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長崎紀行 ~ シーボルト記念館を訪ねて

こちらは、長崎の欧風銘菓「おたくさ」です。あじさいの花びらをかたどったパイ生地のお菓子で、1971年から販売されている長崎を代表するお菓子のひとつとなっています。

長崎の欧風銘菓「おたくさ」
(Photo by ISSA)

ご存じの方も多いと思いますが、この「おたくさ」という名称には、1823年に長崎に来たドイツ人医師、シーボルトが愛した日本人女性、お滝さんへの敬愛の気持ちが込められていました。

シーボルトの生い立ち
シーボルトは、1796年2月に神聖ローマ帝国時代のヴュルツブルク(現・ドイツの地方都市)という町で、医学者の家に生まれました。

当初、地元の大学で哲学を学んでいたのですが、家族の勧めで医学に転向し、動物学、植物学、民俗学などを学んだあと、内科、外科、産科の博士号を取得します。

Wuerzburg
(wikipedia.org)

卒業後は、一旦、開業しますが、いつしか学術的な興味から日本に渡ることを強く望むようになりました。

しかし、この頃のヴュルツブルクは国情が不安定(注1) だったので、シーボルトは、日本との国交があるオランダの力を借りることにし、

オランダ領東インド陸軍の外科少佐の肩書を得て、先ず、日本への足掛かりとしてインドネシアに赴きます。

(注1) 18~19世紀のヴュルツブルク
1700年 ~ 神聖ローマ帝国の司教領
1805年 ~ ヴュルツブルク大公国
1814年 ~ バイエルン王国

シーボルトの肖像画
《長崎歴史文化博物館》
(Photo by ISSA)

1822年9月、ロッテルダムを出港したシーボルトは、喜望峰経由、1823年3月にインドネシアのバタビア(現・ジャカルタ)に到着。

当時のバタビアの様子
《長崎市出島和蘭商館跡》
(Photo by ISSA)

長崎の出島に赴任
オランダ領東インド総督から、自然科学への深い知識と探求心が認められたシーボルトは、

日蘭貿易の発展に資する日本研究という使命を与えられて、出島にあったオランダ商館の医師(注2) として、日本に渡ることになりました。

(注2) 当時、キリスト教の布教を警戒して鎖国していた幕府は、オランダだけは布教目的ではなく商業目的で来日していると判断し、例外的に交流を認めていた。そのような事情もあって、シーボルトは、ドイツ人ではなく、オランダ人と偽って日本に入国した

1823年6月、バタビアを後にしたシーボルトは、同年8月、長崎に到着。シーボルト、27歳の時でした。

調査任務付の陸軍少佐としてスパイの役割も担っていたようですが、元々、好奇心が旺盛だったシーボルトは、オランダ商館員の健康管理に当たりながら、自然と日本に関する様々な知識を修得していきました。

ケンペル、ツュンベリー、シーボルトは
「出島三学者」とされている
《長崎市出島和蘭商館跡》
(Photo by ISSA)

当時の外国人は、原則、出島を出ることは許されていなかったのですが、シーボルトは長崎奉行の好意で外出が許され、しばしば、医療に必要な薬草の採取に出かけたり、部外で診療講義を行ったりしていました。

1859年に再来日した際、
娘のイネに与えた医療器具
《長崎歴史文化博物館》
(Photo by ISSA)

お滝さんとの出会い
シーボルトが、冒頭でご紹介した、長崎銘菓「おたくさ」の由来(注3) にもなっているお滝さん(楠本 滝)と出会ったのは、1823年に彼が出島に到着して間もない頃でした。

お滝さんは、商館員のお世話係として出島への出入りを許された女性の一人だったのですが、

シーボルトは、出島での歓迎の宴席で彼女と出会い、その後、お滝さんは出島でシーボルトの身の回りの世話をするようになりました。

お滝さんとシーボルトの肖像画
(Travel Nagasaki)

(注3) 長崎では、女性の名の末尾を「さん」ではなく「さ」と呼ぶ習慣があったことから、シーボルトは「おたきさ」のことを「おたくさ」と聴き取ったという

鳴滝塾の開設
1824年、シーボルトは更なる日本調査のため鳴滝(なるたき)に民家を買い、そこに、日本人医師に対し医学講義を行うための「鳴滝塾」を開きました。

時折、シーボルトが披露する治療や手術は噂となって広まり、次第に門下生も増え、多いときは150名ほど集まったそうです。

史跡 シーボルト旧宅跡
《長崎県長崎市鳴滝》
(Photo by ISSA)

シーボルトは、薬草療法という観点からも、当初から日本の草花に大きな関心を寄せ、1825年には出島に植物園を作り、日本を出るまでに1400種以上を栽培(注4) しました。

(注4) 現在、出島のシーボルト・ボタニカル・ガーデンには、シーボルトが日本に滞在していた頃、オランダに送った約260種の植物のうち、里帰りさせた5種(イロハモミジ、ナツヅタ、フジ、アケビ、ケヤキ)が植えられている

シーボルト・ボタニカル・ガーデン
《長崎市出島和蘭商館跡》
(Photo by ISSA)

こうして、シーボルトは、門下生に医療器具の使い方、外科手術の技術、解剖学、臨床のみならず、薬草療法に至るまで、科学的な根拠に基づいた教育指導を行い、それまで漢方医学が中心だった日本の医学を近代化へと導いたのでした。

江戸参府に同行
1826年4月から約3か月間、オランダ商館長(カピタン)(注5)江戸参府に同行し、学術調査や標本採集などを行いました。

(注5) ポルトガル語の「Capitão」に由来。英語で言う「Captain」(キャプテン)に相当

江戸では葛飾北斎と面会し、将軍・徳川家斉に謁見するとともに、幕府の天文方・高橋景保とも交流し、

景保との間で後のシーボルト事件(後述)につながる、ある密約を取り交わしました。

映画「大河への道」で
高橋景保の役を演じる中井貴一

シーボルト事件
5年の任期を終えたシーボルトは、1828年8月、一旦、ドイツに帰国することになりました。

このとき、シーボルトが乗ることになっていたオランダ船「コルネリウスハウトマン号」が暴風に遭い長崎港内で座礁。

オランダ船の模型
《長崎市出島和蘭商館跡》
(Photo by ISSA)

奉行所の検査で、船内から禁制品であった日本の地図や、将軍家の家紋である葵の紋付きの着物などが見つかりました。

間宮林蔵(注6) が1811年に作成した樺太の地図は、正確な情報に欠けていたため、

1826年に江戸で高橋景保と会ったとき、シーボルトが「世界周航記」などを送る見返りとして、景保から、禁制品とされていた伊能図「大日本沿海輿地全図」の縮図(写し)を受け取っていたのです。

左:シーボルト
中:間宮海峡
右:間宮林蔵

(注6) 江戸後期の探検家で幕府の役人。伊能忠敬から測量を教わり、蝦夷地図を完成させた。その後、シーボルトにより樺太・大陸間の最狭部が「マミアノセト」(海峡自体は「タタール海峡」)と名付けられ、樺太が島であることを確認した人物と認められた

なお、事件当時、高橋景保と間宮林蔵の間には確執があったとされ、一時期、間宮の密告がきっかけでシーボルト事件が起きたという噂が広まりましたが、この説は、後に否定されています。

同年11月、伊能図の写し、その他の禁制品は、奉行所の命で没収されることになりました。

シーボルトは、奉行所のそれらの品々を没収しないように嘆願し、日本に帰化することも提案しましたが、聞き入れてもらえず、密偵の疑いで出島に拘禁され、厳しい取り調べを受けることになったのです。

シーボルト像
《長崎県長崎市鳴滝》
(Photo by ISSA)

国外追放となる
シーボルトは、多くの協力者に罪が及ばないように、頑なに彼らの名を明かそうとしませんでしたが、

結局、門弟や友人、関係する役人も取り調べを受けることとなり、最終的にシーボルト自身は、1829年に国外追放処分となりました。

同年12月末の出発の日、二度と会うことはできないであろう、お滝さんと2歳になった娘のイネ、そして、シーボルトを慕っていた門弟らと最後の別れを告げたのでした。

帰国後の足跡
日本での功績を認められたシーボルトは、1831年にオランダ国王から勲章を授けられ、オランダ東インド陸軍参謀部付となり、日本関係の事務を嘱託されました。

1832年にオランダのライデンに家を借り、コレクションを展示した「日本博物館」を開設。

また、「日本」「日本植物誌」「日本動物誌」などの学術誌の編纂に取り組み始めたのも、この頃でした。

シーボルトが生涯をかけて取り組んだ
日本に関する学術誌の数々
(Created by ISSA)
シーボルト著「日本」の複製
《長崎県長崎市出島和蘭商館跡》
(Photo by ISSA)

これらの出版物は、当時のヨーロッパにおける日本研究の基礎を築く上で決定的な役割を果たしました。

特に、1839年刊行の「日本植物誌」第2巻の中では、あじさいに、お滝さんにちなんだ「ハイドランゲア・オタクサ」という学名を与えました。

左:シーボルト妻子像螺鈿合子
右:ハイドランゲア・オタクサ
《長崎市出島和蘭商館跡》
(Photo by ISSA)

シーボルトが深く愛したお滝さんへの想いを込めて名付けたものでしたが、これは後にシノニムであることが判明しました。

シーボルトが命名する前に、スウェーデンの植物学者ツュンベリー(先述の出島三学者の一人)によって「ハイドランジア・マクロフィラ」という学名が発表されていたのです。

後年、「日本植物学の父」と呼ばれる牧野富太郎は、シーボルトが草花に愛妻の名を付けたことについて、「私情を挟んだ厳格さを欠くもの」として強く批判(注7) しています。

(注7) 1929年、牧野富太郎が発表した論文「あぢさゐの正名」で、彼はこの学名がシーボルトの命名ミスであり、国際的な植物命名規約に反していることを指摘

しかし、その牧野も、1928年に愛妻の名を「スエコザサ」に名付けていたので、「牧野自身も私情を挟んでいる」と一部から非難されました。

スエコザサ
《高知県立牧野植物園》
(Photo by ISSA)

余談ですが、松本零士によれば、宇宙戦艦ヤマトのスターシアや、銀河鉄道999のメーテルのモデルは、シーボルトの孫(イネの子)である楠本高子なのだそうです。

左:楠本 滝(シーボルトの妻)
中:楠本イネ(シーボルトの娘)
右:楠本高子(シーボルトの孫)

シーボルトは、1845年、48歳でドイツ貴族出身の女性と結婚し、その後、3男2女(注8) をもうけました。

(注8) 長男のアレクサンダーは、後にシーボルトとの来日を機に、日本と西洋の架け橋となり、明治維新後も長州ファイブの一人、井上馨の秘書として条約改正交渉にあたるなど、日本政府の顧問として重要な役割を果たした

1853年、アメリカの東インド艦隊を率いたペリーの来日とその目的を事前に察知し、早急な対処を行わない(軍事力を行使しない)ように要請する書簡を送っています。

30年ぶりの来日
1858年には日蘭修好通商条約が結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除され、翌1859年、オランダ貿易会社顧問として日本を再訪することができました。

このとき63歳。これは彼が日本を去ってから30年後のことでした。

かつて、海を越えて恋文を送り合ったシーボルトとお滝さんは、30年の時を超えて再会を果たし、娘のイネや門弟たちとも会うことができました。

このとき、「再会のしるし」となった煙草入れ、シーボルト妻子像螺鈿合子(らでんごうす)(注9) が、国指定重要文化財となっています。

シーボルト妻子像螺鈿合子
長崎市 週刊あじさい

(注9) シーボルトは、1829年に日本から追放される際、お滝さんと娘のイネの肖像画を、絵師の川原慶賀に描かせた煙草入れを携えて帰国。1859年に30年ぶりに再来日した際に、日本に持参していた

シーボルトは、日本で貿易業を営む傍ら、鳴滝の住居を買い戻して日本研究や治療を再開しました。

また、幕府から外国奉行顧問に任命され、日本の近代化に貢献することが期待されたのですが、この頃は攘夷派が台頭し、幕府内の政争に巻き込まれて立場が不安定になり、

1861年には顧問職を解任されて、翌1862年には日本を離れてオランダに帰国することになりました。

1863年1月、オランダに戻ったシーボルトは、オランダの官職を辞し、1864年に生まれ故郷であるドイツのヴュルツブルクへ帰りました。

中:キヨソネ作・シーボルト肖像画
左・右:シーボルト家の紋章☆☆☆
《シーボルト記念館》
(Photo by ISSA)

彼はその後も日本への強い愛着を抱き、再度の訪日を画策しましたが、それは叶いませんでした。

晩年(1866年)、シーボルトはミュンヘンで日本博物館を開催するなど、最期までヨーロッパにおける日本文化の紹介に人生を捧げ、70歳の生涯を閉じました。

彼の最期の言葉は「私は、平和の国へ行く」であったと伝えられており、この「平和の国」は日本のことを指していたと言われています。

シーボルトが日本で収集したコレクションは、現在、オランダのライデンにあるシーボルト・ハウスに収蔵されています。

鳴滝塾があった旧邸宅の隣には、そのシーボルト・ハウスをイメージした赤レンガの洋館が建っており、シーボルトに関する展示品を見ることができます。

シーボルト記念館
《長崎県長崎市鳴滝》
(Photo by ISSA)

館内は撮影禁止でしたので、展示物についてはこちらからご覧ください。

おわりに
もし、シーボルトが居なかったら、ヨーロッパ各国における日本への理解と、日本の近代医学の発展は遅れていたかもしれません。

シーボルトは、日本人女性と娘を愛し、あじさいに「おたくさ」と名付け、仲間を庇い、日本に帰化することを望み、ペリーを制止し、

死後は「平和の国」へ旅立つことを夢見る等、生涯、日本のことを想い続けました。

白人至上主義が支配するこの時代に、これだけ日本を愛し、日本の発展に貢献した白人が、どれほど居たでしょうか。

逆に言えば、日本にはそれだけ人を魅了する強烈なソフトパワーがあったということを、心に留めておくべきでしょう。

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後 記
西欧人と、日本人女性と、あじさい。

この関係性から、1543年、火縄銃に使うネジの謎を解くために、ポルトガル人に嫁いだ種子島の刀鍛冶・八板金兵衛清定の娘、若狭(わかさ)の物語を思い出しました。

若狭が、故郷の種子島を旅立つ際に、砂浜に咲いていた「あじさい」を涙で濡らしながら別れを告げたことから、

島の人々は、あじさいの花の色が移り変わるのは、揺れ動く若狭の故郷への切ない想いによって変化するのだと語り継ぎました。

牧野富太郎の「スエコザサ」といい、古今東西、男女と草花は切っても切れない仲のようですね🌼

いつも、ありがとうございます🍀