「針尾送信所」の遺構が問いかけること
今回は、長崎県佐世保市の郊外、ハウステンボス近くの高台にひっそりと佇む「針尾送信所」に関するご紹介です。

(Created by ISSA)
コンクリート状の外観から、何かの煙突と勘違いされる方も居られるようですが、そうではありません。
針尾送信所の概要
これらの構造物は、今からおよそ100年前の1922年に、大日本帝国海軍によって建造された無線送信所です。

(Photo by ISSA)
戦前は海軍の送信所として、戦後も一時期、海上自衛隊と海上保安庁の通信施設として機能して来ました。

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上から見ると、3本の塔が約300m間隔の正三角形を成し、各辺が中国大陸方面、東南アジア方面、太平洋方面を指向するように配置されています。

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当時は、各塔間にアンテナ線が張られていました(注:塔自体にアンテナの機能はない)。

張るための三角形の簪があった
(Photo by ISSA)
各塔の高さは、1号塔と2号塔が135m、3号塔が137mで、日本で最も高い灯台と言われる「日御碕灯台」のおよそ3倍の高さになります。
大正時代、塔状コンクリート構造物(注1) は、茨城、大分、福島に存在したようですが、現存しているのは佐世保の針尾送信所のみとなっています。
(注1) 鉄塔ではなくコンクリート塔が採用された理由は、コンクリート建造物の技術獲得や腐食防止のためだった
2022年には、NHKドラマ「17才の帝国」のロケ地となりました。
「針尾送信所」創設の経緯
日露戦争後、無線通信の重要性を認識した大日本帝国海軍は、1911年に東京、佐世保、台湾に無線局を建設することを決定し、佐世保では岩盤が強固だった針尾島が選定されました。
佐世保鎮守府の技師・吉田直(よしだ のぶる)が設計・建設を担当し、1918年の着工から完成まで4年の歳月を要しました。

右:技師・吉田直
(「広報させぼ」より)
当時、針尾島に橋は架かっていなかったので、建設資材はすべて海路で運ばれ、トロッコを使って高台まで運び込まれたそうです。
1920年代といえば、大日本帝国海軍の軍艦保有トン数が世界第3位となり、米・英海軍と肩を並べる「世界三大海軍」と称され、ひとときの平和と栄光のときを迎えた時代です。
無線通信では、下図左側のように短波、中波、長波など周波数が低い(注2) 電磁波の方がより遠くまで届くのですが、当時は短波や中波の通信技術が未成熟だっため、海軍は長波通信を採用しました。
(注2) 周波数が低くなるほど、電磁波の波長は長くなるため、とても長いアンテナが必要になる

(月間FBニュース)
【参考】現在、宮崎県えびの市の山間部にある海上自衛隊の「えびの送信所」では、長波よりも更に周波数の低い超長波(VLF:Very Low Frequency)が用いられている(1991年から運用中)。
通常、電波は水中には届かないが、超長波だと深度10~40mまで電波が届くため、水面付近の潜水艦との通信が可能になる。
真珠湾攻撃の指令を中継か
1941年11月、連合艦隊司令長官、山本五十六・海軍大将をはじめとする首脳陣が岩国に集い、真珠湾攻撃に関する作戦会議を開いたあと、
1941年12月2日、岩国湾で山本長官が座乗する戦艦「長門」から「ニイタカヤマノボレ一二〇八(ヒトフタマルハチ)」の暗号文が打電され、

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この通信は、針尾送信所などを中継して真珠湾攻撃部隊に送信されたといわれています(注:史実かどうかは定かではない)。
このほか、針尾送信所はミッドウェー海戦や戦艦大和による菊水作戦など、様々な通信に関わったとみられています。
ちなみに「ニイタカヤマ」とは、当時の日本で最も高い山だった台湾の新高山(標高3,952m)のことです。

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短命に終わった長波通信の役割
針尾送信所は、主に、中国や東南アジア及び南太平洋に展開する艦隊との通信に使われました。
しかし、その後の通信技術の向上に伴い、海軍は1930年代半ばから短波を、太平洋戦争中は中・短波を主用するようになりました。
そのため、建設から僅か20年で針尾送信所の必要性が薄れ、大戦末期には一時的に食料倉庫として使われたこともあったようです。

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針尾送信所の見学
針尾送信所は、年間を通して無料で見学することができるほか、希望すればボランティアによる見学案内も可能です(団体の場合は、要予約)。

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1号塔は外観のみ、3号塔と油庫及び電信室は内部も見学可能です(2号塔周辺は立入禁止)。
3号塔の内部では、各塔間のアンテナ線を巻き上げるための機材を見ることが出来ます。

中:2号塔を見上げる
右:塔内の電線巻上機
(Photo by ISSA)
2009年のボーリング調査では、無線塔は土台を平たくした岩盤の上に建てられていることが明らかになりました。
加えて、上に行くにしたがって先細っている塔の形状(注3) が、建造物としての安定性を高めています。
(注3) 土台部分の直径は12mもあるが、最上部の直径は僅か3mである
終戦後、1948年には海上保安庁・第七管区の針尾送信分室が開設され、海上自衛隊も1954年の発足当初から共同使用していましたが、
1997年に後継の無線施設が完成したことにより、電波塔としての役割を終えました。

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当時、鉄筋コンクリートの構造物や無線施設の建設は手探り状態にある中、日本独自で作り上げ、今もなお、堅牢さを保っていることは画期的なことであり、
2013年には、無線塔3基と電信室、油庫及び附属の土地が国の重要文化財に指定されました。

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機械室には長波用の高周波発電機が設置されていましたが、先述のように長波通信の必要性の低下に伴い、1942年頃までには撤去されたようです。

(photo by ISSA)
軍事施設ということで、建物は半地下構造、屋根はアーチ状になっており、通常の建造物と比べて抗たん性の高い耐爆構造になっています。

(photo by ISSA)
油庫跡は、門衛所跡の隣にありました。

(Photo by ISSA)
ちょうど、佐世保基地の在日米軍関係者と思しき一行が、見学に来ていたのですが、
針尾送信所は、言わば、日本海軍がパールハーバーを攻撃する指令に関与した(可能性のある)施設であり、彼らは一体どんな思いで見学していたのでしょうね…。

(Photo by ISSA)
おわりに
針尾送信所の歴史的意義は、次のとおりです。
① イタリアのマルコーニが無線を発明した1895年から僅か27年後、日本独自の技術で作り上げた無線設備であること
② 日本の鉄筋コンクリート建造物の先駆けでもあり、建築から100年過ぎてもなお、堅牢さを保っていること
③ 日本の通信史上、長波通信が主流だったのは1920~40年代の20年間であり、その僅かな期間に活動した稀有の送信所であること
あとがき
針尾瀬戸に通ずる大村湾は、若き日の祖父が軍医として召集された場所であり、奇しくも、若き日の ISSA が初めて赴任した場所でもあります。
そして、大村から戦地へ赴く祖父が、万感の思いを胸に見たであろう針尾送信所は、若き日の ISSA が、しばしば空から訪れた場所でもあり、
今回、初めて地上から針尾送信所を訪れたことで、祖父と私が共有する「憂国の思い」という名の通信が、時を超えて繋がったような気がしました。

(Photo by ISSA)
ただ、大きく異なることは、かつて祖父たちが「宿敵」とみていたであろう米軍を、私たちは今、安全保障の一翼を担う「盟友」とみていることでしょうか。
昨年末、同じ長崎を舞台としたドラマ「海に眠るダイヤモンド」が放映されましたが、
こうした物言わぬ静かな遺構にこそ、当時の人々の熱い思いが刻まれていて、移ろい行く時代の無常観を問いかけているように感じました。
いつも、ありがとうございます🍀
