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魂の同時多現について。

娘とオセロをしてる時に、「私ならここに置くだろうなぁ」という場所に娘はことごとく置きにくる。まるでもうひとりの自分と対戦しているように。
そこで私は娘を見て「実はコイツ、オレだったりして。」なんてふと思ったわけですよ。
どういう事かというと、私が死んで転生するとしたら、再びこの世に生を受けるのは私が死んだ後、つまりその先の未来と考えるのが一般的だと思います。しかしながら私が娘に対して「コイツ、オレ?」と思ったということは、つまり、私が死んで転生する際に、「時を遡って私の子として生を受ける。」という、ちょいと荒唐無稽な考察を思いついたわけです。
ワンネス的な考え方だとオレも娘も無いのでしょうし、宇宙の意識が「経験すること」を必要としているのなら、ひとつの事象を全体として把握するために、「行為者/被行為者」を同時に体験出来た方がいい。「親子」を経験するための「父親/娘」、「犯罪」なら「加害者/被害者」のような。
また、過去〜現在〜未来なんていう一方向的な、直線的因果律のようなチープな認識論ではなく、多次元論的に考えれば、複数の座標上、パラレル上でいろんな自己を経験している、「魂の同時多現」って事になる。
となると、「今、目の前に存在する世界は、形而上の自己が形而下の自我に見せている幻影である。」なんて考察(「プラトンの洞窟」だったかな?)にも納得できる。つまり目の前の娘は、実はオレ。アイツもオレ、コイツもオレ。目の前のスプーンも。
そこで一つ心配になっちゃうのは、その「カラクリ」に気が付いてしまうと、世界が色褪せてはしまいか?と思うワケです。(「幻影」なわけですから。)
つまり、三次元下の「自我」に没入?固執?出来なくなる。
そんな、「オレという役」に没入出来ない演者だらけになってしまったら、形而下の世の中は稼働しませんよ。そして経験値を上げたい宇宙意識の本面目(分化による体験)が達成できません。
だから、宇宙意識は、「完全な自己認知」をある段階まで封印して、物質界(形而下)では各個体があたかも独立した、分断された個として生を送るように設計されているのではないかと思うわけです。
そしてまた、このシステムが形而下の個の気づきにより機能不全に陥る事を防ぐために、人間の脳には「忘却」という機能が備わっているんじゃないかと思うのです。
シュタイナーの魂発達曲線では、幼児、老人は魂よりで、霊的で透き通っていますが、壮年期は現世利益にまみれギラギラとギラついており、オノレが霊的存在と繋がっていることを「忘却」してしまっている。
本来的には霊的である事を成長とともに忘れていくのですが、それを現象界で出来事を経験することにより思い出して(気づいて)ゆく。「忘却」と「気づき」という相反する矛盾の間を振りこのように往還するのが時の流れ、因果なのかと思います。‥‥つづく

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