「二式大艇」物語 ~ 本当に語り継ぐべきこと
「戦後80年の夏」に考える。
シリーズ第6弾は、日本海軍の飛行艇で、当時、世界最高の性能を誇っていた傑作機「二式大艇」に関する物語です。
鹿児島県鹿屋市に所在する海上自衛隊・鹿屋航空基地の旧正門の先には、唯一、現存する二式大艇の実機が展示されています。

「二式大艇」を間近に見ることができる
《鹿屋航空基地史料館》
(Photo by ISSA)
二式大艇とは
二式大型飛行(二式大艇)は、九七式飛行艇の後継機として、川西航空機(以下「川西」)で生産され、大東亜戦争で活躍した日本海軍の大型水上飛行艇です。
ずんぐりしたボディに重武装した状況から、連合軍から「Flying Porcupine」(空飛ぶヤマアラシ)、或いは「Flying Battleship」(空の戦艦)などと呼ばれ、恐れられていました。

《鹿屋航空基地史料館》
(Photo by ISSA)
大型飛行艇が生まれた背景
1920~30年代の日本は、ワシントン及びロンドン両海軍軍縮条約(注1) により軍艦の保有数が制限されていました。
(注1) 第一次世界大戦、ワシントン海軍軍縮条約(1922年)では、米英日の間で激化していた戦艦や空母などの建艦競争に歯止めをかけることを目的として、米英日の保有比率を5:5:3と定めた
一方、ロンドン海軍軍縮条約(1930年)では、ワシントン条約で制限されなかった巡洋艦、駆逐艦、潜水艦などを対象として、米英日の保有比率を10:10:7とした
そのような中、条約に縛られることのない航空戦力に比重を移そうという航空主兵論の声が高まっていきました。
1937年7月、海軍航空本部教育部長で、後に特攻隊の生みの親となる大西瀧治郎・海軍大佐が「航空軍備ニ関スル研究」を取りまとめ、

より強大な攻撃力・航続性・高速性を兼ね備えた大型機への変革を説き、将来は大型機が戦艦の一翼を担うと主張しました。
この、いわば「空飛ぶ戦艦」構想は、当時の大艦巨砲主義の戦略思想とは相容れず、しばしば批判の対象となりましたが、
航空戦力のあり方についての活発な議論を促し、その後の海軍戦略に影響を与えました。
二式大艇の前身
同じ頃、1938年に海軍に採用された川西の九七式飛行艇が、航続性(注2) という点でこの構想を実現しました。

(Created by ISSA)

九七式飛行艇は編隊で艦隊上空を飛行
《鹿屋航空基地史料館》
(Photo by ISSA)
その後、航空機開発が活発化していく中で、中型以上の海軍機は、中攻、中艇、大攻、大艇と分類することが慣例となりました。

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【参考】〇〇式とは?
海軍機の名称にある「〇〇式」は、その機体が制式採用された皇紀(神武天皇が即位した紀元前660年を元年とする紀年法)の下2桁を表している
(使用例)
皇紀2597年 (1937年) - 九七式飛行艇
皇紀2598年 (1938年) - 九八式陸上偵察機
皇紀2599年 (1939年) - 九九式艦上爆撃機
皇紀2600年 (1940年) - 零式艦上戦闘機
皇紀2601年 (1941年) - 一式陸上攻撃機
皇紀2602年 (1942年) - 二式大型飛行艇
こうした中で、九七式飛行艇の後継機は、一般的な飛行艇の性能を遥かに上回る、戦闘型の大型飛行艇とすることが決まったのです。
二式大艇の開発経緯
1938年4月、海軍航空本部は、川西と中島(中島飛行機)の二社に九七式飛行艇の後継機の試作を命じ、
川西が「十三試大艇」、中島が「深山」という名で、それぞれ試作機の開発に取り掛かりました。
川西の設計主務者となったのは、「零戦」の設計を手掛けた堀越二郎と並ぶ天才技術者の一人、菊原静男技師でした。

飛行艇のボディは船型の形状をしており、その分、重量や空気抵抗も増えがちなのですが、川西のチームは基礎から設計を見直しました。
特に、工夫したのが、波消し装置(通称「かつおぶし」)でした。
「かつおぶし」とは
1939年9月に第二次世界大戦が勃発し、日米の緊張が高まる中、十三試大艇は、1940年12月に現在の兵庫県西宮市に所在していた川西鳴尾工場で完成し、試験飛行を行いました。
過荷重 (28.0トン) で離水試験を行ったとき、飛沫のためプロペラ先端が折れ曲がる問題が発生しますが、
その後、水槽実験を積み重ね、艇底に「かつおぶし」(注2) を装備する事で飛沫を抑えることに成功しました。

《鹿屋航空基地史料館》
(Photo by ISSA)
(注2) 機体前部の艇底に施された凹凸状の特殊な形状が、鰹節を削った時の形に似ていたことから、開発者や搭乗員の間で、こう呼ばれるようになった
また、空気抵抗を減らすために、九七式飛行艇から更に胴体をスリム化する一方、胴体の高さを上げることで燃料や機材などの積載スペースを確保しました。

《鹿屋航空基地史料館》
(Photo by ISSA)
更に、水上滑走中に機体がバウンドを繰り返すポーポイズ現象を防ぐため、風防の前に「かんざし」と呼ばれる水平棒を取り付け、操縦士が正しい姿勢を保持(注3) し易くしました。

《鹿屋航空基地史料館》
(Photo by ISSA)
(注3) 着水時は、水平線の見え方が極めて重要であり、1944年12月の志々島近海での着水事故以降、水平線の見えない夜間の着水は禁止された
加えて、燃料タンクへの防弾装備をはじめ、電探、便所、簡易ベッド、冷蔵庫、無線室を備え、当時としては、まさに「空の戦艦」と呼ぶにふさわしいものでした。

《鹿屋航空基地史料館》
(Photo by ISSA)
そして、1941年3月の試作1号機領収を経て、日米開戦後の1942年2月に海軍に採用されました。

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最大重量は 32.5トンと、当時の陸海軍のみならず、世界的にも攻撃力・高速性・航続性で他の飛行艇を凌駕しており、

加えて、前線で戦うことも想定された二式大艇は、「飛行艇の主任務は後方支援」という、それまでの世界の常識を打ち破るものとなった(注4) のです。
(注4) 実際は、旋回銃による応戦には限界があり、海面スレスレで敵機から逃げ惑うことも多かったという
主な活動内容
二式大艇は、横須賀をはじめ、詫間、鴨池等、比較的に波が穏やかな場所に配備され、

《Google Earth》
(Created by ISSA)
7,000kmを超える長大な航続性を活かして、主に南方作戦に従事しました。

《Google Earth》
(Created by ISSA)
配備から間もない、1942年3月の「K作戦」では、マーシャル諸島を出発した2機の二式大艇が、フレンチフリゲート礁で伊号潜水艦から給油を受けた後、夜間に第二次真珠湾攻撃を仕掛け、米側を驚かせました。
1943年11月、玉利義男大尉機によるフェニックス諸島カントン島への偵察飛行では、3機のP-38ライトニングと40分交戦した末に1機を撃退し、
自機もエンジン2基停止、230箇所を被弾しながらも飛び続け、帰還を果たしました。
1944年2月、ラバウル撤退作戦では、二式大艇の長大な航続距離と高い生存性を活かして、延べ15機で600名の救出を成功させました。
また、時期は不明ですが、B-17フライングフォートレスなどの米軍の大型陸上機も撃墜しています。

戦いを描いた「大艇再び還らず」
(松本零士作品)のワンシーン
1944年11月、二式大艇が艦上偵察機「彩雲」の増槽を横浜からトラック島へ輸送したときは、不明船団から対空射撃を受けて電探が故障、一時的に機位を見失ったものの、辛うじてトラック島に辿り着きました。
1945年3月、鹿屋基地から初の特攻隊が出撃したときは、長距離航法能力に優れた3機の二式大艇がその先導役を務め、3,000kmを10時間以上かけて飛行し、ウルシー泊地に所在する米軍へと導きました。

被害を受けた米空母「ランドルフ」(右)
《鹿屋航空基地史料館》
(Photo by ISSA)
この特攻隊は、陸上爆撃機「銀河」24機・72名で編成され、あたかも梓巫女が邪気を払うために梓弓から放たれた不帰の矢の如く、天佑と不退転の決意を込めて「梓隊」(注5) と命名されていました。
(注5) 南北朝時代の武将・楠木正行の辞世の句「帰らじと兼ねて思へば梓弓 なき数に入る名をぞとどむる」に由来(「梓弓」は、武士が戦地に向かう際に引く弓のこと)

梓隊の隊員と「銀河」(右)
《鹿屋航空基地史料館》
先導した二式大艇3機のうち、1機は天候偵察を終えて帰投、もう1機は出発が遅れたので、残る1機がこの大役を務めることになりました。
この筆舌に尽くし難い特攻劇については、この機の操縦士を務めた長峯五郎氏が書かれた「二式大艇空戦記」を、是非、ご一読頂ければと思います。
なお、こうした南方への特攻作戦を指揮した第五航空艦隊司令部が置かれていた鹿屋には、特攻機からのモールス信号を受信していた地下施設があり、
電信員は、特攻機からの最後の突入電(注6) で散華の瞬間を見届けていました。
(注6) 特攻機は、いよいよ突入する時、その合図として、先ずト連送(ト・ト・ト)を送信し、続いて長音(ツー)を押したまま突入した(信号が途絶えた時が、散華の瞬間を意味)

(Photo by ISSA)
大戦後期、米軍が制空権を握るようになると、次第に敵戦闘機の餌食になることも増え、終戦時、二式大艇は僅か11機のみ(注7) となっていました。
(注7) 二式大艇の単価は零戦のおよそ20倍だったことや、川西が新開発の紫電改の生産ラインを増やしたことも、二式大艇の激減を後押しした
また、終戦から数日のうちに8機が処分や事故で失われ、詫間基地が保有する3機だけになってしまいました。
終戦後の二式大艇
その後、進駐軍が二式大艇に興味を示し、1945年9月に詫間基地に残存する二式大艇を飛行可能な状態に回復するよう命じます。
3機の内、最も状態の良かった31号機(1943年3月製と推定)をベースに修復が開始され、同年10月末に完了しました。

《鹿屋航空基地史料館》
(Photo by ISSA)
31号機が、日辻常雄少佐の操縦で横浜まで運ばれたとき、同乗していた米海軍のシルバー中尉は、二式大艇の卓越した性能に驚嘆してこう述べたと言われています。
「日本は戦争には負けたが、
飛行艇では世界に勝った」
米側に引き渡された31号機は、空母で米本土に移送され、同年12月に米東岸のノーフォーク海軍基地に到着。
翌1946年5月に米国内でテスト飛行を行っており、ここでも多くの米軍関係者や技術者を驚嘆させたと言われています。
その後、この機は同基地の倉庫で厳重に保管(注8) されることになりました。
(注8) 外翼や燃料タンクなどを取り外した上で、機体をビニールや樹脂などの特殊素材で覆い密閉(コクーン化)し、庫内はエアコンにより適度な湿度が保たれた
1959年、二式大艇の生みの親、菊原技師がこの基地を訪れ、日本への変換交渉を行いましたが、実現には至りませんでした。
34年ぶりに帰国
その後、船の科学館が引き取りを表明し、1979年11月、31号機は34年ぶりに日本に帰国することになりました。

1980年7月から、船の科学館に展示されていましたが、2004年4月末に鹿屋航空基地史料館に移設され、現在に至っています。

《鹿屋航空基地史料館》
(Photo by ISSA)
受け継がれた技術
一方、川西を前身とする新明和工業(注9) (以下「新明和」)は、1953年から新型飛行艇の開発を進め、1964年までには画期的な境界層制御(BLC)の技術を確立しつつありました。
(注9) 戦後、GHQが日本の航空機製造を禁じたことから、川西は社名を変えてオートバイなどで企業基盤を維持しつつ、飛行艇開発の中心となった菊原ら技術者は会社に残り、戦前の貴重な設計資料や研究成果は密かに温存されていた
同じ頃、海上自衛隊が新型の対潜飛行艇の構想を打ち出したことを機に、新明和は、米海軍が供与したグラマンの「UF-1」をベースに試作された「UF-XF」には、戦時中の技術が活かされたほか、BLC等の新たな技術も加わり、
1968年7月、二式大艇のDNAを受け継いだ海上自衛隊の対潜飛行艇「PS-1」が誕生しました。

《鹿屋航空基地史料館》
(Photo by ISSA)
こうして、戦前から温存されていた川西の技術は、再び日の目をみることになったのです。

《山口県大島郡周防大島町・陸奥公園》
(Photo by ISSA)
その後、海上自衛隊は、新明和に救難用に特化した飛行艇の開発を指示し、1975年に救難飛行艇「US-1」の配備を開始。

《鹿屋航空基地史料館》
(Photo by ISSA)
2007年からは、プロペラやエンジン、操縦装置、機内与圧等が強化された「US-2」へと装備更新がなされました。

《広島市交通博物館》
(Photo by ISSA)
海上自衛隊は「US-1」配備以降、これまでに1,000人を超える遭難者や患者等を救助しています。

ビッグコミック編集部寄贈
《鹿屋航空基地史料館》
(Photo by ISSA)
おわりに
日本海軍は、神武東征の御船出を発祥とし、村上水軍などの知識・技術を回収した幕府海軍が、薩摩藩及び英仏の支援を得て近代海軍へと発展し、
帝国海軍として栄光の時を迎え、敗戦により解体されたあと、先見性のある多くの海軍人や技術者によって現在の海上自衛隊に受け継がれました。
海上自衛隊は、帝国海軍から多くの伝統・文化のほか、戦後の機雷除去に当たった掃海部隊を引き継ぎ、
多くの人命を救ってきた救難飛行艇には、帝国海軍の傑作機「二式大艇」の技術が活かされました。

《鹿屋航空基地史料館》
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戦後80年。
メディア等で、よく「戦争を語り継ぐ」という言葉を耳にしますが、私たちが本当に語り継ぐべきものとは、一体、何なのでしょうか。
それは、ただ単に
戦争の痛ましい記憶や
当時の指導者や軍部の過ちといった
暗い側面ばかりではなく
飛行艇の技術を磨き上げ
開発に取り組み続けた「技術者魂」や
過酷な海と空で戦い抜いた
「搭乗員の負けじ魂」など
命がけでこの国のために
闘い抜いた先人への敬意と
遥か昔から受け継がれてきた
日本人の精神文化に対する誇り
ではないのかーーー
戦時という最も過酷な時代に生まれ、華々しくも短い生涯を終えた後、敵国の手に落ち、
今は海軍航空隊の故郷とも言うべき鹿屋の地にひっそりとたたずむ二式大艇が、私にそんなことを語りかけているように思いました🍀

《鹿屋航空基地史料館》
(Photo by ISSA)
