観察者として、自然を征服しようと試みた人類の軌跡の愛おしさを記録していきたい。
私は、古びた博物館が好きだ。がらがらのロビーには大きなマンモスの骨格標本があって、静けさの中に古いエレベーターの鈍い音だけが響いている。館内には黄ばんだホルマリン漬けや大袈裟な装置がある。そんな空間がたまらなく好きなのだ。
人間は自然を理解し、管理しようと試みてきた。科学を発展させ、道具を生み出し、世の中の事象の全てを作った型に当てはめて分類しようとし、世界を制御できているのだと思い込んできた。しかし当たり前だが、実際には人間は自然を理解しきれていないし、制御することもできていない。これだから人間は傲慢で愚かな存在だと落胆する者もいるが、私は違う。人間は、いつか世界を理解しきることができるのだと信じて疑わなければ、前に進むことができなかったのだ。人間の抱いた、自然は解明できる、分類できる、制御できるという前提、それは自然を前にして、立ち止まらずに突っ込んでいった人間の姿だ。かつて人間は、自然を支配できた先にすばらしい未来が待っている、技術は善であり自然との調和は可能であると信じてやまなかった。私はその人間の傲慢さ、真っ直ぐなところ、すべてをひっくるめてこの上なく面白く愛おしい存在であると感じる。古びた博物館、つまり自然を管理、制御できると本気で信じられていた時代の博物館の大袈裟な展示からは、その人間の自然に対するぎらぎらとした態度を色濃く感じ取ることができる。博物館は自然を記録し説明する施設というよりも、人類の自然に対する態度そのものの軌跡の記録だ。そしてそんな人類の夢の軌跡であった博物館がいつしか古いものになっていくその虚しさ、儚さにまた愛着を覚える。人工的なものには温かみがないという意見は多いだろうが私はむしろ人工物からこそ人間が自然を制御しようとしてきた態度、つまり人間らしさ、人間の体温を感じることができると考えている。
現代の人間は、人間が自ら作り上げた世界に管理されている。かつての人間は、自然、宇宙、物質、エネルギーなど、自分たちより大きいものにギラギラと挑んでいく姿勢を強く持っていた。そしてそれらの管理、制御を試みる中で、全ての事象を最適化し、人間が作った型の中に無理やり当てはめようとする世界、文脈の世界を作り上げてしまった。この人間が作った文脈の檻に、人間は今自ら閉じ込められているのだ。世界を無理やり人間の理解の中で解釈しようとすると何が起きるのかというと、今度は人間の興味は作り上げた世界の内側に向くようになる。基準に従って、何が正しくて、何が正しくないのか、型にあっているのかどうかが過剰に気にされるようになる。sns上で他人からの反応を過剰に気にする人が異様に多いのはまさにこれを表している。行動の起点が、世界ではなく反応になってしまっているのだ。私は今一度、その自ら作り上げたつもりになっている世界に囚われている人間の視線を、世界のほうへ戻したいと思っている。理解できないものを前にして立ち止まらず、間違えるかもしれないと知りながら、それでも手を伸ばしていた人間の姿を、私は愛おしいと思う。
だから、私のかなえたい夢は、世界を管理することでも、正しく説明することでもない。人間が世界を理解できると信じていた時代の、あのぎらぎらした態度を、失敗も傲慢さも含めて、展示し続けることだ。役に立たなくなっても、それでもただそこに在り続けるさまを、私は観察者として、文章にして、物語にして、記録していきたい。いつしか、その記録もまた古びて、誰にも顧みられなくなるかもしれない。それでも私は、がらがらのロビーにマンモスの骨格が立っているような、そんな場所をつくり続けていきたい。
