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日本の心髄について語る(第2回)

「日本の心髄」という3つの重要なテーマについて、3回シリーズでお話しています。
 
第1回では日本神話を中心に日本人が持つべき日本創生の「歴史観」についてお話しましたが、第2回では神社・仏閣を中心に世界の中でも特異な日本人の「宗教観」について述べたいと思います。
 
1 日本人固有の「死生観」
第1回でもお話したように、古来から神道では死に対する穢れ(けがれ)の概念があり、死者は集落から離れた黄泉(よみ)の国や常世(とこよ)の国といった隔絶された世界に行くと考えられていました。
 
その後、6世紀中頃に伝来した仏教の考え方が取り入れられ、「人は死後、霊魂となり、あの世で先立った者たちと再会し、そして神仏となる。しかし、現世への執着や怨念が強い場合は成仏できずに幽霊となってこの世を彷徨い、或いは、行いが良くなかった者は地獄に堕ちて鬼たちから拷問を受ける」といった平均的な死生観が形づくられ、今日に至っています。
 
2 日本人にとって神様とは
「人は死後、あの世で神仏になる」と申しましたが、私たちは「ああ、神様」と天を仰いですがりたくなったとき、いったい何者を想像するのでしょうか?
 
そういわれると、あの世で神仏になった特定の人物ではなさそうな気がします。また、天照大御神でも、仏陀でも、ご先祖様でもない、自分でもよく分からない何か漠然としたものではないでしょうか。
 
江戸時代の国学者・本居宣長(もとおりのりなが)は、自書「古事記伝」で、日本の神について「普通でない、優れたところがあって、恐れ多いもの」と定義しています。
 
つまり、古来、日本人は①紀記に登場する天照大御神や大国主神などの神々、②その神々の子孫とされる歴代天皇や皇族、③太陽や月、海や風、大木や岩などの自然のもの、④動植物、及び⑤亡くなった徳の高い人間など、「八百万(やおよろず)の神々」を敬い、これらが渾然一体となった姿かたちのないものが、私たちが困った時にすがりたくなる神様なのです。

いたる所に八百万の神々が住まう国、日本 

3 日本における宗教の変遷
このように、日本が独特の死生観や神々を擁するに至った経緯は次のように考えられています。
 
(1) 黎明期
狩猟で暮らしていた縄文時代までは、世界中でみられるような自然崇拝の習慣が根底にありました。やがて弥生人が稲作を営むようになると、土偶のような土地の生産力の象徴を崇めるようになり、呪術師によるシャーマニズムも出現します。
 
その後、大陸から伝来した易学や天文学などが統治者による祭礼に反映され、各地で社(やしろ)が建てられて、それぞれが祖と仰ぐ固有の神々が祀られるようになりました。
 
(2) 宗教を政治に利用
日本を初めて平定したヤマト王権は、中央集権の礎とするため天照大御神を祖とし、その祭祀権を独占的に継承する制度を樹立しました。
 
各地に並立する氏族は、それぞれに氏神(うじがみ)を持っていましたが、ヤマト王権は、それらの氏神を排除せず、天照大御神に従属する地位を与えることで、神々が調和的に共存できるように国家統一が進められたのです(これも、第1回でお話した初代・神武天皇から是とされていた「ことむけの精神」の表れなのでしょう)。
 
(3) 仏教伝来
仏教は、紀元前6世紀頃までにネパールの釈迦族の王子であったゴータマ・シッダールタ(お釈迦様(注1) )がインドで創始した宗教で、538年(一説には552年)に日本に伝来しました。
 
天照大御神を祖とする神々や土着の信仰に慣れ親しんでいた当時の日本人には、初めて文字で書かれた仏典や説法に接したとき、さぞかし奇異で異質なものと感じられたことでしょう。
 
(注1) 一般に、お釈迦様のことを「仏陀」とも呼ぶが、本来は悟りを得ることが「仏陀」であり、個人を表すものではない
 
当初、日本人は仏のことを蕃神(ばんしん)、つまり「異国の神」と受け止め、しばしば、外来の宗教である仏教を容認するか否かで対立が起きていました。
 
普通であれば弾圧や排斥が起きてもおかしくない状況ですが、この時も当時の王権は英知をもって仏教を共存させる道を模索します。
 
593年に聖徳太子が叔母・推古天皇の摂政になると、天皇中心の国づくりを進めるにあたり、仏教の教えを積極的に取り入れた「冠位十二階」や「十七条の憲法」(注2) などの制度を整え、律令国家の基礎を築きました。
 
また、法隆寺や四天王寺など幾多の寺院を建立し、仏教の振興に力を入れました(8世紀中頃になると、東大寺に盧舎那仏像(るしゃなぶつぞう)、いわゆる「奈良大仏」が建立される)。
 
そして、死後往生して仏になるという仏教の考えは古来の神道と異なる斬新な発想で、次第に当時の日本人の間で受け入れられていったのです。
 
(注2) 604年に発布された道徳的規範を中心とする法令。内容は「和を以って貴しとなす」から始まり、官吏の服務などの訓戒を示し、国家理念と人間の在り方を説いた。仏教思想の影響もうかがわれる

仏教伝来のルート、聖徳太子と法隆寺 

(4) 日本神道の確立
このように、仏教が急速に日本社会に浸透する中、仏教との比較において日本古来の神道とは何かが再認識されるようになります。
 
8世紀初頭に「古事記」や「日本書紀」などの記紀が編纂され、神代から第41代・持統天皇に至る歴史がまとめられた背景には、時の朝廷には、天皇の祖である天照大御神を主神とし、歴代天皇がその直系の子孫であるという正当性を改めて世に示したいという思いがあったのでしょう。
 
(5) 神仏習合
平安時代には本地垂迹(ほんじすいじゃく)が唱えられました。本地垂迹とは神仏習合(しんぶつしゅうごう)(注3) 思想の一つで、神道の八百万の神々は、実は様々な仏が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えです(例:天照大御神は「大日如来」、大国主神は「大黒天」、瓊瓊杵尊は「釈迦如来」等)。
 
鎌倉時代になると、これが日本人の一般的な通念となります。仏教と神道、神社と仏閣、その境界は益々あいまいになっていきます。
 
(注3) 神社の中に仏像があったり、お寺の中に鳥居があったりと、日本古来の神道と外来の仏教が融合して一つの信仰体系として再構成されること
 
なお、神仏習合の最たるものは七福神(しちふくじん)です。七福神は、ヒンドゥー教(大黒天・毘沙門天・弁才天)、仏教(布袋尊)、道教(福禄寿・寿老人)、日本の土着信仰(恵比寿天)などの国際色豊かな神仏が習合したもので、室町時代の末期に生じて庶民に広まったと言われています。

実家の床の間で見た「神仏習合」の縮図(Photo by ISSA) 

(6) 基教伝来
時代は下って16世紀の戦国時代、再び外来の宗教が日本に伝来します。それは、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが日本で布教した基教(キリスト教)でした。
 
しかし、そもそも一神教の基教とは折り合いが悪く「神仏『基』習合」とはなりませんでした(後年にマリア地蔵のような習合化がみられた)。
 
当初は織田信長の庇護を受けたこともあり、イエズス会は順調に基教信者を増やしていきますが、豊臣秀吉の安土桃山時代になるとバテレン追放令により基教は禁止され、江戸時代に入ると更に弾圧は厳しくなり、日本人全員が仏教徒であることを強要されました。
 
特定の寺院に属してお布施などによって経済的に支援する檀家制度(だんかせいど)が採り入れられ、鎖国政策によって宣教師は日本に入国できなくなりました。
 
(7) 国家神道の台頭と神仏分離
江戸時代後期になると、国学者から仏教の影響を受ける前の日本固有の精神に立ち返ろうという考え方が提唱されました。
 
先述の本居宣長の「古事記伝」などによって体系づけがなされ、これに啓発された平田篤胤(ひらたあつたね)らが、仏教を除外して日本古来の信仰を尊ぶ「復古神道」を発展させていったのです(平田神道ともいう)。
 
復古神道は当時の町人や農民のみならず幕末の志士たちにも支持され、明治維新への源流にもなる尊王攘夷(そんのうじょうい)の考え方にも影響を及ぼしました。
 
明治元年(1868年)、王政復古と政教一致を理想に掲げる明治新政府が神道国教化の方針を打ち出し、「神仏分離令」を発しました。
 
これにより、神社と寺院を分離・独立させ、神社に奉仕していた僧侶には俗人に戻ることを命じたほか、神道の神に仏具を供えることや御神体を仏像化することも禁じました。
 
神仏分離令は、仏教の排斥を意図したものではなかったのですが、これをきっかけに全国各地で「廃仏毀釈」運動がおこり、多くの寺院や仏具が破壊されました。
 
しかし、そもそも神道の国教化は宣教経験に乏しい神道関係者のみでは難しく、1872年には神仏分離令は頓挫します。
 
他方、神道については歴史教育で日本神話が取り入れられ、天照大御神を祀る伊勢神宮を頂点とした神社本局が全国の神社を統括し、あらためて天皇を神聖不可侵の現人神(あらひとがみ)に祭り上げることによって神格化の色合いを強めるなど、神道と天皇が新政府の基盤固めに利用されました。

明治政府の憲法発布(左上)
平田篤胤と廃仏毀釈(左下)
菊花紋章と明治天皇(右) 

(8) 戦後、国家神道は廃止へ
第二次世界大戦が終結すると、連合国最高司令官総司令部(GHQ)によって国家神道は廃止され、政教分離が行われました。
 
また、天皇自身で神格を否定して欲しいとするGHQの意向を踏まえ、昭和天皇自らがいわゆる「人間宣言」と呼ばれるの詔書(注4) を発布しました。
 
(注4) そもそも、天皇が自らを神と主張したことはなかった。また、詔書の中に「人間」という言葉は使われておらず、天皇の祖先が日本神話の神であることや歴代天皇の神格について否定していない
 
このように、紆余曲折を経て日本は独自の死生観や神々を擁するとともに、時代の変化とともに神々の定義について柔軟に解釈してきた訳ですが、閉鎖的で個性がないなどと言われがちな日本人は、本当は多様な八百万の神々を受け容れるだけの寛容さを備えた、開放的で個性豊かな民族だったのです。
 
4 神社の種類
その八百万の神々を祀る神道の祭祀施設である神社には、神宮、大社、八幡宮など、様々な呼び名があります。
  
(1) 神宮
本来、「神宮」は「伊勢神宮」を指していましたが、今では下記のような皇族の祖先や皇族が御祭神(ごさいじん)として祀られている皇室とゆかりの深い神社を神宮と呼んでいます。
伊勢神宮:天照大御神
明治神宮:明治天皇・昭憲皇太后
橿原神宮:神武天皇
伊邪那岐神宮:伊邪那岐命・伊邪那美命
 
(2) 大社
本来、「大社」は「出雲大社」(注5) を指していましたが、今では主に全国にある神社の総本社や、戦前に社格が高かった神社のことを言います。
伏見稲荷大社
春日大社
諏訪大社
出雲大社

(注5) 10月になると、翌年の縁を結ぶ会議のため八百万の神々が出雲に集うという云われから「大社」と呼ばれた(日本各地で10月を神無月(かんなづき)と呼ぶ一方、出雲では神在月(かみありづき)と呼ぶ)。
 
出雲大社は、平安時代には日本一の高さを誇る「高層神殿」であった。出雲大社では古来、他の神社とは反対に神様に向かって左方を上位としていたことから、出雲大社の大しめ縄はしめる向きが逆になっている。
 
(3) 宮
宮(みや、ぐう)は、神宮と似て身分の高い人や皇族をおまつりしている神ほか、歴史上の重要人物をまつる神社のことです。
日光東照宮:徳川家康(東照大権現)を祀る神社の総本社
大宰府天満宮:学問の神様、菅原道真を祀る神社
 
(4) 八幡宮
八幡宮は八幡大神、つまり「応神天皇(誉田別命(ほんだわけのみこと))」、「比売大神(ひめおおかみ)」並びに応神天皇の母「神功皇后(じんぐうこうごう)」をお祀りする神社で、全国に約44,000社と、日本で一番多い神社と言われています。
 
応神天皇がなぜ八幡と言われるようになったかは定かではないようですが、八幡宮は東大寺の守護神としても鎮座し八幡大菩薩と呼ばれるなど、神仏習合のさきがけになったとされています。
石清水八幡宮
鶴岡八幡宮
  
(5) 神社
最も一般的な名称です。全国には、上記の大社や神宮なども含めて約85,000の神社があり、登録されていない小神社を含めると10万を超える神社が存在しているようです。
靖国神社
厳島神社
貴船神社
 
靖国神社(注6) は、1868年以降、戊辰戦争や明治維新期の戦没者を慰霊する動きが活発化した背景を踏まえ、明治天皇の勅令によって明治2年(1869年)に建立されました。
 
戦前は内務省によって管轄されていましたが、戦後は独立の宗教法人となっており、国家のために殉難した人の英霊246万6千余柱を祀っています。
 
一方、全国各地には護国神社が建立されており、その地域の出身ないし縁故の戦死者や、自衛官・警察官・消防士等の公務殉職者を主祭神としています。
 
公式には護国神社は靖国神社とは本社分社の関係にはないのですが、共に英霊を祀る神社として深い関わりがあるようです。

(注6) 靖国神社は、どこの国にも当たり前にあるような「国のために殉難した者をお祀りする施設」であり、海外メディアが「War Shrine」などと表記するのは誤り。また、A級戦犯の合祀を問題視する向きもあるが、日本はいわゆる「死者に鞭打つ国」ではなく、「戦犯」自体、いわば戦勝国によって一方的に貼られたレッテルという側面があることも考慮すべきであろう
 
5 「祈り」とは何か
これらの神社に参拝する私たちは、境内の前で何かを祈願するものですが、そもそも「祈」と「願」の違いはどこにあるのでしょうか。
 
端的に言えば、「願い」とは個人的な願望から発生するものであり、「祈り」とは他者への思い遣りから発生するものといえます。
 
人は善なる存在である一方、時としていとも簡単に悪意に揺れ動いてしまう弱い存在です。
 
古来、日本の神々はそのような弱い人間のあらゆる「祈」「願」に寛容でした。その寛容さこそが、神道の最大の魅力なのではないかと思うのです。
 
鳥居の先は神々の領域であり、何だか「利欲にまみれた私が立ち入って良いものか」と、一瞬、躊躇したくなることさえあります。
 
しかし、御神木に囲まれた境内、木漏れ日のさす石畳、神の使いとして立ち並ぶ狛犬、鳴り響く野鳥のさえずり、吹き抜けるそよ風、たなびく木々のざわめきに触れたとき、私たちは全身で神々の存在や、あるがままの自分が受け入れられていることを感じ取り、邪心が消えて清々しい気持ちになっている、そして拝殿で祈願を終えたとき、自身の考えがまとまり、迷いが吹っ切れて、決意や覚悟が決まっている、といったことを多くの人が体感しているはずです。
 
難しい教義がなくても、行きたい時に訪れるだけで、より良い自分を取り戻し、或いは啓発させられる、このことも神道のもう一つの魅力なのだと思います。
 
数年前、本当は願い事が叶うとは思っていないもう一人の自分がいることに気づきました。
 
それ以来、自身に関することについては「神様どうか願いを叶えてください」といった他力本願的な祈願をはやめて、努めて「私はこうします、これを達成するので、何卒お見守りを、力添えを」といった自力本願的な誓いを立てるようにしています。
 
他者を思い遣り、迷いのない自分に高めるための行為、それが「祈り」なのかもしれません。

God helps those who help themselves.
(天は自ら助くる者を助く) 

まとめ
古神道は自然崇拝の中で生まれ、ヤマト王権は基盤固めに神道を利用しました。しかし、それは他の神々への強制や排斥を伴うものではなく「ことむけの精神」によって進められ、仏教伝来後も神仏習合という形をとりました。
 
古事記や日本書紀が編纂され、歴代天皇と神道の関係が明確になり、その後は基教弾圧や神仏分離、国家神道の台頭などがありましたが、根底には、常に神々が共存できる道を選んできた時の王朝の英知と、時代の変化に応じて多様な神々を受け入れてきた日本人の柔軟さがあったのです。

初代・神武天皇を主祭神とする神上神社(Photo by ISSA) 

世界中、どこを見渡してもこれほど個性豊かで寛容な神々は居ないのではないでしょうか。信徒である私たちにほとんど義務的な感覚はなく、むしろ行く先々で出会うその土地ならではの神々との触れ合いを楽しんでいるようにも見受けられます。
 
日本の神は、一神教でいう創造主や全知全能の神ではなく、日本の隅々にあまねく存在している神々のことです。同時にそれは「私たち自身が創造した神々」でもあり、これら個性豊かで寛容な八百万の神々と日本民族は、実は表裏一体の関係にあるとも言えるでしょう。
 
これらの神々を祀ることによってその恩恵にあずかり豊かで平和な暮らしができる、万一神々への祀りを怠れば災厄が降りかかる、これが日本人の「宗教観」なのですが、一方で、内面的には仏教の教えと相まって「宗教的価値観」というものを育んできました。
 
この宗教的価値観はとても大事なもので、より良い人間になるための道徳や規範としての役目を果たしています。私たち自身が気づけないほど自然に物事の考え方や暮らしに根付いていて、厳格な教義がなくても道徳や規範が保たれてきたことは、実は凄いことなのです。
 
昨今、「価値観の多様化」が進み、より自分らしく生きられるようになりました。先述のとおり、日本人は元々「多様」な神々を受け容れるだけの「寛容さ」を備えた民族だったのですが、「多様性」と「寛容さ」が併存できる社会は、道徳や規範が根底で共有されていることが大前提です。道徳や規範を守れない「多様性」には、人は「寛容」になることはできないのです。
 
従来、その根底の部分を担ってきたのが宗教的価値観であり、もっと端的に言えば「和の精神」だったはずです。今後、どれだけ日本社会において価値観の多様化が進んだとしても、日本の心髄ともいうべき「和の精神」だけは失われて欲しくないとそう思います。
 
「和を以って貴しとなす」(聖徳太子)
 
(第3部へ続く)