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『スクラップ・ヘブン』鑑賞記録

4月24日リバイバル上映が開始した『スクラップ・ヘブン』を観てきた。
2005年に公開された本作は、李相日監督のメジャーデビュー2作目。
ちなみにメジャーデビュー1作目は村上龍原作・宮藤官九郎脚本の『69 sixty nine』とのこと。
私は知らない作品なのだけど、これもとても気になる。
ちなみに『スクラップ・ヘブン』の公式サイトはこちら。

公開前からずっと気になっていたのには理由がある。
この映画の主題歌が、フジファブリックの「蜃気楼」だったから。
先月だったか、SNSで本作の予告編を観て「蜃気楼」が本作の書下ろし楽曲であったことを知った。
この曲との出会いは、高校生のときに遡る。
当時好きだった「茜色の夕日」のシングルカップリングとして収録されていたのがこの曲との出会いだった。
「茜色の夕日」の寂しくもぬくもりのある歌の次に、何ともアンバランスでむき出しの鉄筋コンクリートみたいな冷めた感情とその中で芽生える生命力が印象的で、すぐにこの曲も好きになった。

私の中で「すごい曲」という印象のこの曲が映画のために書き下ろされたということにまず衝撃を受けた。
そして、この曲の持つ世界観を反映した映画、そんなの間違いないと思ったし、予告編からも期待を膨らませていた。

そんな上がりきったハードルを軽々を超える傑作だった。

20年以上前に作られた作品とは思えないぐらいに、今の時代を生きる自分にも同じぐらいの衝撃で突き刺さってくる。
多様性の時代でも、他者の痛みを想像することはとても難しい。
誰もが簡単に言葉を共有できる時代なので、知っていることは20年前よりずっと増えているはずなのに。
知っていることと、想像力を働かせて他者を思いやることは全然違うからかもしれない。
今回のリバイバル上映には「あれから20年後の今、"想像力"でマシになったのか!?」というキャッチコピーがついている。
個人的には「なんも変わってないかも」と答えたくなる。

以下公式サイトからの物語の抜粋。

“正義の味方”を夢見て警察官になったシンゴ(加瀬亮)は、無機質なオフィスでのデスクワークにうんざりする日々。ある日、シンゴはバスジャックに遭遇する。乗り合わせていたのは、テツ(オダギリ ジョー)とサングラスをかけた女、サキ(栗山千明)。

テツの言葉をきっかけに、社会に絶望した人々の願いを叶える“復讐代行”というゲームをはじめるテツとシンゴ。それは一見、鬱屈を解放するためのささやかな反抗だった。しかし、その行為は次第に現実を侵食し、彼ら自身が社会の闇へと呑み込まれていく。

映画『スクラップ・ヘブン』公式サイト

以下はネタバレも含めて書いていこうと思う。

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個人的に今作で一番感情移入したのはシンゴ。
恐らくは観客の多くがそうだったのではと思う。
彼は私たちの鏡の存在として描かれる。
正義感であり、弱さであり、希望、なのかもしれない。

公式サイトのストーリー紹介にもあるように、シンゴは正義の味方を夢見て警察官になったぐらいで、もともと正義感が強い。
でもこの正義感に正体はない。
何から何を守っているのか、その自覚のない正義感は、ただ漂流している。
そしてその時々に起こる現象に重なり、正義として発動する。
それは一貫性に欠けた、そして想像力の乏しい行動しか生み出さない。
シンゴの行動はそういう風に見える。

このシンゴの漂流型正義感が浮き彫りになるのが、テツとの向き合い方ではないか。
テツには精神疾患を抱えた父親がいる。
詳細は語られないが、トイレの清掃バイトをしながら恐らく父親の入院費用を賄っていたのだろう。
ちなみに母親は物語に登場しない。
そんなテツはしょっちゅう父親に会いに病院を訪れ、砂嵐を映し続けるミニTVを手放さない父親に語りかけたりしながら、何とかコミュニケーションを図ろうとしていた。
しかし、父親は突然、窓から転落して亡くなってしまう。

この喪失を抱えたテツに、シンゴは気付けなかった。
そもそも父親の話なんてしてないから、ということもあるが、シンゴは明らかに挙動のおかしいテツに何もできなかった。
どうしたの?という一言ですらかけようとも思わなかった。
シンゴの中のテツは一種のキャラクターのようなものでしかなかったのかもしれない。
彼が肥溜めの中で溺れかけているなんて、思いもしなかったのかも。
シンゴは遠く離れた人の痛みなら感じられるのに、こんな近くの人の痛みを感じられない。

シンゴのそういう言動はそれは自分にも身に覚えのある感覚で、だからこそシンゴのことを他人事として観られなかった。
一課の刑事からお前には想像力がないとボッコボコに殴られるシーンも、私は自分が殴られているように感じられた。

他者の痛みを知りたいと思う気持ちは、野次馬根性でしかなく、真に他者を思いやることとは全然違う。
知った上で思いやるには、想像力が必要になる。
どうしてほしいだろう、どういう風に言葉をかけてほしいだろう。
そこには今も昔も変わらず、想像力が必要になる。

そんな風に欠けた想像力で突き進んだシンゴは知らぬ、テツの涙。
父親が亡くなった後のシーンも相当に辛かったが、取調室でテツの抱える孤独を知らずシンゴが義憤にかられて彼を殴るシーンはもっと辛かった。
想像力。シンゴ自身がこの世に必要なものだと言っていたのに。
なぜテツがそんな行動をとったのか、なぜ分かろうとしなかったのだろう。

シンゴの罪はサキに対してもある。
ただこちらは後に自分で気付けただけよかったのかもしれない。
シンゴは君を守りたいと言ってサキに近づくが、サキは一切守ってほしくもないし、結局守ってほしかったのはシンゴ自身。

この映画の凄いところは、3人がお互いには見えていない部分も含めて観客に見せることで、観客が全知全能の神のように全てをすっきりを見通せるからこそ苦しむという構造になっていること。
シンゴに感情移入する観客は文字通りボッコボコにされる。
そしてそうされるべきだということ。
現実世界でボッコボコにされる前に気づけて良かったね、とも言える。

映画のラストは何ともどっちつかずで、それがまたいい。
覚悟を決めて爆薬を放り投げたシンゴ。
落下する爆薬は、シンゴの目の前を通り過ぎる軽トラの荷台に奇跡的なタイミングでキャッチされ、軽トラと共に去っていく。
爆発しなかった爆薬。続く人生。
そしてエンディングが流れ始める。

この映画がなぜここまで自分に突き刺さったのか。
私の知りたい、思いやりたいは自分の欲求を満たすためだけなのかもしれないと最近感じていたからかもしれない。
想像力の欠如を指摘されたこともあるし、実際それを課題に感じていた。
一般的な感覚として、想像力と言われると心と関係しているのではないかと思える。
心からそれを想い、相手の行動をなぞったりして、感じてみる。
それが想像力なのかなと、自分はずっと思ってきた。
でも、想像力に本当に必要なのは、ロジカルシンキングなのかもしれない。
シンゴの夢見た復讐には傷つく人のイメージが欠けていた。
誰も傷つかないなどあるはずもなく、感情の抱える矛盾に打ち勝つためには合理的に物事を考える必要がある。
一度感情をおいて、物事がどうしてそうなっているかを事実ベースで捉えることが、人を思いやることには必要になってくるのかもしれない。

少し話が逸れるが、この辺りの気付きを得たのは、以下の本を読んでから。
共感に情動的共感と認知的共感があると語る筆者は、他者を深く思いやるためにも認知的共感が必要だと主張する。
本作で他者を思いやることをもう少し考えてみたいと思った方にはおすすめしたい。

私が知らなかっただけかもしれないけど、この映画もっと有名でもいいのにと思ったりしていた。
今回のリバイバル上映がなければ、私は一生知らいままだったかもしれない。
リバイバル上映自の期間が短いのがもったいない。
『国宝』のこともあるし、李監督特集が組まれることも今後あったらいいなと思う。
もっと多くの人の目に触れてほしい作品だなと思う。

鑑賞後、売店でパンフレットだと思い込んで購入したのがリーフレットでちょっとがっかりしてたけど、フジファブ志村さんと監督の対談が載っていたのとクリアファイルもついているし、これはこれで買ってよかったと思った。
ただやっぱり当時のパンフレットの再販もあったら嬉しいなと思う。
この映画のことをもっと知りたい。

これは余談。
映画とは全然関係ないけど、本作を観に行く道中でのこと。
ホームを歩ていたとき、真っ赤なウインドブレーカーにおかっぱの長身男性を見かけた。
切れ長の一重で鋭さと脆さを感じる印象で、酷く気になった。
自分はその男性とは違う号車に乗り込んだのだが、降りた駅の改札で視界を横切る赤に目を奪われた。
もしや『スクラップ・ヘブン』観に行くのではと思ったけど、全然違う方向に消えていった。
雰囲気的には志村さんとか、アートスクールのボーカルとか、そんな感じがあって「蜃気楼」を聴いている道中に出会ったこともあり酷く気になってしまった。
そういう偶然も普通にあると思うけど、あのタイミングで見かけたことが自分にとっては何とも意味ありげなものに思えてしまった。

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