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【鬼滅の刃・無限城編】人間は承認欲求の如何で人にも鬼にもなるのかも

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ここブリスベンでも、ついに『鬼滅の刃 無限城編』が公開された。鬼滅ファンである私にとって、公開初日に映画館へ足を運ぶのは自然なことのように思われ、気づけば席に腰を下ろしていた。


今回の映画は、まるでアメリカ映画『アベンジャーズ』のように、多くのヒーローが勢ぞろいする壮観さがあった。しかしその中でも、私の心を強く惹きつけたのは、猗窩座という鬼の存在である。

猗窩座といえば、主人公・炭治郎にとっては煉獄杏寿郎の仇であり、「悪」の象徴のように見える存在だ。だが今回の映画では、むしろ彼こそが主人公なのではないかと思えるほど、彼の内面や過去が緻密に描かれていた。その心理描写は鬼という仮面を超え、一人の人間としての苦しみを伝えてくる。

私たちの日常にも、人間的で温かい行為をする瞬間があれば、非人間的とも言える残酷さを見せてしまう瞬間がある。映画は「人」と「鬼」という形をとりながらも、実は「人間的」と「非人間的」との境界を問いかけているように思えた。言い方を変えれば、人間は条件次第で人にも鬼にもなりうるのだろう。

猗窩座の物語が示すのは、大切な人を奪われたときの埋めようのない喪失感である。その穴は容易に塞がることはなく、ときに人は復讐や悪行に走ることで空虚を埋めようとする。しかし、それは決して満たされることのない営みでもある。

さらに彼の姿は、他者からの人間的な「承認」を得られるか否かが、人間と鬼を分かつ境界であることをも浮かび上がらせていた。

承認を強く求める姿はこの映画に登場する猗窩座以外のキャラクターたちにも明確に表現されていた(例:善逸が倒した上弦の鬼)。

哲学的にも明らかなように、人間は誰しも「自由に生きたい」という根源的な欲望を抱えている。しかしその自由は、他者からの承認なしには独りよがりとなり不自由となり生きていけない。承認されることによって人は初めて自由が拡大していくのだ。だからこそ他者から認められるとき、人間は自らの存在を確かなものとして感じるのだろう。では、その承認は「悪」の文脈で得られるのか、それとも「平和や幸福」の文脈で得られるのか。そこに、人間であるか鬼であるか、あるいは人間的であるか非人間的であるかの大きな分岐点があるのだと、この映画は静かに問いかけていた。

今後ももっと時間をかけてこの映画を考察していきたい。

野中恒宏

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