薩摩藩の「田の神」信仰について
最近は少しペース・ダウンしてしまいましたが、昔から、行く先々でジョギングするのが私の習慣のひとつになっていて、最盛期は年に1,000kmを走っていました。
沖縄や、横須賀や、岩国に居た頃は、ひたすら海沿いを走ることが多かったのですが、
当地では、田畑の中を走ることが多く、所々で、小さな石像を見かけることがあります。

《鹿児島県鹿屋市野里町》
(Photo by ISSA)
初めは、「少し変わったお地蔵様?」と思っていたのですが、
良く調べてみたら、地元で「田の神様」(たのかんさぁ)と呼ばれてきた田畑の神様であることが分かりました。

(鹿屋市ホームページ)
1 「田の神」信仰とは
田の神とは、元々、農耕民族であった日本人の間で広く信仰されてきた農耕神のことで、稲作を見守り豊穣をもたらす存在として崇められてきました。
田の神信仰の大きな特徴は、年に一度、決まった時期に決まった場所に来訪する去来神(注1) という考え方にあります。
(注1) 去来神としての田の神は、春に田植えや種まきが始まると山から里に降りてきて稲の生育を見守り、秋に収穫が終わると山に帰っていくとされている

《鹿児島県鹿屋市野里町》
(Photo by ISSA)
呼名は様々で、東北では「農神」、山梨や長野では「作神」、近畿では「作り神」、兵庫や山陰では「亥の神」、瀬戸内では「地神」などと呼ばれているそうです。
2 「田の神」像は薩摩の独自文化
このように、田の神信仰は、古来から全国的に様々な農村に浸透しているのですが、

奥に見える小森の辺りで、神武天皇の父
鵜草葺不合尊が降誕されたと伝えられる
《鹿児島県肝属郡肝付町》
(Photo by ISSA)
石像として崇められるのは、薩摩藩独自の文化(注2) で、江戸時代前期の18世紀初頭に始まったといわれています。
(注2) 元々、日本に広く根付いていた「お地蔵さん」(地蔵菩薩)は、仏教の伝統文化で、平安時代以降、人々の救済や守護を目的として作られてきたが、「田の神像」は、地蔵菩薩が八百万の神々の一部である農耕神に姿形を変えたもので、神仏習合の伝統文化に分類される
現在、学術的に確認されている田の神像は、3,400体を超え、うち9割以上が南九州(鹿児島全域と宮崎の一部)に集中しています。

《鹿児島県鹿屋市南町》
(Photo by ISSA)
3 田の神の特徴
田の神の石像は、石仏やお地蔵様に比べると、その姿形はかなりユニークかつ多様性に富んでいます。

(Photo by ISSA)

(Photo by ISSA)
田の神像のほとんどは、このように両手に茶碗(注3) や、しゃもじ、すりこぎ、稲穂、クワなどを持つ「農民型」で、装飾品の種類は40種にも上るそうです。
(注3) 茶碗だけは「日本の食事作法」に厳格で、必ず左手で持っており、人々のお米に対する強い敬意がうかがわれる

《鹿児島県肝属郡肝付町》
(Photo by ISSA)

ー 県指定有形民俗文化財 ー
《鹿児島県肝属郡東串良町新川西》
(Photo by ISSA)
一部の石像は、廃仏毀釈による損傷や水による浸食が見られますが、概ね200~300年前の姿かたちを保っています。

ー 県指定有形民俗文化財 ー
《鹿児島県肝属郡南大隅町根占川北》
(Photo by ISSA)
一方、宮崎県の南西部の都城、小林、えびの方面(旧薩摩藩の日向地方)に行くと、田の神像の様相は随分と変わってきます。
大方、祠で守られ、お供え物を欠かさず、綺麗に装飾された「神官型」が多くみられるのです。

(Photo by ISSA)
薩摩藩・日向地方の田の神像が「神官型」に姿を変えた背景には、霧島山を鎮める(注4) という別の目的もあるようです。

薩摩藩の領地となっていた
(Created by ISSA)
(注4) 享保年間(1716年〜1717年)の新燃岳の大噴火では、火砕流が発生して死傷者や家屋の焼失、牛馬の焼死など甚大な被害を出している
元々、日本にはお地蔵様という石像文化が下地にあったのですが、(下記「4」の理由から)薩摩藩では田の神に特化した石像が派生し、
更に、日向地域では霧島信仰が加わって、装飾された神官型に発展したということなのでしょう。

マスコットキャラクターになっている
《えびの市歴史民俗資料館》
(Photo by ISSA)
4 薩摩藩で石像化が進んだ理由
薩摩藩で田の神の石像化が進んだ背景には、幾つかの薩摩藩固有の事情がありました。
(1) 厳しかった気候・風土
ひとつは、南九州の厳しい気候・風土が挙げられます。
薩摩藩は、昔から台風の通り道になることが多く、収穫期である秋(9月〜10月)に台風による大きな被害を何度も受けてきたことや、
年間を通して桜島からの火山灰の影響を受けてきたことが、この地域の田の神信仰を、より一層、深める要因のひとつになりました。

《鹿児島県垂水市潮彩町》
(Photo by ISSA)
(2) 一向宗禁制の影響
また、1597年に島津義弘が一向宗(浄土真宗)を禁制とした(注5) ことも影響しています。
(注5) 一向宗の「阿弥陀如来の前で、すべての命は平等である」との教えが、特に、身分制度に厳しかった薩摩藩の支配体制と相容れず、藩は、庶民の間に平等思想が広がることを警戒していた
つまり、仏教が禁止されたことで、代わりに古くからの農耕神への信仰が、より一層、強まったというわけです。

ー 県指定有形民俗文化財 ー
《鹿児島県肝属郡肝付町野崎》
(Photo by ISSA)
(3) 集会や飲酒の制限
更に、薩摩藩では、支配体制維持のため農村での集会や飲酒が厳しく制限されていました。
薩摩藩の農民には9割前後の年貢に加え、1年の1/3は公役に駆り出されるなど、農民の暮らしは大変苦しいものでした。
せめて、豊穣を願う(=年貢を増やす)ためだったら、藩も集会や飲酒を許してくれるだろうと考えた農民たちは、

《鹿児島県肝属郡肝付町富山》
(Photo by ISSA)
自発的に田の神の石像を造って、春(田植え前)と秋(収穫後)に村で寄り合ってご馳走を備え、酒を酌み交わし、踊ったりしながら豊穣を願う「田の神講」(たのかんこ)を行うようになり、
このことが、田の神の石像化を後押ししたのです。
(4) 「おっとい」の習わし
加えて、薩摩藩には、昔から「おっとい」(注6) と呼ばれる「田の神像を、一時的に間借りして、後年お返しする」という習わしがありました。
(注6) 「おっとい」とは薩摩地方の方言で、「おっ盗る」(盗む)ことを意味

《鹿児島県鹿屋市南町》
(Photo by ISSA)
不作が続いた村や、新しく開墾した田畑を持つ村が、豊作が続く村の田の神像を「おっ盗る」(借りる)ことで、ご利益を分けて貰おう(注7) としたのです。
(注7) 石像を盗んだ(借りた)村の人々は、数年後に米や酒などの返礼品とともに、元あった場所に石像をお返しし、石像を盗まれた(貸した)村の人々は、酒迎(さかむけ)でもてなし、盛大な酒盛りを行ったという
尚のこと、石像という目に見える神様が必要とされた訳ですね。

この神は、昔、行方不明となったが
後年、謝礼と共に返されていたこと
から「出戻いさあ」 と呼ばれている
《鹿児島県肝属郡東串良町池之原》
(Photo by ISSA)

この神は、元いた集落の田畑が耕作放棄と
なったので「チョットタビニデテキマス」
と手紙を残し、現在の田畑の近くに御鎮座
《鹿児島県曽於市大隅町月野》
(Photo by ISSA)
このような気候・風土、儀礼・風習が相まって、薩摩藩では田の神の石像化が進んだと考えられています。
5 田の神像の魅力
こちらの田の神の魅力に取りつかれた鹿児島市在住のお医者さんは、医師として診療を続ける傍ら、
何と、自ら3,437体を調査して「田の神図録」を出版するに至ったそうです。
田の神の魅力に取りつかれてしまう、そのお気持ちは、何となく分かるような気がしました。
田の神像をGoogle Mapで検索しても、ほんの一部しかヒットしないので、

Google 検索をしてみる
(Google Map)
より多くの田の神像を見つけたいと思ったら、自治体の刊行物や個人のウェブサイト等の助けを得ることになります。
しかし、マップ自体が大雑把で、所在地も地番まで分からないことが殆どなので、近くまで行って自らの足で探すことになります。
田畑の真ん中に立っていてくれていたら、すぐに見つかるのですが、

《鹿児島県鹿屋市野里町》
(Photo by ISSA)
そうでない場合は、段々と「宝探しゲーム」か「かくれんぼ」でもしているような気分になってきます。
そんなとき、木立の中にひっそりと佇んでいる田の神さまを見つけた時は、

《鹿児島県鹿屋市吾平町上名》
(Photo by ISSA)
「見つけた!」と、思わず声を上げたくなります。
その時、木立にひっそりと佇む奥ゆかしさとか、表情の愛らしさに、つい引き込まれてしまうのです。
しかも、中には下の写真のようにお行儀の悪い神様が居たりして、

《鹿児島県鹿屋市吾平町上名》
(Photo by ISSA)
本当に個性豊かで楽しませてくれます。

ー 県指定有形民俗文化財 ー
《鹿児島県鹿屋市野里町》
(Photo by ISSA)

ー 県指定有形民俗文化財 ー
《鹿児島県鹿屋市野里町》
(Photo by ISSA)
当地が、多くの偉人を輩出した理由
その昔、天照大御神から、葦原中国(地上界)を高天原(天上界)のように素晴らしい国にするため天降るように命じられた天孫(天照大御神の孫)・瓊瓊杵尊が、
三種の神器を手に、他の神々を伴って、南九州の高千穂のくじふる嶽に降臨しました。

《神宮徴古館》
その際、瓊瓊杵尊は、
「暗闇に包まれていた大地に、稲穂の籾(もみ)を撒いて明るく照らした」
と言い伝えられています。

大地に、稲穂の籾を撒いて明るく
照らした」ことを意味する☆☆☆
そのような、日本建国の原点とも言うべき稲穂を守り続けてきた田の神は、神無月になっても出雲にお出かけになることなく、その土地に残って田畑を守り続け、
たとえ「おっとい」に遭い、他の土地に連れていかれても、文句も言わず一心に、その土地のお米の一粒一粒に「稲魂」を吹き込み続けてきたのです。

《鹿児島県曽於市大隅町月野》
(Photo by ISSA)
西郷隆盛は、武士であるにも関わらず、自ら農作業に勤しみ、重税に苦しむ農夫のために農政改革の建白書を薩摩藩に提出した話は有名で、
西郷の心は、常に農民の暮らしに寄り添っていました。
南九州は、天孫(瓊瓊杵尊)が初めて降臨した地であり、稲穂の籾を撒いて明るく照らし、田の神が「稲魂」を吹き込み続けたことと、
当地から、西郷隆盛をはじめとする多くの偉人を輩出してきたことは、決して無縁ではないのかもしれません。

ー 県指定有形民俗文化財 ー
《鹿児島県肝属郡南大隅町根占川北》
(Photo by ISSA)
おわりに
日本人は、厳しい暮らしの中にあっても、本来、恐れ多いはずの神々を、親しみやすくて、(時には「おっとる」ことさえ許容してくれる、)寛容で個性豊かな神々を生み出してきました。
そのような庶民の想像力や逞しさは、日本人の美徳であり、これからも大切に守るべき「日本の心髄」なのでしょう。

《鹿児島県鹿屋市野里町》
(Photo by ISSA)
今年、日本を騒がせた「令和の米騒動」にも鑑み、
自己紹介に掲載している「日本の心髄」のリストに、「稲作と日本のお米」を加えることにしました。
私たちが、外来米に抵抗感や違和感を覚える理由。
それは、単に食感だけの問題ではなく、日本の神々による「稲魂」が吹き込まれていないと、心のどこかで感じているからではないでしょうか。

そびえるのは天孫降臨の地、高千穂峰
(Photo by ISSA)
今年、世間を騒がせた令和の米騒動をみていて、今の日本人は、
「お米」と「神々」と「真心」は
三位一体である
という、本来、お米が持つ根源的な価値というものを見失っているように思いました。
私たちは、お米を単なる食材とみるだけではなく、そのことについて、もっと考える必要があるのかもしれません。
いつも、ありがとうございます🍀
