「一盌のお茶」が持つ本当の力
「一盌からピースフルネスを」
"Peace through a bowl of tea."
これは、千利休から数えて第15代目となる茶道・裏千家の家元である千玄室大宗匠(注1) が遺された言葉です。

(sankei.com)
(注1) 本名は千政興(せんまさおき)。1964年、父の死去に伴い千宗室(せんそうしつ)を襲名。2002年、長男に家元を譲り千玄室(せんげんしつ)と名乗る。
「大宗匠」(だいそうしょう)とは、茶道・裏千家において、家元を退いて隠居した前家元に与えられる敬称である
本年8月14日、千玄室大宗匠(以下「玄室さん」)は、102歳でご逝去されました。
1951年から海外へ茶道の普及を始め、積極的な「茶の湯外交」で70か国以上を歴訪し、「国際茶人」と呼ばれました。
千玄室大宗匠の足跡
1923年4月、玄室さんは、裏千家の第14代家元・碩叟宗室の長男に生まれ、子供時代を京都で過ごしたあと、同志社大学を経て、
1943年12月、学徒出陣により20歳で第14期・海軍飛行専修予備学生として大日本帝国海軍に入隊しました。

伯父が愛用していた短刀
《鹿屋航空基地史料館》
(Photo by ISSA)
舞鶴海兵団で海軍の予備士官に採用され、土浦海軍航空隊へ転属となり、
その後、徳島海軍航空隊(現・海上自衛隊 徳島航空基地)に配属され、海軍少尉に任官しました。
西村晃さんとの出会い
徳島では、陸上偵察機の訓練を受けましたが、そこで親友になったのが、後にテレビドラマ「水戸黄門」で2代目の水戸黄門を務めた西村晃さんでした。

《鹿屋航空基地史料館》
(Photo by ISSA)
1945年3月、特攻隊への希望を問われると、西村さんとともに「熱望」に丸をつけ(注2) ました。
(注2) 玄室さんは、後年、「否」を選んだら、かえって最初に特攻に行かされるではないかと思ったと、このときの心境を振り返っている
その後、「全員、特攻隊として出撃することになった」ことを知らされました。

《鹿屋航空基地史料館》
(Photo by ISSA)
一日の厳しい飛行訓練が終わると、周囲から「千ちゃん、お茶にして」とせがまれ、皆を集めて野点(のだて)(注:屋外で抹茶を点てて楽しむことを)したそうです。

右下:玄室さん(右2)と西村さん(最右)
《鹿屋航空基地史料館》
(Photo by ISSA)
その時のお菓子は、配給された羊羹。誰かが「千ちゃんのお茶は美味いなあ、でも、おふくろのお茶がもう1回、飲みたいなあ」とつぶやくと、
西村さんが、「おふくろに会いてぇなあ!」といって勢いよく立ち上がり、故郷の方に向かって「おかあさーん!」と叫びます。

《リナシティかのや2Fギャラリー》
(Photo by ISSA)
すると、そんな西村さんを笑っていた皆も、堰を切ったように「おかあさーん!」と、声の限りに叫んだそうです。

《鹿屋航空基地史料館》
(Photo by ISSA)
鹿屋の串良航空基地へ
その後、1945年5月に、約60名の仲間と共に「白菊隊」(注3) として鹿児島県鹿屋市の串良(注4) へ配属されます。
(注3) 隊員たちに与えられた特攻機は「白菊」という練習機で、500キロ爆弾で爆装すると離陸がやっとで、飛行速度も時速200キロにも満たなかった

《鹿児島県鹿屋市串良町有里》
(Photo by ISSA)
(注4) 戦時中、鹿屋には笠野原・串良・鹿屋の3つの飛行場があり、1945年2月、特攻を指揮する第五航空艦隊司令部が新編された
海軍特攻隊の戦死者数は4,146名(「震洋」や「回天」などの水上・水中特攻も含む)であり、うち3分の1に当たる1,273名が鹿屋・串良から出撃している

《鹿児島県鹿屋市串良町有里》
(Photo by ISSA)
しかし、玄室さんが特攻に出撃することはありませんでした。

二千本の桜が立ち並ぶ一本道となっている
《鹿児島県鹿屋市串良町有里》
(Photo by ISSA)
玄室さんは、上官に「どうか、行かせてください!」と懇願しましたが、予科練の教官として松山海軍航空隊へ転属となり、西村さんとも離れ離れになって、そのまま終戦を迎えました。

《鹿屋航空基地史料館》
(Photo by ISSA)
敗戦後の歩み
終戦の翌年、玄室さんが東京の街を歩いていると、てっきり特攻で戦死したと思っていた西村さん(注5) とばったり出くわし、お互いの無事を喜んで泣きながら抱き合ったそうです。
(注5) 西村さんは、特攻隊として出撃したが、機体故障により引き返すこととなり、命を取り留めていた

《鹿屋航空基地史料館》
(Photo by ISSA)
禅修行を通じて、自分と向き合う
1949年、玄室さんは、次期家元が若宗匠の格式を得るために行う千家の伝統として、大徳寺の僧堂で禅修行に入ります。
粗食による空腹や、坐禅中に襲われる睡魔、何を尋ねても沈黙で返す先輩修行僧の無言の態度等、とても辛い思いをしますが、
厳しい修行を通して「平常心」を学び、翌年、第15代継承者として正式に認められることとなりました。
しかし、玄室さんは、修行後も「何故、自分だけが生き残ったのか」という、忸怩たる思いを抱え続けていました。

特攻隊戦没者慰霊塔
《鹿児島県鹿屋市今坂町・小塚公園》
(Photo by ISSA)
訪れた転機
そんな玄室さんに転機が訪れたのは、1951年のことでした。
GHQの民間情報教育局(CIE:Civil Information and Education Section)から、米国に茶道を紹介してはどうかという提案を受けました。
その時、玄室さんは「仲間は、みんな米国との戦争で死んだのだから、絶対に行きません!」と、一度は固辞したものの、
修行した大徳寺の老師から「日本の伝統を伝えてきなさい。そして負けた国の人間の目で勝った国を見てきなさい」と諭され、渡米を決意します。
当時の日本は未だ米国の占領下にあったので、パスポートはありませんでした。
「占領国民として、保護されたし」と書かれた紙切れ1枚を携えて、米国内の都市から都市を旅しながら、各地でお茶のデモンストレーションを行ったのです。

《鹿児島県鹿屋市今坂町・小塚公園》
(Photo by ISSA)
「茶の湯外交」への目覚め
米国滞在中、黒人差別を目の当たりにし、「民主主義なんて、こんなものか」と失望したりもしました。
他方で、茶道の教えである「和敬清寂」(注6) の素晴らしさとその普及の必要性を、あらためて認識することになったのです。
(注6) 茶道の精神を表現する最も重要な言葉で、千利休によって茶道の根本精神として確立されたもの
【和】互いに心を開いて和み、
【敬】尊重し合い、
【清】心も空間も清らかに保ち、
【寂】いかなる時も動じない心境に至る
という、究極のおもてなしと精神修養の道を示しています。
これが玄室さんの「茶の湯外交」の始まりでした。
その後、1973年7月に開催された裏千家・青年部全国大会で、冒頭でご紹介した
「一盌からピースフルネスを」
という言葉を理念に掲げてからというもの、千容子夫人と共に世界各国を回られました。
この言葉には、一盌のお茶がもたらす平穏に満ちた心と、平和に満ちた世界という二つの思いが込められています。(注7)
(注7) 「Peacefulness」という単語自体は、英語圏では昔から存在する一般的な言葉のひとつであったが、玄室さんのこのスローガンによって、日本でも一般的な言葉になった
1999年に奥様を亡くされた後も一人で旅を続け、訪れた国は70か国に上りました。
玄室さんは、鹿屋での慰霊祭と「献茶の儀」に参加される際には、いつも戦友だった森丘哲四郎・大尉が使っていたお椀を使いました。
昨年の追悼式が最後となりました。
昨年9月22日、串良平和公園に、新たに「徳島白菊特攻隊慰霊之塔」が建立され、

《鹿児島県鹿屋市串良町有里》
(Photo by ISSA)
「白菊隊」の仲間を弔い、その遺徳を語り継ぐという、玄室さんによる碑文が刻まれました。

《鹿児島県鹿屋市串良町有里》
(Photo by ISSA)
そして、本年8月、100歳を超えても、なお「忸怩たる思い」を抱えて生きてこられた玄室さんの戦争は、ようやく終わりを告げたのです。
玄室さんは、いわば海軍衆の大先輩でもありました。ご逝去に際し、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
おわりに
思い返せば、私自身、祖母や母が存命だった頃に入れてくれた、一盌のお茶と何気ないひと時に、随分と救われてきたような気がします。

(Photo by ISSA)
憎しみを背景とした争いごとを引き起こす国々にこそ、「茶の湯外交」による「ピースフルネス」という名のアンガー・マネージメントが必要です。
「一盌のお茶」で、迷いが晴れ、無益な争いごとを回避する気持ちを呼び起こすという叡智。
そして、「和敬清寂」の精神。
それこそが「お茶の持つ力」であり、人々を「調和」へと導く希望の一盌なのかもしれません。
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《鹿児島県鹿屋市西原》
(Photo by ISSA)
鹿児島県のお茶の生産量は、2024年産で初めて静岡県を抜いて全国第1位となりました。
いつも、ありがとうございます🍀
