「家庭」という言葉がトラウマになった人間の話

「地元に帰りたくない」「親に会いたくない」
そういう感覚を持っている人は、少なからずいると思う。

自分の場合、それは単なる気分ではなく、かなり構造的なものだと最近ははっきり認識している。

親に会うと「過去の自分」に引き戻される

今の自分は、年齢も重ね、環境も変わり、ある程度は自分の人生を自分でコントロールできている。

それでも親に会うと、一気に「当時の自分」に引き戻される。

対等な大人として扱われるのではなく、
過去の役割、過去の力関係、過去の空気の中に戻される。

これは単に居心地が悪いというレベルではなく、
自己認識そのものが揺らぐ感覚に近い。

「価値」を否定され続ける関係

親は露骨に否定してくるわけではない。
ただし、

  • 嫌味

  • からかい

  • ケチをつける

  • 触れてほしくない部分に踏み込む

といった形で、じわじわと価値を削ってくる。

さらに厄介なのは、
「心配している」「普通を望んでいる」という形を取ること。

つまりこれは事実の否定ではなく、
価値の否定である。

自分は自分の人生を肯定できている。
それでも親に会うと、その肯定感が削られる。

これは議論でどうこうなる問題ではなく、
空気そのものの問題だ。

親が子どもに甘えている構造

振り返ると、自分は親に甘えた記憶がほとんどない。
その代わり、親からは一貫して「甘えられてきた」。

  • 不安の受け皿にされる

  • 期待や失望を背負わされる

  • 感情の処理係にされる

本来は親が処理すべきものを、子ども側に流している構造だった。

つまり関係が逆転している。

親の方が「子ども」だった。

「してもらえなかったこと」の重さ

嫌なことをされた記憶もあるが、それ以上に大きいのは、

  • 話をちゃんと聞いてもらえない

  • 褒められない

  • 励まされない

  • 安心させてもらえない

  • 肯定されない

という空白だった。

世間的には常識的で、経済的にも問題はなかった。
だからこそ、「問題がない家庭」と扱われる。

しかし、情緒的な機能はほぼ存在していなかった。

「家庭」という言葉への嫌悪

一般的に「家庭」と言えば、

  • 安心できる場所

  • 休める場所

  • 味方がいる場所

といったポジティブな意味を持つ。

しかし自分にとっての家庭は、

  • 評価される場

  • 緊張を強いられる場

  • 感情を吸い取られる場

だった。

その結果、「家庭」という概念自体がトラウマになっている。

理屈では「自分で作る家庭は別物」と分かっている。
しかし感覚としては、「あの環境の再現」にしか思えない。

一度で十分だ、という感覚になるのは当然だと思う。


親への感情は「怒り」ではなく「空虚」

今となっては、親に対する怒りや憎しみはあまりない。

あるのは、
「なんて空虚な人達なのだろう」という感覚だけだ。

期待していたものが無かった。
ただそれだけの確認が終わった状態。

同じDNAを持っているのに、
なぜここまで感受性が違うのかという疑問もある。

ただ、それも答えが出る類の問いではない。

「親はいない」という感覚

物理的には両親とも存命だが、
感覚としてはもう「いない」。

情緒的な意味での親は、最初から存在しなかった。

だから将来的に亡くなったとしても、
一般的な意味での喪失感はないと思う。

むしろ「解放」に近い感覚になる可能性が高い。

家庭を作らないという選択

自分はおそらく独身のまま人生を終える。

これは諦めや敗北ではなく、
前提条件が欠けていることを踏まえた判断だ。

家庭というものをポジティブに捉えるための
「体験的インプット」が存在しない。

その状態で家庭を作るのは、
リスクが高すぎる。

結論

自分は家庭を理想化して拒否しているわけではない。

むしろ逆で、
家庭というものを現実的に理解した結果、
価値を見出せなかっただけだ。

これは歪みでも逃避でもなく、
経験に基づいた学習の結果である。

そして少なくとも、
あの環境に戻ることはもうない。

それだけで十分だと思っている。

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