運命の恋と新しい自分に出会うとき
※ この物語は、フィクション。
※ 綾乃(ヒロイン)視点から見た物語
雑居ビルと住宅街の狭間にある、古びたブックカフェ。湿った紙の匂いと、煎りたての珈琲豆の香りが漂う店内で、綾乃はいつものように背筋を伸ばして座っていた。
30歳。この歳になると、初対面の相手にどう見られるか、無意識のうちに計算してしまう自分がいる。
「○○が最近読んだ本は、何?」
斜め向かいの席に座る○○に、綾乃は自分でも少し驚くほど自然に声をかけていた。理由は分からない。ただ、○○の落ち着かない視線の泳ぎ方や、緊張でわずかに強張った肩のラインが、なぜか目に留まったのだ。
○○は一瞬言葉を詰まらせ、それから照れくさそうに答えた。
「えっと……『湊かなえの告白』かな」
その答えに、綾乃は思わず眉を上げた。意外だった、というより、正直で、素直だと思った。飾らない答え。
「……私は、東野圭吾の白夜行」
短く返しながら、綾乃はカップに口をつけた。本当は、もっと打ち解けた言い方もできたはずだ。でも、年上として、変に馴れ馴れしくしてはいけないという妙な意識が、いつも言葉にブレーキをかけてしまう。
読書会のあとの居酒屋でも、その調子は変わらなかった。○○が話題に出したゲームの話に、綾乃はつい素っ気なく「へえ、〇〇くんもやるんだ」とだけ返してしまった。本当はもっと聞きたかったのに。彼が好きなゲームの、どんなところが面白いのか、興味があったのに。
(また、こうやって壁を作ってる)
逆に綾乃が振ったワインの産地の話にも、○○は要領を得ない返事しかできなかった。それを見て、綾乃はふと、自分の中に小さな苛立ちに似た感情が生まれかけているのに気づいて、慌てて打ち消した。
(違う。苛立ちなんかじゃない。私はただ……)
言葉にできない感情の正体を、その夜、綾乃は一人暮らしの部屋のベッドで何度も反芻していた。
年下の男の子と、うまく打ち解けられなかった。それだけのことだ。なのに、どうしてこんなに、彼の泳いだ視線や、照れたような笑い方が、頭から離れないのだろう。
(会いたい、と思ってる。私が)
その自覚は、少し気恥ずかしく、そしてどこか、久しく忘れていた甘やかな感覚を伴っていた。
次の週末、街の片隅にある大型の古本屋で、綾乃は文芸書コーナーに立っていた。背表紙を指先でなぞりながら、少し離れたマンガコーナーにいる○○の気配を、意識の端でずっと感じていた。
(話しかけたいけど、何を話せばいいんだろう)
年上らしく余裕を持って接しなければ。そう思えば思うほど、言葉が出てこなくなる。
けれど、ふと視線を上げたとき、○○が手に取っていたマンガの表紙が目に入った。何気なく、思いのままに口が動いた。
「ねえ、それ面白いの?」
自分でも驚くほど自然な言葉だった。作為なく口をついて出た問いかけに、綾乃はどこかほっとした。年上の余裕を装わなくても、自分は普通に、この人と話せるのだと。
○○が嬉しそうに答えるのを見て、綾乃は思わずそのマンガを借りることにした。
(別に、彼に合わせたわけじゃない。本当に、興味が湧いただけ)
そう自分に言い訳をしながらも、その夜、綾乃は柄にもなく、いそいそとページをめくった。読み進めるうちに、本当に物語に引き込まれていく自分がいた。
翌週のカフェで感想を伝えたとき、○○が心底嬉しそうな顔をしたのを見て、綾乃の胸の奥が、ふわりと温かくなった。
(この顔が見たかったのかもしれない)
お返しに、綾乃は村上春樹の短篇集を差し出した。普段は自分の内面と静かに向き合うために読む本だ。他人に薦めるのは、実は少し勇気がいることだった。
翌日届いた○○のメッセージ『この物語の主人公、めっちゃ孤独だけど……でも、なんか温かいね』を読んで、綾乃はスマートフォンを持つ手を、しばらく止めていた。
(分かってくれた。私が一番大事にしてる部分を)
好みは何もかも違う。クラシックとアニメソング、エナジードリンクと赤ワイン。それでも、その違いが少しも苦にならない。むしろ、覗いたことのない窓の外を見せてもらっているような、新鮮な喜びがあった。
「君と話してると、自分の知らない世界がどんどん広がる気がする」
帰り道、その言葉が自分の口から零れ落ちたとき、綾乃は少し驚いた。飾らず、素直に、自分の気持ちを言葉にできた。そんな瞬間が、いつからこんなに愛おしくなったのだろう。
○○の頬が赤くなるのを見て、綾乃は目を逸らしながら、密かに口元を緩めた。
綾乃は都心のIT企業でマーケティングの責任者を務めていた。仕事における評価は高く、部下からの信頼も厚い。だが、その裏側には、誰にも見せたことのない疲弊が横たわっていた。
ある平日の夜、22時を過ぎてようやくオフィスビルを出た綾乃は、思いがけずビルの前で待っていた○○の姿に気づいて足を止めた。
「〇〇くん……? どうしたの、こんな時間に」
「なんとなく、会いたくなって」
その言葉に、綾乃は自分でも意外なほど、胸の奥が緩むのを感じた。誰かにただ「会いたい」と思われる。それだけのことが、こんなにも心を軽くするなんて、忘れていた。
近くの牛丼屋のカウンターで、綾乃は珍しく弱音を零した。
「今日、後輩の企画がクライアントに突き返されてね……こういう時、ふと思うの。私、この仕事で何を守ってるんだろうって」
言ってしまってから、しまった、と思った。年上として、いつも堂々としていなければならないのに。
「みんな、そう言うんだよね。『綾乃さんは強いから』『綾乃さんは一人で平気だから』って。でも、強くならなきゃいけなかっただけなんだよ」
自嘲するように笑いながら、綾乃は自分の言葉に、自分自身が一番驚いていた。誰かに、こんな本音を漏らしたのは、いつぶりだろう。
○○は箸を止め、まっすぐに綾乃を見つめていた。その眼差しには、同情でも哀れみでもない、ただ静かに受け止めようとする温かさがあった。
「これから、ちゃんと言ってよ。疲れたときとか、しんどいときとか」
「〇〇くんに? 甘えていいの、こんなおばさんが」
自嘲気味に言った言葉に、○○は間髪入れずに答えた。
「おばさんなんかじゃないよ。綾乃さんは、綾乃さんだよ」
その一言が、綾乃の胸の奥深くにある、固く閉ざしていた扉を、そっとノックした。
駅までの帰り道、綾乃は珍しく○○の腕に自分の腕を絡めた。誰かに寄りかかることが、こんなにも心地よいものだったと、久しく忘れていた感覚を、彼が思い出させてくれた。
街灯がオレンジ色に滲む、夜の公園。歩道を並んで歩いていたとき、綾乃はふと立ち止まり、○○の腕を掴んだ。
「ねえ……飾らないでいいから」
○○が、いつも自分の前で少し背伸びをしていることに、綾乃はとっくに気づいていた。声のトーンを低くし、背筋を伸ばし、年上の自分に見合う「男」であろうとする姿が、健気で、そして少し切なかった。
「ありのままの君がいいの。君が微笑むたび、私はすごく温かい気持ちになるんだから」
と言いながら、綾乃は自分自身にも、同じ言葉を返してほしいと、心のどこかで思っていた。私も、ありのままでいたい。でも、それがどうしても、うまくできない。
年上として、余裕を見せなければならない。弱さを見せれば、幻滅されるかもしれない。そんな見えない鎖が、綾乃の心を、いつも縛り付けていた。
数か月後の雨の夜。○○から届いた、いつもと様子の違うメッセージに、綾乃は胸騒ぎを覚えて公園へと向かった。
ベンチに座り込み、肩を震わせて泣いている○○の姿を見つけたとき、綾乃の中で、何かがすっと定まった。
(言葉はいらない。ただ、隣にいよう)
そっと隣に腰掛け、肩を寄せる。それ以上、何を言えばいいのか、実は綾乃自身にも分からなかった。慰めの言葉も、励ましの言葉も、今の彼には陳腐に響いてしまう気がした。
ただ、白いハンカチを差し出しながら、絞り出すように呟いた。
「……思いはちゃんと伝わってるから。言葉はいらないよ」
夜空を見上げながら、綾乃は自分の頬にも、知らぬ間に涙が伝っていたことに気づいていなかった。
(この子の弱さを、私はちゃんと受け止められている。だったら私の弱さも、いつか受け止めてもらえるだろうか)
その問いの答えを、綾乃はまだ、自分の中に見つけられずにいた。
綾乃には、誰にも語ったことのない過去があった。
27歳のとき、同い年の恋人と婚約寸前まで進んでいた。だが相手は、綾乃の仕事への情熱を「女のくせに」と揶揄し、最終的には「俺より稼ぐ女とは結婚できない」と告げて去っていった。
その恋人の言葉は、綾乃の心に深く根を張り、以来、彼女は自分の強さを鎧のようにまとうようになった。誰にも弱みを見せず、誰にも頼らず、一人で完結できる女性であろうとした。
ある晩、○○が本棚の奥に隠していたアルバムを見つけてしまった。
「これ……」
「あ……見ちゃった? 昔の、ね」
苦笑いしながらアルバムを取り上げた瞬間、綾乃の胸の奥で、長年抑え込んできた感情が、堰を切ったようにあふれ出しそうになった。
「話してくれる? 無理にとは言わないけど」
○○の静かな問いかけに、綾乃はしばらく黙り込んだあと、ぽつり、ぽつりと過去を語り始めた。壊れた婚約、次々と結婚していく友人たち、母親からのプレッシャー、そして仕事で結果を出しても埋まらないプライベートの空白。
「30歳って、色々と『答え』を求められる年齢なんだよね。仕事も、恋愛も、結婚も。でも私、何一つ、ちゃんとした答えを持ってなくて」
言葉にするたび、これまで見ないふりをしてきた不安の輪郭が、はっきりと形を持っていくのを感じた。怖かった。誰かにこの弱さを見せることが、これほどまでに恐ろしいことだったなんて。
でも、○○がそっと手を握ってくれたとき、綾乃の中の何かが、静かに溶けていった。
「答えなんて、今すぐ出さなくていいよ。僕がずっと隣にいるから、ゆっくり見つけていけばいい」
○○の言葉に、綾乃はとうとう、堪えきれなくなった。
「ごめんね、こんな年上なのに、みっともないところ見せて」
そう言いながらも、綾乃の胸には、これまで感じたことのない解放感が広がっていた。強くあることをやめても、この人は離れていかない。その確信が、涙とともに、心の奥深くにゆっくりと染み込んでいった。
女友達との食事会。「綾乃、年下くんと付き合ってるんだって? いいな〜、可愛くて。でも、結婚とか考えてる? あんまりのんびりしてると、綾乃だけ置いていかれちゃうよ」
悪意のない言葉ほど、時に鋭い棘となって刺さる。綾乃は曖昧な笑みを返しながら、内心では小さくざわめく心を必死に抑えていた。
(置いていかれる、か。私はもう、周りと同じペースでは生きられないのかもしれない)
帰り道、夜の街を一人歩きながら、綾乃はふと足を止めた。30歳という年齢が、まるで期限付きの何かのように扱われることへの、言いようのない苛立ちと、同時に拭えない焦り。
その週末、○○とのデートで、綾乃はどこか上の空だった気がする。○○もまた、友人たちから何か言われたのだろう、いつになく元気がなかった。
カフェの窓の外を眺めながら流れる沈黙の中、綾乃は意を決して口を開いた。
「友達に、色々言われたの。子供とか、結婚とか。年齢のこと」
「僕も、似たようなこと言われたよ。……綾乃さんを幸せにできるのかなって、正直、自信がなくなった」
その正直な告白に、綾乃は驚くと同時に、ふと自分の中で何かが整理されていくのを感じた。彼も、同じように不安を抱えていた。自分だけが一方的に「年上」の重圧を背負っているわけではなかったのだと。
「幸せって、誰かに『してもらう』ものじゃないと思うよ。二人で『作っていく』ものじゃないかな」
自分の口からその言葉が出た瞬間、綾乃は、自分自身にもその言葉を言い聞かせるように、静かに頷いた。
他人の物差しで測られる幸せではなく、二人だけの速度で歩む幸せ。そう頭では分かっていても、心の奥底にくすぶる不安の種は、まだ完全には消えてくれなかった。
会社で大規模なプロジェクトが立ち上がり、綾乃は連日深夜まで働く日々に突入した。○○との時間は削られ、返信も次第に遅くなっていく。
(分かってはいるけど、今はどうしようもない)
そう自分に言い聞かせながらも、後ろめたさが胸の奥に澱のように溜まっていった。
ある夜届いた○○のメッセージ『正直、僕のことより仕事の方が大事なんじゃないかって、最近思うことがある』を読んだ瞬間、綾乃の中で、何かがカッと熱くなった。
(分かってくれてると思ってたのに)
怒りにも似た感情のまま、指先が震える。けれど、それ以上に強かったのは、悲しみだった。自分が必死に守ろうとしているものが、大切な人を傷つけていたという事実が、重くのしかかった。
『そんな風に思われてたなんて、悲しい』
○○に短い返信を送ったあと、綾乃はスマートフォンを閉じ、しばらく動けなかった。
数日後、久しぶりに顔を合わせた喫茶店。以前のような自然な会話が生まれない気まずさの中、綾乃はふと、ずっと避けていた問いを、自分自身に投げかけざるを得なくなった。
「私たち、このまま一緒にいて、本当に大丈夫なのかな。5年って、やっぱり大きいのかもしれない」
口にした瞬間、後悔にも似た感情が押し寄せた。本当はそんなこと、心の底では思っていない。ただ、疲れと不安が、綾乃に弱気な言葉を言わせてしまっただけだった。
けれど、一度口に出してしまった言葉は、もう取り消せない。○○の顔に浮かんだ動揺の色を見て、綾乃の胸は、鉛のように重く沈んでいった。
その日を境に、二人は少しの間、距離を置くことになった。
一人になった夜、綾乃はベランダに出て、夜空を見上げていた。
(私、いつも『大人だから』って、一人で抱え込むことを選んできた。でも、〇〇くんは違った。ちゃんと弱さを見せてくれた。私は、彼にそれを返せていただろうか)
思えば、○○が仕事の失敗で泣いていたあの雨の夜、綾乃は何も言わず、ただ寄り添うことしかできなかった。それは優しさであると同時に、自分の弱さを晒すことへの、無意識の恐れでもあったのかもしれない。
プロジェクトが一段落したある夜、綾乃はようやく、自分自身の心の奥に、ずっと蓋をしてきた本音を見つけた。
(強がるのは、もうやめよう)
年上だから完璧でいなければ、という思い込みは、いつしか綾乃自身を苦しめる呪縛になっていた。○○が求めていたのは、完璧な年上の女性ではなく、ありのままの綾乃だったのだと、今更ながらに気づく。
離れている間、綾乃は仕事の合間に、これまで見ないふりをしてきた自分の弱さと、丁寧に向き合った。友人に電話をかけ、初めて自分から弱音を吐き出したりもした。
「私、変わりたいの。強がるのをやめて、ちゃんと弱さも見せられる人になりたい」
そう友人に打ち明けたとき、心の中の何かが、ようやく軽くなった気がした。
スマートフォンを手に取り、しばらく画面を見つめたあと、綾乃はゆっくりと文字を打ち込み始めた。
『会って、話したいことがあります』
送信ボタンを押す指先は、少しだけ震えていた。
肌寒い秋の夜、二人は初めて言葉を交わした本屋の近くの、小さな公園で再会した。
約束の時間に少し遅れて公園に着くと、ベンチに座って待つ○○の姿があった。緊張しているのだろう、指先が微かに震えているのが分かった。
「待った?」
「ううん、全然」
ぎこちなく、少し距離を空けてベンチに腰掛ける。しばらくの沈黙のあと、綾乃は先に口を開いた。この3週間、何度も頭の中で練習してきた言葉だった。
「この3週間、ずっと考えてた。私たちの『違い』のこと」
「僕も、同じ」
「私ね、気づいたの。年齢の差が問題なんじゃなくて、私が『年上らしく』完璧でいようとしすぎてたことが、〇〇くんを苦しめてたんじゃないかって」
膝の上で、両手をぎゅっと握りしめながら、綾乃は続けた。
「本当は、私だってすごく不安なの。この先の人生、ちゃんと〇〇くんを幸せにできるのかって。でも、その不安を見せることが怖くて、ずっと『大丈夫なふり』をしてた」
言葉にするたび、胸の中の重石が、少しずつ軽くなっていくのを感じた。
「〇〇くんは、私に『飾らないでいい』って、いつも言ってくれたよね。でも私は、あなたにそれを返せてなかった。ごめんね」
○○が静かに首を横に振り、自分自身の変化を語り始めるのを、綾乃はじっと聞いていた。彼もまた、離れている間、自分なりに変わろうとしていた。その誠実さに、綾乃の目頭が熱くなる。
「綾乃さんの『色』が好きだよ。凛としてるところも、ふとした時に見せる寂しさも、全部」
その言葉に、綾乃はとうとう涙をこぼした。これまで隠し続けてきた「寂しさ」という自分の一部を、初めて丸ごと肯定してもらえた気がした。
「私も、変わろうとした。強がるのをやめて、ちゃんと弱さも見せられる人になりたいって」
視線が重なり、○○がそっと手を握ってくる。冷たい夜気の中、その手の温もりだけが、確かな現実として二人をつないでいた。
「もう一度、ちゃんと一緒に歩いてくれる? 今度は、お互いに飾らずに」
「うん。……何度だって、一緒に歩くよ」
その言葉を聞いた瞬間、綾乃は、これまで自分を縛っていた「年上らしさ」という鎧が、音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。
それから、二人で過ごす時間は当たり前のように増えていった。
深夜のコンビニ帰りに、一本のソーダアイスを半分こにして分かち合うこと。青信号に変わるのを待つ数秒間、どちらからともなくキュッと手を繋ぎ直すこと。
ドライブ中、ラジオから流れる古いヒット曲に、綾乃は「あ、この曲、昔よく聴いたな」と目を細める。○○が「これ、俺が幼稚園の頃に流行った曲だ」と笑うと、綾乃は「ちょっと!ジェネレーションギャップで攻撃しないでよ」と肘でつつく。
そんな些細なやり取りのすべてが、綾乃にとっても、新しく、鮮やかだった。
(この人と出会うまで、私の日常は、こんなにも味気なかったんだ)
仕事で結果を出すことだけに追われ、休む間もなく走り続けてきた日々。それはそれで充実していたはずなのに、○○と出会ってから、世界にはこんなにも多様な色が溢れていたのだと、初めて知った気がした。
ある夜、綾乃の部屋。眠くて目をこすっていると、○○が不意に、そっと綾乃の体を強く抱きしめた。
「〇〇くん……?」
「お願い……。僕だけに見せるその眼差し、ずっと離したくない」
震える声でそう告げられた瞬間、綾乃の胸に、これまで感じたことのない安堵と喜びが同時に押し寄せた。年上として気を張る必要のない、ただの「綾乃」として愛されている実感。
「バカね……。私だって、離したくないよ」
腕を回しながら、綾乃は初めて、5歳という年齢差を「壁」ではなく、二人だけの「色」として、心から愛おしく感じることができた。
○○の好きなリーズナブルな赤ワインと、自分が仕事のお供にするエナジードリンク。自分が部屋で流す静かなクラシックと、○○のプレイリストから流れるアップテンポのアニソン。
交わることのなかったはずの二つの人生が混ざり合い、世界でたった一つの、美しい絵の具になっていくのを、綾乃は静かに、確かに感じていた。
○○の実家に招かれた日、綾乃は朝から何度も鏡の前で身だしなみを確認していた。年下の彼氏の両親に、どう思われるだろうか。「息子には若すぎる」「年上すぎる」と思われはしないだろうか。そんな不安が、胸の中でぐるぐると渦を巻いていた。
けれど、実際に顔を合わせた○○の母は、思いのほか温かく綾乃を迎えてくれた。
「うちの息子、まだまだ子供っぽいところがあって、ご迷惑おかけしてないかしら」
「いえ、〇〇くんの真っ直ぐなところに、いつも助けられています」
心からの言葉を伝えると、○○の母は嬉しそうに目を細めた。その表情を見て、綾乃の中の緊張が、少しずつほどけていった。
帰り際、○○の父が息子にだけ小さく耳打ちしていたのを、綾乃は偶然見てしまった。彼が何を言われたのかは分からなかったが、車の中で少し照れくさそうにしている○○の横顔を見て、綾乃はなんだか温かい気持ちになった。
数週間後、今度は綾乃の実家を訪れる番だった。母は開口一番、心配そうな顔でこう尋ねた。
「綾乃、本当に大丈夫なの? 5つも年下だなんて……あなたが苦労するんじゃない?」
母の言葉には、これまでの綾乃自身の不安と、そっくり同じ響きがあった。だからこそ、綾乃は今度こそ、はっきりと答えることができた。
「お母さん、私、これまでずっと『しっかり者』でいなきゃって、無理してた。でも〇〇くんの前だと、素のままの自分でいられるの。年齢じゃなくて、この人だから、一緒にいたいと思えたんだよ」
自分の言葉に、自分自身が一番驚いていた。かつては誰にも言えなかった本音を、今はこんなにも自然に語ることができる。それだけ、自分は変わったのだと、綾乃は実感した。
母が驚いた表情を見せたあと、ふっと肩の力を抜いたように笑った。
「……そう。あなたがそんな風に笑うの、久しぶりに見た気がするわ」
その一言に、綾乃の目頭が、じんわりと熱くなった。
綾乃が婚約を意識し始めたころ、思いがけない話が舞い込んだ。海外、シンガポール支社への栄転の打診である。
キャリアとしては願ってもないチャンスだった。これまで積み重ねてきた努力が、ようやく形になろうとしている。だが、それは同時に、○○との物理的な距離を意味していた。
(どうしよう。この機会を逃したら、次はいつ巡ってくるか分からない。でも……)
綾乃は夜、電話越しに、迷いをそのまま○○に打ち明けた。
「正直、迷ってる。これまで頑張ってきたことが、ようやく形になる話だと思う。でも……〇〇くんと離れることを考えると」
「綾乃さんの人生だから、綾乃さんが決めていいんだよ。僕のことは、気にしないで」
○○の言葉に、綾乃は一瞬安堵しかけて、けれどすぐに、何か違和感を覚えた。○○の声に滲む、微かな寂しさを、綾乃は聞き逃さなかった。
数日後、○○が意を決したようにマンションを訪ねてきて、正直な胸の内を告白したとき、綾乃はようやく、○○の本当の気持ちを知ることができた。
「本当は、行ってほしくない。でも、それを口にしたら、綾乃さんの選択肢を奪うことになる気がして、言えなかった」
○○の言葉を聞いて、綾乃の胸に、温かいものが込み上げた。○○が綾乃を思って、本音を飲み込もうとしていたこと。そして今、勇気を出して、それを伝えてくれたこと。
「僕は、綾乃さんの隣にいたい。だけど、綾乃さんの夢や仕事を諦めさせてまで、一緒にいたいわけじゃない。だから一緒に、考えたい。二人で、答えを出したい」
その言葉に、綾乃は静かに頷いた。
何日もかけて、二人で何度も何度も話し合った。仕事のこと、これからの人生のこと、お互いが本当に望むこと。誰かに決めてもらうのではなく、二人で選び取っていく過程そのものが、綾乃にとって、これまでにない安心感をもたらした。
最終的に、綾乃はシンガポール行きを辞退することを決めた。
「これは、○○くんのために諦めたわけじゃないよ。私が、○○くんと一緒にいる人生を選びたいと、心から思ったから」
その言葉に、一切の迷いはなかった。キャリアを手放したわけではなく、自分の人生の優先順位を、自分の意志で選び取った。そのことに、綾乃は静かな誇りを感じていた。
季節が一巡し、再び雨の多い季節が巡ってきた。あの、公園のベンチで○○の隣に座った夜から、ちょうど1年が経とうとしていた。
その日、○○から「大事な話がある」と告げられ、綾乃はいつもと同じ公園に呼び出された。何の話だろうと、朝からそわそわと落ち着かなかった。
あいにく朝から降り続いていた雨は、夕方になってもなかなか止まなかった。傘を畳みながら公園に着くと、○○がベンチに座って待っていた。
「ごめん、待った? 雨、すごかったね」
「ちょうど今、止んだところだよ」
二人は、あの夜と同じベンチに並んで腰掛けた。雨上がり特有の、土と緑の匂いが、鼻先をくすぐる。
「綾乃さん」
改まった声に、綾乃は思わず背筋を伸ばした。
○○が語り始めた言葉。5年の差を乗り越えてきた道のり、綾乃の強さの裏にある孤独、自分自身の未熟さ、そのすべてに、綾乃は言葉を失って聞き入っていた。
「僕には、綾乃さんみたいな余裕も、経験もまだない。でも、綾乃さんの色を、これから先の人生、ずっと隣で見ていたい。綾乃さんの喜びも、悲しみも、全部一緒に背負っていきたい」
○○がベンチから立ち上がり、目の前で片膝をついたとき、綾乃はようやく、何が起きているのかを理解した。
雨上がりの澄んだ空気の中、小さな箱が開かれる。
「結婚してください」
その瞬間、綾乃の中で、長年張り詰めていた何かが、静かに、けれど確かに解けていくのを感じた。
強くあらねばならないという鎧も、年上として完璧でいなければという呪縛も、もう必要なかった。ただの一人の女性として、目の前の人に、心から愛されている。その実感だけが、涙となってあふれ出した。
「……バカ。こんな、不意打ちで」
「ずっと、この場所で伝えたかったんだ」
しばらく涙をぬぐっていた綾乃は、やがて、これ以上ないほど柔らかな笑顔を浮かべた。
「うん。……よろしくお願いします」
夕陽に照らされた公園に、二人の影が寄り添うように重なった。あの夜、言葉のいらなかった沈黙の代わりに、今度は確かな約束の言葉が、静かに夜空へと溶けていった。
夜空の下。街灯の明かりが二人の影を長く伸ばしている。
歩道を歩きながら、綾乃はいたずらっぽく○○の右腕を引いた。
「飾らないでいいからね」
その言葉を、綾乃は今、心の底から本心で口にしていた。かつては、自分自身にも同じ言葉を返せずにいたけれど、今は違う。○○の前でなら、綾乃もまた、ありのままでいられる。
「うん。……君の色に、染まっていくよ」
「ふふ、なにそれ。臭いセリフ」
声をあげて笑いながら、綾乃は思う。この笑い声を、これから先の人生、何度も何度も、この人の隣で響かせていくのだろう。
二人はしっかりと手を繋ぎ直し、歩き出す。
数か月後、二人はささやかな、けれど心から満たされた結婚式を挙げた。友人たちの前で、綾乃は「年齢差なんて、二人にとってはもう些細なことだった」と晴れやかに笑った。かつて自分を苦しめた「30歳」という数字も、「5歳差」という現実も、今はもう、二人の物語を彩る一つの色に過ぎなかった。
10年後、20年後、二人がどうなっているかはわからない。5歳の差がもたらす試練や、すれ違いも、これから何度だって訪れるだろう。未来なんて、誰にもわからない。
でも、綾乃はもう、以前のように一人で強くあろうとはしない。弱さも、不安も、喜びも、悲しみも、すべてをこの人と分かち合いながら、二人でゆっくりと、未来を歩んでいく。
今この瞬間。二人が歩む道の先には、鮮やかで、愛おしい世界が、どこまでも広がっていた。
