エレベーターホールの明かりだけが煌々と灯っている。時刻はすでに22時を回っていた。
しばらく待っていると、疲れた顔の綾乃がビルから出てきた。いつもの颯爽とした足取りとは違う、どこか重たい歩幅。
「〇〇くん……? どうしたの、こんな時間に」
「なんとなく、会いたくなって」
素直にそう告げると、綾乃は一瞬だけ目を見開き、それからくしゃっと相好を崩した。子供のような、無防備な笑い方だった。
「バカね。連絡くれたら、もう少し早く終わらせたのに」
近くの牛丼屋で、二人は並んでカウンターに座った。綾乃がおしぼりで手を拭きながら、ぽつぽつと話し始める。
「今日、後輩の企画がクライアントに突き返されてね。フォローに走り回ってたら、こんな時間」
「大変だったね」
「うん……でもね、こういう時、ふと思うの。私、この仕事で何を守ってるんだろうって」
綾乃らしくない、弱気な言葉だった。○○は箸を止めて、彼女の横顔を見つめた。街灯とファストフード店の明かりに照らされた頬は、いつもより青白く見えた。
「綾乃さんは、いつも堂々としてるから。そんな風に思うことがあるなんて、知らなかった」
「みんな、そう言うんだよね」
綾乃は自嘲するように笑った。
「『綾乃さんは強いから』『綾乃さんは一人で平気だから』って。でも、強くならなきゃいけなかっただけなんだよ。誰も助けてくれないから、自分で立ってるしかなかっただけ」
その一言が、○○の胸に静かに沈んでいった。
年上であることは、頼りになることと同義ではない。むしろ、年上だからこそ「弱さを見せてはいけない」という無言の重圧を、綾乃はずっと一人で背負ってきたのかもしれない。
「これから、ちゃんと言ってよ。疲れたときとか、しんどいときとか」
○○が言うと、綾乃は少し驚いたように瞬きをした。
「〇〇くんに? 甘えていいの、こんなおばさんが」
「おばさんなんかじゃないよ。綾乃さんは、綾乃さんだよ」
その夜、駅までの道を送る間、綾乃は珍しく○○の腕に自分の腕を絡めてきた。何も言わず、ただ寄り添うように。街灯の明かりが、二人の影を一つに重ねていた。
街灯がオレンジ色に滲む、夜の公園。
ベンチの近くにある大きなクスノキが、夜風に揺れてざわめいている。
歩道をつないで歩いていたとき、綾乃がふと立ち止まり、○○の右腕をキュッと掴んだ。
「ねえ……飾らないでいいから」
「え?」
「〇〇くん、私と会うとき、いつもより少し背筋伸ばしてるでしょ。声のトーンも、ちょっと低くしてる」
見透かされていた。
5歳年下の自分が、頼りなく見えないように。綾乃の隣に立っても恥ずかしくない「男」になろうと、ずっと無理をして背のびをしていたのだ。
○○が言葉を詰まらせていると、綾乃の温かい指先が、肘のあたりからスルスルと手首に向かって滑り落ちてきた。そして、包み込むように手を重ねる。
「ありのままの君がいいの。君が微笑むたび、私はすごく温かい気持ちになるんだから」
街灯のオレンジ色が、綾乃の横顔を柔らかく照らしていた。
照れ隠しに「そんなことないよ」と笑ってみせたけれど、胸の奥がじんわりと、燃えるように熱くなった。
……けれど、恋は甘いだけではない。
数か月後の、ある雨の夜。
○○は一人、公園の冷たいベンチに座り込んでいた。
仕事で大きなミスを重ね、上司から苛烈に叱責され、自分の無力さに打ちのめされていた。25歳。社会人としても中途半端で、自信などどこにもなかった。
吐き出すため息が、白く夜空に浮かんでは消える。
拭っても拭っても、頬を伝う冷たい涙が止まらなかった。情けなくて、惨めで、誰にも会いたくなかった。
すると、後ろから、ふわりと柔らかな香りがした。
いつも綾乃がまとっている、上品でどこか懐かしい柔軟剤と香水の香り。
ハッと振り返ると、そこに綾乃が立っていた。
彼女は言葉を一切発しない。尋問することも、励ますこともしない。ただ、そっと○○の隣に腰掛けた。
肩と肩が、触れ合う。
それだけで、凍りついていた○○の心が少しずつ解けていく。綾乃の存在そのものが、冷え切った身体を優しく包み込んでいくようだった。
沈黙の中、涙が余計にあふれ出て、止まらなくなった。ボロボロと溢れる涙を隠そうと顔を覆う○○に、綾乃はそっと白いハンカチを差し出した。
「……思いはちゃんと伝わってるから」
彼女は夜空を見上げたまま、ボソッと呟いた。
「言葉はいらないよ」
その一言で、○○の胸の奥で何かが弾けた。
自分の情けなさも、弱さも、すべてを受け止めてくれる人がここにいる。言葉を取り繕う必要なんて、最初からなかったのだ。
そんな君の色に、染まりたいな
心の中で、静かに、けれど強い誓いが生まれた。
翌朝、目を覚ますと、綾乃から一通のメッセージが届いていた。
『昨日は、よく頑張ったね。今日は少し肩の力を抜いて』
たったそれだけの言葉が、どんな慰めよりも○○の心を軽くした。
○○が知らない綾乃の過去がある。
彼女は27歳のとき、同い年の恋人と婚約寸前まで進んでいた。だが相手は、綾乃の仕事への情熱を「女のくせに」と揶揄し、最終的には「俺より稼ぐ女とは結婚できない」と告げて去っていった。
それ以来、綾乃は自分の強さを鎧のように身にまとうようになった。誰にも弱みを見せず、誰にも頼らず、一人で完結できる女性であろうとした。だが鎧は、時に着ている本人すら傷つける。
ある晩、綾乃の部屋を訪れた○○は、本棚の奥に隠すようにしまわれた一冊のアルバムを見つけた。
「これ……」
「あ……見ちゃった? 昔の、ね」
綾乃は苦笑いしながら、アルバムを○○の手から静かに取り上げた。
「話してくれる? 無理にとは言わないけど」
○○が静かに促すと、綾乃はしばらく黙り込んだあと、ぽつり、ぽつりと過去を語り始めた。婚約寸前で壊れた恋。友人たちが次々と結婚し、母親から「まだなの」と急かされるプレッシャー。仕事で結果を出しても、プライベートの空白を埋められない焦り。
「30歳って、色々と『答え』を求められる年齢なんだよね。仕事も、恋愛も、結婚も。でも私、何一つ、ちゃんとした答えを持ってなくて」
綾乃の声が、微かに震えていた。
○○は、彼女の手をそっと握った。
「答えなんて、今すぐ出さなくていいよ。僕がずっと隣にいるから、ゆっくり見つけていけばいい」
○○の言葉に、綾乃は驚いたように顔を上げた。それから、堪えきれなくなったように、静かに肩を震わせて泣いた。年上らしく振る舞ってきた綾乃が、初めて○○の前で、素のままの弱さをさらけ出した瞬間だった。
「ごめんね、こんな年上なのに、みっともないところ見せて」
「みっともなくなんかない。綾乃さんが本当の綾乃さんでいてくれることが、僕にとっては何より嬉しいことだから」
その夜、二人はいつまでも寄り添ったまま、言葉少なに時間を過ごした。年齢という数字の裏に隠れていた、生身の孤独と孤独が、ようやく重なり合った夜だった。
二人の関係が深まるにつれ、周囲の目も少しずつ変わっていった。
○○の友人たちは、飲み会の席で無邪気に囃し立てた。
「マジで30歳の彼女とか、大人だな〜。でもさ、将来どうすんの? 綾乃さんもう子供欲しい年齢なんじゃない?」
悪意のない言葉ほど、時に鋭い棘となって刺さる。○○は愛想笑いを浮かべながらも、その夜は一人、コンビニの前のベンチで長い間座り込んでいた。
(僕は、綾乃さんを幸せにできるんだろうか)
一方、綾乃もまた、女友達との食事会で似たような視線にさらされていた。
「綾乃、年下くんと付き合ってるんだって? いいな〜、可愛くて。でも、結婚とか考えてる? あんまりのんびりしてると、綾乃だけ置いていかれちゃうよ」
友人の何気ない一言に、綾乃は曖昧な笑みを返すことしかできなかった。
その週末、二人は久しぶりに落ち着いて過ごすはずの休日デートで、ぎこちない空気に包まれていた。お互いに、周囲から投げかけられた言葉を胸の奥にしまい込んだまま、うまく笑えずにいた。
「……〇〇くん、なんか元気ないね」
「綾乃さんこそ」
沈黙が落ちる。カフェの窓の外を、通り過ぎる人々の影がゆっくりと流れていった。
やがて綾乃が、意を決したように口を開いた。
「友達に、色々言われたの。子供とか、結婚とか。年齢のこと」
「僕も、似たようなこと言われたよ。……綾乃さんを幸せにできるのかなって、正直、自信がなくなった」
正直な告白に、綾乃は少し驚いた顔をしたあと、静かに首を横に振った。
「幸せって、誰かに『してもらう』ものじゃないと思うよ。二人で『作っていく』ものじゃないかな」
その言葉が、○○の胸のつかえをすっと軽くした。他人の物差しで測られる幸せではなく、二人だけの速度で歩む幸せ。そのことに、二人はこの日、あらためて気づかされたのだった。
けれど、心の奥底にくすぶる不安の種は、まだ完全には消えていなかった。
不安の種は、静かに、しかし確実に、二人の間に亀裂を生んでいった。
綾乃の会社で大規模なプロジェクトが立ち上がり、綾乃は連日深夜まで働くようになった。○○と会う時間はどんどん減り、返信も遅くなる。
○○もまた、後輩の指導を任されるようになり、慣れない責任にてんてこ舞いの日々を送っていた。
すれ違う二人の間で、些細な誤解が積み重なっていく。
「今週も会えないの?」
『ごめん、本当に忙しくて。来週は必ず』
そんなやり取りが、何週も続いたある夜。○○は珍しく苛立ちを隠せず、こんなメッセージを送ってしまった。
『正直、僕のことより仕事の方が大事なんじゃないかって、最近思うことがある』
既読がついたまま、しばらく返信が来なかった。数時間後、届いたのは短い一文だった。
『そんな風に思われてたなんて、悲しい』
それ以来、二人の間には目に見えない壁ができてしまった。
数日後、久しぶりに顔を合わせた喫茶店。向かい合って座っても、以前のような自然な会話は生まれなかった。
「ごめん、あの時のメッセージ、言い過ぎた」
○○が先に切り出すと、綾乃は小さく首を振った。
「ううん、私も、ちゃんと説明しなかったのが悪かった。プロジェクトが本当に大変で、頭がいっぱいで……気づいたら、〇〇くんに寂しい思いさせてた」
「僕も、大人げなかった。綾乃さんが頑張ってるの、本当はちゃんと分かってたのに」
言葉を交わしながらも、どこか、以前のような温度が戻らない。二人とも、それを痛いほど感じていた。
「ねえ、〇〇くん」
綾乃が、ふいに真剣な眼差しで○○を見つめた。
「私たち、このまま一緒にいて、本当に大丈夫なのかな。5年って、やっぱり大きいのかもしれない」
綾乃の一言に、○○の心臓が、ぎゅっと締め付けられた。
その日を境に、二人は少しの間、距離を置くことになった。
はっきりと別れを告げたわけではない。ただ、お互いに「一度、頭を冷やそう」という暗黙の了解のもと、連絡を控えるようになった。
○○にとって、その数週間は、これまでの人生で最も長く、そして最も自分自身と向き合った時間だった。
(僕は、綾乃さんの隣に立つ資格があるのか)
(背伸びばかりで、本当の意味で「大人」になれていなかったんじゃないか)
夜な夜な自問自答を繰り返しながら、○○は少しずつ変わろうとした。仕事では、これまで避けていた責任ある仕事に自ら手を挙げるようになった。後輩の失敗を庇い、上司との折衝も引き受けた。家では、これまで適当にしていた自炊を丁寧に行い、生活のリズムを整えた。
「大人になる」ということは、綾乃の隣に釣り合う自分になるということではなく、自分自身の足で、しっかりと地面に立つということなのだと、○○はようやく気づき始めていた。
一方の綾乃も、離れた時間の中で、静かに自分を見つめ直していた。
プロジェクトが一段落したある夜、綾乃は一人暮らしの部屋のベランダに出て、夜空を見上げていた。
(私、いつも『大人だから』って、一人で抱え込むことを選んできた。でも、〇〇くんは違った。ちゃんと弱さを見せてくれた。私は、彼にそれを返せていただろうか)
思えば、○○が仕事の失敗で泣いていたあの雨の夜、綾乃は何も言わず、ただ寄り添うことしかできなかった。それは優しさであると同時に、自分の弱さを晒すことへの、無意識の恐れでもあったのかもしれない。
(強がるのは、もうやめよう)
綾乃はスマートフォンを手に取り、しばらく画面を見つめたあと、ゆっくりと文字を打ち込み始めた。
『会って、話したいことがあります』
○○のもとに綾乃からのメッセージが届いたのは、離れて3週間が経った、肌寒い秋の夜だった。
指定されたのは、二人が初めて古本屋で言葉を交わした、あの本屋の近くの小さな公園だった。
約束の時間より早く着いた○○は、ベンチに座り、白い息を吐きながら綾乃を待った。緊張で、指先が震える。
やがて、街灯の下に、見慣れた華奢なシルエットが現れた。
「待った?」
「ううん、全然」
二人はぎこちなく、少し距離を空けてベンチに腰掛けた。しばらくの沈黙のあと、先に口を開いたのは綾乃だった。
「この6週間、ずっと考えてた。私たちの『違い』のこと」
「僕も、同じ」
「私ね、気づいたの。年齢の差が問題なんじゃなくて、私が『年上らしく』完璧でいようとしすぎてたことが、〇〇くんを苦しめてたんじゃないかって」
綾乃は膝の上で、両手をぎゅっと握りしめた。
「本当は、私だってすごく不安なの。この先の人生、ちゃんと〇〇くんを幸せにできるのかって。でも、その不安を見せることが怖くて、ずっと『大丈夫なふり』をしてた」
「綾乃さん……」
「〇〇くんは、私に『飾らないでいい』って、いつも言ってくれたよね。でも私は、あなたにそれを返せてなかった。ごめんね」
○○は、静かに首を横に振った。
「僕こそ、ごめん。綾乃さんに釣り合う『大人』になろうと必死で、結局、綾乃さんの本当の気持ちに、ちゃんと向き合えてなかった」
「離れてる間、色々変わろうとしたんだ。仕事も、生活も。でも一番変わったのは……綾乃さんの隣に立つために変わるんじゃなくて、僕自身のために、ちゃんと生きようって思えたこと」
綾乃の瞳に、うっすらと涙が浮かんだ。
「私も、変わろうとした。強がるのをやめて、ちゃんと弱さも見せられる人になりたいって」
二人の視線が、ゆっくりと重なる。
「綾乃さんの『色』が好きだよ。凛としてるところも、ふとした時に見せる寂しさも、全部」
「〇〇くんの『色』も好き。真っ直ぐで、不器用で、でも誰よりも優しいところ」
長い沈黙のあと、綾乃がそっと○○の手を握った。冷たい夜気の中、その手の温もりだけが、確かな現実として二人をつないでいた。
「もう一度、ちゃんと一緒に歩いてくれる? 今度は、お互いに飾らずに」
「うん。何度だって、一緒に歩くよ」
それから、二人で過ごす時間は当たり前のように増えていった。
深夜のコンビニ帰りに、一本のソーダアイスを半分こにして分かち合うこと。
青信号に変わるのを待つ数秒間、どちらからともなくキュッと手を繋ぎ直すこと。
ドライブ中、ラジオから流れる古いヒット曲に、綾乃が「あ、この曲、昔よく聴いたな」となつかしそうに目を細める。
○○が「これ、俺が幼稚園の頃に流行った曲だ」と笑うと、綾乃が「ちょっと!ジェネレーションギャップで攻撃しないでよ」と肘でつつく。
そんな些細なやり取りのすべてが、○○にとっては新しく、鮮やかだった。
綾乃と出会うまでの日常は、どこか無機質なモノクロームだったのかもしれない。君が隣にいるだけで、世界にはこんなにも多様な色が溢れていたのだと知った。
(これは……僕にとって、最初で最後の恋だ)
○○は確信していた。
一時的な熱病ではない。綾乃の笑顔を、死ぬまで隣で見続けていたい。一緒にシワを重ねて、人生の最後を迎えるその日まで、ずっと手を繋いでいたい。
けれど、ふとした瞬間に「5歳の差」という現実が残酷な影を落とす。
生物学的に、あるいは確率的に、綾乃が自分よりも先にこの世を旅立ってしまうかもしれない。自分が年老いたとき、彼女はもっと先に未来へ行ってしまっているのかもしれない。
そんな未来を想像すると、胸が張り裂けそうになる。
それでも、○○の答えは決まっていた。
「未来の長さなんて関係ない。どんなときでも、ありのままの君を抱きしめたい」
ある夜。綾乃の部屋。
部屋の明かりを落とし、小さな間接照明だけが灯る室内で、綾乃が眠そうにゴシゴシと目をこすっていた。無防備な、30歳の大人の女性が見せる、子供のような素顔。
○○はたまらなくなって、そっと彼女の華奢な体を強く抱きしめた。
「〇〇くん……?」
「お願い……。僕だけに見せるその眼差し、ずっと離したくない」
震える声でそう告げると、綾乃は驚いたように目を見開いた。
そして、すべてを包み込むような、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「バカね……。私だって、離したくないよ」
綾乃の腕が、○○の背中にまわされる。
ふたりは、年齢の差を「越えられない壁」ではなく、お互いを彩る「色」として愛するようになった。
○○の好きなリーズナブルな赤ワインと、綾乃が仕事のお供にするエナジードリンク。
綾乃が部屋で流す静かなクラシックと、○○のプレイリストから流れるアップテンポのアニソン。
交わることのなかったはずの二つの人生が混ざり合い、世界でたった一つの、美しい絵の具になっていく。
関係が確かなものになるにつれ、二人は「これから」について、より具体的に語り合うようになった。
その第一歩として、○○は綾乃を自分の実家に連れていくことを決めた。正直、緊張で前夜はほとんど眠れなかった。両親が年齢差をどう受け止めるか、不安が拭えなかったのだ。
実家のリビング。○○の母は、綾乃の落ち着いた立ち居振る舞いに、最初こそ少し戸惑った様子を見せたが、話すうちにすぐに打ち解けた。
「うちの息子、まだまだ子供っぽいところがあって、ご迷惑おかけしてないかしら」
「いえ、〇〇くんの真っ直ぐなところに、いつも助けられています」
綾乃の言葉に、○○の母は目を細めて微笑んだ。
一方、○○の父は終始無言だったが、帰り際、玄関先で○○にだけ小さく耳打ちした。
「年齢なんて、二人が幸せならどうでもいい話だ。ただ彼女を大事にできる男になれ」
父の短い一言が、○○の胸に深く刻まれた。
数週間後、今度は綾乃の実家を訪れる番だった。綾乃の母は開口一番、心配そうな顔でこう尋ねた。
「綾乃、本当に大丈夫なの? 5つも年下だなんて……あなたが苦労するんじゃない?」
母親らしい、率直な不安の言葉だった。綾乃は静かに、けれどはっきりと答えた。
「お母さん、私、これまでずっと『しっかり者』でいなきゃって、無理してた。でも〇〇くんの前だと、素のままの自分でいられるの。年齢じゃなくて、この人だから、一緒にいたいと思えたんだよ」
娘の言葉に、綾乃の母は少し驚いた表情を見せたあと、ふっと肩の力を抜いたように笑った。
「……そう。あなたがそんな風に笑うの、久しぶりに見た気がするわ」
家族という現実の壁は、想像していたよりも優しく、二人を迎え入れてくれた。それでも、越えなければならない小さなハードルはまだいくつも残っていることを、二人はこれから知ることになる。
婚約を意識し始めたころ、綾乃に思いがけない話が舞い込んだ。海外・シンガポール支社への、栄転の打診である。
キャリアとしては願ってもないチャンスだった。だが、それは同時に、○○との物理的な距離を意味していた。
「正直、迷ってる」
綾乃は夜、電話越しにぽつりと打ち明けた。
「これまで頑張ってきたことが、ようやく形になる話だと思う。でも……〇〇くんと離れることを考えると」
○○は、しばらく言葉を選んでから、静かに答えた。
「綾乃さんの人生だから、綾乃さんが決めていいんだよ。僕のことは、気にしないで」
けれど、その言葉が本心でないことは、○○自身が一番よく分かっていた。電話を切ったあと、○○は一人、暗い部屋で膝を抱えた。
(本当は、行かないでほしい。ずっと隣にいてほしい)
そう思う一方で、綾乃の可能性を自分の都合で縛りたくないという気持ちも、確かに存在していた。
数日後、○○は意を決して、綾乃のマンションを訪れた。
「さっきの電話、嘘をついた。本当は、行ってほしくない。でも、それを口にしたら、綾乃さんの選択肢を奪うことになる気がして、言えなかった」
○○の正直な告白に、綾乃は静かに目を伏せた。
「〇〇くん……」
「僕は、綾乃さんの隣にいたい。だけど、綾乃さんの夢や仕事を諦めさせてまで、一緒にいたいわけじゃない。だから一緒に、考えたい。二人で、答えを出したい」
長い沈黙のあと、綾乃は小さく頷いた。
「ありがとう。正直に言ってくれて」
それから二人は、何日もかけて、これからのことを話し合った。遠距離という選択肢、○○がキャリアの節目で海外に挑戦する可能性、あるいは綾乃が国内でのキャリアを選び直す可能性、あらゆる道を、対等な立場で検討し合った。
最終的に綾乃が下した決断は、シンガポール行きを辞退することだった。
「これは、〇〇くんのために諦めたわけじゃないよ。私が、この人と一緒にいる人生を選びたいと、心から思ったから」
綾乃の言葉に迷いは一切なかった。○○は、綾乃の選択の重みを、静かに、しかし深く受け止めた。
季節が一巡し、再び雨の多い季節が巡ってきた。あの、公園のベンチで綾乃が寄り添ってくれた夜から、ちょうど一年が経とうとしていた。
○○は、その夜と同じ公園で、綾乃にプロポーズをしようと決めていた。
小さな箱をポケットに忍ばせ、○○は約束の時間より早く公園に着いた。あいにく、朝から降り続いていた雨は、夕方になってもなかなか止まなかった。
(予定が狂ったな……)
苦笑しながら空を見上げていると、雨脚が徐々に弱まり、やがて雲の切れ間から、柔らかな夕陽が差し込み始めた。濡れたアスファルトが、オレンジ色の光を反射してきらきらと輝いている。
そこへ、傘を畳みながら綾乃が現れた。
「ごめん、待った? 雨、すごかったね」
「ちょうど今、止んだところだよ」
二人は、あの夜と同じベンチに並んで腰掛けた。雨上がり特有の、土と緑の匂いが、鼻先をくすぐる。
「綾乃さん」
「なに?」
○○は、震える手でポケットの箱を握りしめながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「僕たち、5年っていう差があって、色々なすれ違いも、不安も、乗り越えてきたと思う。綾乃さんの強さの裏にある孤独も、僕の未熟さも、全部知った上で、これからも一緒にいたい」
綾乃は、息をのんで○○を見つめていた。
「僕には、綾乃さんみたいな余裕も、経験もまだない。でも、綾乃さんの色を、これから先の人生、ずっと隣で見ていたい。綾乃さんの喜びも、悲しみも、全部一緒に背負っていきたい」
○○はベンチから立ち上がり、綾乃の前に片膝をついた。
雨上がりの澄んだ空気の中、小さな箱を開く。
「結婚してください」
綾乃の瞳から、堪えきれなかった涙がひとしずく、こぼれ落ちた。
「……バカ。こんな、不意打ちで」
「ずっと、この場所で伝えたかったんだ」
しばらく涙をぬぐっていた綾乃は、やがて、これ以上ないほど柔らかな笑顔を浮かべた。
「うん。よろしくお願いします……」
夕陽に照らされた公園に、二人の影が寄り添うように重なった。あの夜、言葉のいらなかった沈黙の代わりに、今度は確かな約束の言葉が、静かに夜空へと溶けていった。
夜空の下。街灯の明かりが二人の影を長く伸ばしている。
歩道を歩きながら、綾乃がまた、いたずらっぽく○○の右腕を引いた。
「飾らないでいいからね」
もう、背伸びの必要はなかった。○○は深く息を吸い込み、心からの笑顔を返した。
「うん。……君の色に、染まっていくよ」
「ふふ、なにそれ。臭いセリフ」
綾乃が楽しそうに声をあげて笑う。その笑い声が、夜の空気に心地よく響いた。
二人はしっかりと手を繋ぎ直し、歩き出す。
数か月後、二人はささやかな、けれど心から満たされた結婚式を挙げた。友人たちの前で、綾乃は「年齢差なんて、二人にとってはもう些細なことだった」と晴れやかに笑い、○○は「僕を『大人』にしてくれたのは、綾乃さんです」と、感謝の言葉を涙ながらに伝えた。
10年後、20年後、二人がどうなっているかはわからない。
5歳の差がもたらす試練や、すれ違いも、これから何度だって訪れるだろう。未来なんて、誰にもわからない。
でも、今この瞬間。
二人が歩む道の先には、鮮やかで、愛おしい世界が、どこまでも広がっていた。
そしてきっと、これから先も、どんな色の日々が待っていようとも、二人は互いの色を混ぜ合わせながら、世界にたった一つの絵を描き続けていくのだろう。
