自然災害伝承碑から始める水害の探究――埼玉・加須市に残るカスリーン台風の記憶
自分の住んでいる町に、昔の水害を伝える石碑がある。
けれど、その前を通っても、何が書かれているのか、なぜそこに建っているのかを知らない。
そんなことは、意外と多いのではないでしょうか。
「総合的な探究の時間」や自由研究で、地域の歴史を調べるとき、教科書やインターネットの情報から始めることが多いと思います。もちろん、それも大切です。
しかし、地域にはもう一つの入口があります。
それが、石碑です。
石碑は、その場所に立ち続けています。
かつて水が押し寄せた場所。
堤防が決壊した場所。
人びとが逃げ、助け合い、復旧に取り組んだ場所。
そうした記憶が、文字として、場所として、現在まで残されています。
この記事では、埼玉県加須市に残るカスリーン台風の自然災害伝承碑を手がかりに、地域の水害の歴史をどのように探究テーマへ広げていけるのかを考えてみます。
もとになっているのは、私が2020年に書いた下記論文です。
田澤実 2020「自然災害伝承碑と住民の防災意識:埼玉県加須市のカスリーン台風を事例にして」『生涯学習とキャリアデザイン』18,p67-88.
1.カスリーン台風とはどのような災害だったのか
1947年、昭和22年9月。
関東地方を中心に、戦後最大級の水害をもたらした台風がありました。
それが、カスリーン台風です。
台風の英名は「Kathleen」でした。当初はカザリン、キャサリン、カスリンなど、さまざまな呼び方がありましたが、1949年に「カスリーン」に統一されました。
この台風は、群馬・埼玉・栃木・茨城・千葉・東京の1都5県にわたる利根川流域に大きな被害をもたらしました。
死者は1,100人。
家屋浸水は303,160戸。
数字だけを見ても、その被害の大きさがわかります。
都県別に見ると、群馬県では死者が最も多く592人にのぼりました。東京都では床上浸水が72,945戸。埼玉県でも田畑の浸水が66,524ヘクタールに及び、床上浸水44,610戸、傷者1,394人という大きな被害が出ました。
埼玉県の利根川流域には、川が運んだ土砂によってつくられた平坦な土地が広がっています。
平らな土地は暮らしやすい一方で、ひとたび堤防が決壊すると、水が低い方へ低い方へと広がっていきます。
カスリーン台風の濁流も、まさにそのようにして、埼玉から東京へと流れ込んでいきました。
2.加須市では何が起きたのか
埼玉県北東部に位置する加須市は、利根川の中流域にあります。
現在の加須市には、旧北川辺町、旧大利根町、旧加須市などが含まれています。いずれも水害と深く関わってきた地域です。
かつてこの地域は、四方を堤防に囲まれ、「水ば」とも呼ばれるほど、水害と隣り合わせの場所でした。
カスリーン台風の際、現在の加須市内では、二つの大きな堤防決壊が起きました。
一つは、渡良瀬川の決壊です。
1947年9月16日午前0時15分、渡良瀬川の堤防が、三国橋の南側約300メートルの地点で決壊しました。濁流は一気に広がり、川辺村と利島村は孤島のような状態になりました。
川辺村では最高5.5メートル。
利島村の低地では6メートル40センチ。
それほどの高さまで水が達したと記録されています。
利島村の役場は2階まで水に浸かり、そこに避難して夜を明かした人びとが、小舟で救出されたと伝えられています。
もう一つは、利根川の決壊です。
同じ9月16日午前0時20分、東村の新川通付近で、利根川右岸の堤防が340メートルにわたって決壊しました。
その後、午前1時30分には、東村・原道村・元和村が水没しました。
この決壊には、背景がありました。
堤防の補強工事は進められていたものの、1941年12月に太平洋戦争が始まったことで、工事が中断されていたのです。
当時を知る地域住民は、戦争によって堤防の補修に手が回らず、自然災害への備えがおろそかになったことが、大惨事につながったと語っています。
自然災害は、単に自然の力だけで起きるわけではありません。
社会の状況、政治の判断、戦争、地域の備え。
そうしたものと重なりながら、被害の大きさが決まっていきます。
ここにも、探究の大切な視点があります。
3.自然災害伝承碑は何を伝えているのか
加須市内には、カスリーン台風の被害を伝える自然災害伝承碑が残されています。
自然災害伝承碑とは、過去の自然災害の発生日時、災害の種類、被害の範囲や規模などを伝える石碑やモニュメントのことです。
国土地理院は2019年に「自然災害伝承碑」という新しい地図記号を制定しました。そして、全国各地に残る自然災害伝承碑を地図上に登録・公開し始めました。
国土地理院のHPより自分の住んでいる地域の近くに、どのような自然災害伝承碑があるのかを確認できます。
これは、探究学習にとってとてもよい入口になります。なぜなら、石碑はただの「古いもの」ではないからです。
石碑には、紙の記録やウェブ上の情報とは違う特徴があります。それは、場所に結びついているということです。石碑は、火にも水にも比較的強く、大型で重量があります。建てられた場所から簡単には動かされません。
つまり、石碑が建っている場所そのものが、かつて災害が起きた場所と密接に関連していることがあるのです。
地図で位置を確認する。
現地に行ってみる。
周囲の地形を見る。
近くの川や堤防との関係を見る。
そこに書かれた碑文を読む。
そうすると、「ここまで水が来たのか」「この場所で堤防が切れたのか」という実感が生まれます。
数字や文章だけでは届きにくい災害の記憶が、場所を通して立ち上がってくるのです。
4.加須市に残るカスリーン台風の伝承碑
私が論文を書いた2020年8月時点で、加須市内には国土地理院に登録された自然災害伝承碑が12基ありました。
現在ではさらに増えていますが、今から振り返ってみても、加須市は自然災害伝承碑への登録をかなり早い段階から行っていました。
そのうち、カスリーン台風による被害を伝えるものが6基ありました。
大きく分けると、二つのエリアに分けられます。

一つは、利根川・渡良瀬川沿いのエリアです。旧北川辺町・旧大利根町にあたります。
ここには、堤防が決壊した地点の近くに建てられた伝承碑があります。
たとえば、旧北川辺町の「決潰口跡」です。
東武日光線の新古河駅から徒歩圏内、三国橋の近くにあります。1950年9月に建立されました。

この碑には、昭和10年、昭和16年にも大きな出水があったにもかかわらず、戦争のさなかに治水がおろそかにされた結果、川辺村と利島村が水底に沈んだことが刻まれています。
近くには説明板も設置されており、当時の状況を知る手がかりになります。
なお、旧大利根町にも「決潰口跡」があります。
新川通の利根川堤防沿いに建てられており、こちらも1950年9月に建立されました。碑には、昭和22年9月13日深夜に利根川が決壊し、その濁流が東京都を浸したことなどが記されています。

さらに、同じ旧大利根町には「利根川治水記念碑」もあります。
1989年9月に建立されたもので、カスリーン台風による大洪水の被害と、その後の治水事業の歩みが刻まれています。
なお、この近くには、1997年に建立された「カスリーン台風の碑」もあります。自然災害伝承碑としては登録されていませんが、当時の写真や被害状況の解説が記載されており、現地で災害の様子を知るうえで参考になります。

ただ、若干気になることもありました。それは地元の人がこの自然災害伝承碑のことをどう捉えているかです。
私は撮影するために栗橋駅からタクシーでこの場所まで向かいました。
しかし、このカスリーン台風の自然災害伝承碑のあるこの場所を何と言えば、タクシーの運転手さんに伝わるかが分かりませんでした。
とりあえずスマートフォンで地図を開き、「このあたりに行ってください」とお願いして何とか連れてってもらいました。
帰りもタクシーになるため、私は運転手さんに尋ねました。
「この場所はなんて言えば分かりますか?」と。
運転手さんは答えました。
「建設省の高台と言えば分かる」
ひょっとするとこの自然災害伝承碑をみるためにタクシーを利用している人は少ないのかもしれません。
また、自然災害伝承碑が「地図記号」としては存在していても、その地域の中でその自然災害伝承碑が認識されているかどうかは分からないということです。あくまで憶測ですが。
もう一つは、旧大桑村のエリアです。
旧大利根町の決壊口から押し寄せた濁流は、旧大桑村をほぼ全域にわたって浸しました。
その被害と復旧の記録が、3基の石碑に刻まれています。

南篠崎の神明社境内にある「昭和二十二年大洪水紀念碑」。
東岡集会所近くの「水害復旧記念碑」。
川口の神明神社境内にある「水害復旧竣功記念碑」。
これらはいずれも1950年前後に建立され、被害の実数とともに、村民が2〜3年かけて力を合わせて復旧に取り組んだことが記されています。
ここで重要なのは、石碑が災害の悲惨さだけを伝えているわけではないということです。
水が来た。
家や田畑が失われた。
人が亡くなった。
それだけでなく、その後に地域の人びとがどのように復旧していったのかも刻まれています。
災害の記憶は、被害の記憶であると同時に、復旧の記憶でもあるのです。
5.読みにくくなる碑文と、伝えることの難しさ
実際に現地を訪れてみると、もう一つ気づくことがあります。
碑文が読みにくくなっているのです。
特に石碑の裏面は風化が進んでおり、文字の判別が難しい箇所があります。
石碑は長く残るものです。
しかし、何もしなくても永遠に読み取れるわけではありません。
文字が薄くなる。
草木に隠れる。
周囲の人がその意味を知らなくなる。
説明板がなければ、通り過ぎるだけになってしまう。
そう考えると、自然災害伝承碑には、もう一つの探究テーマが見えてきます。
それは、「どうすれば地域の記憶を次の世代に伝えられるのか」という問いです。
碑文を現代語訳する。
説明板をつける。
地図やハザードマップと結びつける。
学校の授業で取り上げる。
地域の高齢者の語りと組み合わせる。
こうした工夫があってはじめて、石碑は「ただそこにあるもの」から、「地域の記憶を伝えるもの」へと変わっていきます。
なお、自然災害伝承碑への登録には「過去に発生した自然災害に関する発生年月日、災害の種類や範囲、被害の内容や規模、教訓が記載されたもの」という条件が必要になります。
この点について、国土地理院は以下のように述べています。
石碑等に具体的な自然災害の伝承要素の記載がない場合、又は洪水や津波の水位が刻まれているだけで文章の記載に乏しい場合でも、恒久的な設置を意図した説明板が付随しており、この説明板に該当する具体的な自然災害の伝承要素の記載があれば自然災害伝承碑と判定する場合があります。
・さらに、説明板がなくとも、市区町村史、Webサイト(当該市区町村のサイト、国・都道府県の公的サイト等)に必要な情報があれば自然災害伝承碑と判定する場合があります。
自然災害伝承碑が自然災害を伝承できるようにするために柔軟な対応を取っているように思います。
6.語りと石碑がつながるとき
石碑は場所を伝えます。
しかし、そこで何が起きたのかを、より生き生きと伝えるのは人の語りです。
加須市周辺では、水害の記憶を次の世代へつなぐための取り組みが続けられてきました。
たとえば、利根川上流河川事務所は、利根川の堤防が決壊した9月16日を「治水の日」と定め、1992年から毎年式典を開催しています。
式典では、旧大利根町の「決潰口跡」に遺族が献花をしています。
また、2016年には、旧大利根町の「決潰口跡」近隣にある弥兵衛地区と佐波地区の自主防災会が、それぞれ水害経験者を招いて体験談を聞く会を開催しました。
弥兵衛地区では9名、佐波地区では10名の経験者が、当時の様子を語りました。その内容は冊子にまとめられています。
私はこれらの体験談を分析しました。
すると、大きく二つの種類の語りが見えてきました。
一つは、「水が来る」「堤防が切れる」「利根川が切れた」といった、決壊情報を伝える言葉です。
もう一つは、「決壊口」「○○さんの裏の堤防が切れる」といった、決壊場所を特定する言葉です。
ここで興味深いのが、「決壊口」という言葉です。
水害を経験した人にとって、「決壊口」は具体的な場所として思い浮かびます。
しかし、水害を経験していない世代にとっては、「決壊口」と言われても、それがどこを指すのかすぐにはわかりません。
そこで重要になるのが、自然災害伝承碑です。
現地に「決潰口跡」という石碑が建っていることで、若い世代も「あの石碑のある場所で堤防が切れたのだ」と理解することができます。
つまり、自然災害伝承碑は、水害を経験した人の語りと、経験していない世代の理解をつなぐ橋渡しになっているのです。
石碑があることで、語りが場所と結びつく。
場所があることで、語りが次の世代に伝わりやすくなる。
ここに、自然災害伝承碑の大きな意味があります。
7.このテーマは、自由研究・探究学習にどう広げられるか
ここまで読んで、「自分の地域でも調べてみたい」と思った人もいるかもしれません。
自然災害伝承碑を手がかりにした探究は、いくつもの方向に広げることができます。
まずは、国土地理院の「地理院地図」を開いてみることから始められます。
検索欄に自分の住んでいる市町村名を入れてみる。
地図上に自然災害伝承碑のマークがあるか確認する。
どのような災害を伝えているのか読んでみる。
それだけでも、地域を見る目が少し変わるはずです。
もし現地に行けるのであれば、実際に訪れてみることも大切です。
石碑はどこに建っているのか。
近くに川や堤防はあるのか。
周囲の土地は低いのか、高いのか。
碑文は読める状態か。
説明板はあるのか。
近くに学校や住宅地はあるのか。
こうした観察から、問いが生まれます。
たとえば、次のような探究テーマが考えられます。
自分の住む地域の自然災害伝承碑を調べ、過去にどのような災害があったのかをまとめる。
伝承碑の碑文と現在のハザードマップを比較し、危険な場所が今も重なっているのかを検証する。
地域の高齢者に水害や災害の体験談を聞き、記録として残す。
碑文が読みにくくなっている伝承碑について、どのような保全や説明が必要かを考える。
学校の防災教育で、地域の伝承碑をどのように活用できるかを提案する。
このように、自然災害伝承碑は、歴史、防災、地理、地域学習、聞き取り調査、まちづくりなど、さまざまな探究につながっていきます。
ちなみに私は、今回の記事の元となる論文を書くために、これらの自然災害伝承碑から最も近い公共の図書館を利用し、そこで資料を収集しました。インターネットだけでなく、こういった図書館の知の蓄積を利用することも大事です。
8.石碑の前に立つことから、探究は始まる
水害の歴史を調べるというと、過去の出来事を学ぶことのように思えるかもしれません。
しかし、自然災害伝承碑の前に立つと、その印象は少し変わります。
ここで水が来た。
ここで堤防が切れた。
ここで人びとが逃げた。
ここで地域が復旧していった。
そう考えると、過去の災害は、遠い昔の出来事ではなくなります。
自分が立っている場所とつながった出来事になります。
探究学習で大切なのは、最初から立派なテーマを決めることだけではありません。
むしろ、身近な場所にある小さな違和感や疑問に気づくことです。
なぜこの石碑はここにあるのか。
誰が、何のために建てたのか。
何を伝えようとしているのか。
今の私たちは、それを受け取れているのか。
そうした問いから、探究は始まります。
地域の石碑は、静かに立っています。しかし、そこには、過去の災害を経験した人びとの記憶と、これからの地域を生きる人びとへのメッセージが刻まれています。
水害を「知る」だけでなく、地域の記憶をどう受け取り、どう次につないでいくのか。
自然災害伝承碑は、そのことを考えるための、とても身近で、そして深い探究の入口なのだと思います。
参考文献・資料
この記事は、私の書いた以下の論文をもとにまとめました。
田澤実 2020「自然災害伝承碑と住民の防災意識:埼玉県加須市のカスリーン台風を事例にして」『生涯学習とキャリアデザイン』18,p67-88.
また、国土地理院による自然災害伝承碑の情報は、以下から確認できます。
https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi.html
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ応援お願いします! 