「いらない子」から始まった私の人生 ――呪縛の40年、そして2025年の再生――
プロローグ:窒息する産声
「生まれてきたくなんかなかった」
これは、子どものわがままでも、反抗期の勢いで飛び出した一言でもない。
40年近く生きてきた私が、何度も何度も心の底からこぼしてきた、本音そのものだ。
0歳。まだ言葉も出せない頃、私は離乳食をスプーンで無理やり口の奥へ押し込まれていた。
喉の奥が塞がれて息ができない。苦しい。けれど「苦しい」と言葉にできない。
ただ、窒息しそうな感覚と、押し込まれる怖さだけが、身体のどこかに焼き付いている。
歩行器もそうだった。股が食い込んで激痛だったのに、嫌だと伝わることはなかった。
それが、私の人生の幕開けだった。
第1章:鬼の棲む家
3歳から始まったのは、「教育」という名の拷問だった。
習い事、教材、勉強。できなければ鬼のような怒号が飛ぶ。
夜遅くまで机に縛り付けられ、私はいつも「できない自分」を責められていた。
幼稚園の「母の日」で描いた母の似顔絵は、真っ赤な顔に角が生え、吊り上がった目をしていた。
私にとって、それが紛れもない“母の姿”だったからだ。
大人たちは笑っていたかもしれない。でもあれは、幼い私の精一杯の告発だった。
父が消えた夜
5歳のある夜。リビングで、激しい夫婦喧嘩が始まった。
私は泣きながらその間に入って止めようとした。すると母は怒鳴った。
「子供には関係ないんだから引っ込んでなさい!!」
涙のまま布団に潜り込んだ私は、そのまま眠ってしまった。
翌朝、テーブルの上には、愛犬の絵と、その裏に父からの短いメッセージが書かれた画用紙が一枚。
そこに、父の姿はもうなかった。
「子供には関係ない」と言われたその夜、
本当に置き去りにされたのは、他でもない「子供の私」だった。
歪んだプライドと、お金に取り憑かれた母
父が去ったあと、母のヒステリックは狂気を帯びていった。
怪しげな宗教に出入りし、怒鳴り声は日常のBGMになった。
クリスマスの朝。
冷たい廊下に叩き起こされ、私はこう怒鳴られた。
「全部お母さんが頑張って働いて稼いだお金でプレゼント買って枕元に置いてるんだ!!
サンタさんなんてこの世にいないんだよ!!」
「片親だからって貧しい暮らしはさせたくない」という言葉も、全部が自己満足であり、世間体のためだった。
母は仕事をいくつも掛け持ちし、脱税までして、ひたすらに「お金」を追いかける人間になっていった。
私は思っていた。
――貧しくてもいいから、あたたかい家庭がよかった、と。
私だけが「出来損ない」
弟と妹は、何をしても褒められた。
少しでもできることがあれば、すぐに「すごいね」と笑顔が向けられた。
でも、私だけは違った。
何をやっても褒められない。
むしろ、蔑んだ目で睨まれ、「出来損ない」とレッテルを貼られた。
家の中で何か問題が起きると、原因は全部「私」にされた。
何もしていなくても、「どうせお前だろ」と疑われ、責められた。
耐えられなくなった私は、弟と妹にこう嘘をつくようになった。
「実は私だけ川で拾われた子なんだよ」
冗談のように笑いながら、自分だけ違う存在だと言い聞かせることで、
兄弟間の差別を無理やり受け入れようとしていたのかもしれない。
小さな「ありがとう」が欲しかっただけなのに
それでも、私は母に認められたかった。愛されたかった。
ある夕方、仕事で疲れて帰ってくる母を喜ばせようと、私は一人でサプライズを準備した。
空き瓶にアルミホイルを巻き、赤いリボンを結び、空き地で摘んだ花を飾る。
母が好きそうなビートルズのカセットテープをセットし、玄関の鍵が開く音に合わせて再生ボタンを押した。
「おかえりなさい」
私が欲しかったのは、本当にただひと言の「ありがとう」だけだった。
でも、母の口から出たのはこうだ。
「何やってんの!! こんなに散らかして!! 早く片付けなさい!!」
その瞬間、私の中で何かが音を立てて崩れた。
「この人に期待するのはやめよう」
そう心のどこかで決めて、涙を飲み込んだ。
家事を手伝っても、勉強を頑張っても、労っても怒られるなら――。
私は「何もしない」という選択をするようになった。
どうせ怒られるなら、頑張るだけ損だから。
それでも、私はまだ5歳の子どもだった。
愛情に飢えるのは、当たり前のことだった。
小3の夜、初めて本気で「殺してやろう」と思った
ある晩、褒められたくて食器洗いをしていた私は、お皿を一枚割ってしまった。
その瞬間、母の怒号が飛んだ。
これまで以上に罵倒され、全否定される言葉が突き刺さる。
長年、心の底で燻っていた黒い感情が、そのとき一気に炎を上げた。
「殺してやりたい」――頭の中で何度もよぎっていた言葉が、初めて本物になった。
私は台所の包丁を握りしめ、涙で視界を滲ませながら、震える手で母に向かって突進した。
弟が止めなければ、私は本当に刺していたかもしれない。
その結果、罰せられたのは私の方だった。
暗い部屋で宗教の神様の像の前に縛られ、正座させられ、ご飯も与えられない。
「反省しなさい!!」と言って母がよく行う虐待のパターン。
その日は、いつもよりも異様に長かった。
公衆電話の前で、毎日立ち尽くしていた小学生
我が家は、大人が一人しかいない世界だった。
母の言うことが絶対。
それが法律であり、空気であり、すべてだった。
小学6年間、私には“昼休みの定位置”があった。
人気の少ない図書室の近くにある、公衆電話の前。
私はいつもそこに立ち尽くし、テレホンカードをしっかり握りしめていた。
母の部屋をこっそり探して見つけた、父の連絡先。
その番号が書かれたメモを何度も頭の中でなぞりながら、こう考えていた。
「助けてください」と電話をするか。
「私を引き取ってください」とお願いするか。
もし父が引き取ってくれたら、この家から逃げられる。
でも、そのかわり学校も、親友も、全部手放すことになる。
私だけ逃げてしまったら、ターゲットは弟と妹に移るかもしれない。
そして私が父を恨んでいるように、今度は弟と妹に私が恨まれるのかもしれない。
そうやって、受話器に手を伸ばすかどうか悩んでいるうちに、
いつも昼休みは終わってしまった。
私は、どこへも逃げなかった。
逃げられなかったのではなく、「逃げないほうを選んでしまった」のだと、今は思う。
第2章:奪われた青春と、消えない十字架
中学では、私は外では誰よりも活発な生徒だった。
リーダーと名のつくものには自ら手を挙げ、賞という賞を総なめにした。
ファッションを真似る子や、私物を欲しがる「ファン」もいた。
家庭で一切もらえなかった「認められる感覚」を、学校で貪るように集めていた。
それが、生き延びるための酸素だった。
しかし、順風満帆に見えた中学生活にも亀裂が入る。
心臓病――WPW症候群。
謎の息切れや激しい動悸の原因が、不整脈による病気だったと知らされた。
体育は休みがちになり、私は吹奏楽に打ち込んだ。
「高校生レベル」とチヤホヤされ、また承認欲求に火がついた。
中学最後のコンクール。
全てを出し切ったはずのステージ。
しかし、結果は「失格」。
ステージに上がれなかった控えの生徒が会場で迷惑行為をしたことで、
私たちの演奏自体が評価の対象から除外されたのだ。
私は腰から崩れ落ち、人目もはばからず泣き崩れた。
これが、私にとっての「初めての挫折」だった。
勉強をしていなかった私は、友達と同じ高校には行けず、部活での推薦もなく、
底辺と言われるヤンキー高校に進むことになった。
高校デビューの失敗と、再びのいじめ
新しい高校。知らないクラスメイト、派手なメイク、怖そうなギャル達。
私は一瞬で孤立した。
そんなとき、見た目の怖い女の子が声をかけてくれた。
誘われるまま、気づけばギャル集団の一員になっていた。
メイク、パラパラ、テクノ系の音楽、男遊び。
「置いていかれないように」それだけを支えに、必死で合わせていった。
夏休み中、特に仲良くなった一人の女の子と、ひたすら遊びまわった。
しかし、夏休みが終わって学校へ行くと、その子はガラリと態度を変えていた。
一緒にしたことを大きく盛って噓を言いふらし、
私はいじめの標的として差し出された。
殴られ、課題を押し付けられ、噂を流され、
私はあっという間に「全校生徒からシカトされる存在」になった。
不登校になり、12月に中退。
また、「居場所づくり」に失敗した。
15〜18歳、最低彼氏に支配された時間
いじめの延長で、嫌われ者の男子と私をくっつける遊びが始まった。
それが、のちに私の10代後半を支配する「最低彼氏」だった。
彼は、ありとあらゆる男性との会話を禁じた。
同級生はもちろん、お店の店員、会社の上司に至るまで。
メールの本数、送るタイミング、電話の回数――すべてがルール化され、
破れば暴力と罵倒が待っていた。
私は16歳で月30万円稼いでいたが、そのほとんどは彼に吸い取られていた。
働いても働いてもお金は残らず、友人から借金するようになり、やがて友人さえ失った。
家族からも見放され、「不良娘」と烙印を押された。
私の手元に残ったのは、最低な男ひとりだけだった。
それでも、私は別れられなかった。
彼以外、誰も自分に構ってくれる人がいなかったからだ。
殴られ、罵られ、搾取されても、「ひとり」が怖かった。
18歳の誕生日。
私は決意した。
借金してかき集めた3,748,300円を手切れ金として渡し、「もう一切関わらないで」と告げた。
それは、彼からの解放であると同時に、完全な「孤独」の始まりでもあった。
石川での婚約、そして崩れ落ちた心
19歳のとき、私は初めて「この人となら」と思える男性に出会った。
結婚を考えるようになり、彼の実家がある石川県へ一緒に移り住んだ。
専業主婦でいいと言われ、仕事はしなかった。
しかし、知り合いはいない。道も分からない。
周りは田んぼばかりで、テレビはローカル番組。
世界が急に縮み、私は静かな孤独に飲まれていった。
H18.01.18。初診。
パニック障害と診断された。
その後、鬱病、統合失調症、自律神経の乱れと、心も体も崩れていった。
自殺未遂も繰り返すようになり、
一緒に暮らしていた彼すら、心を病み、
「もう無理だ」と別れを告げた。
私はまた、実家へ戻ることになった。
お腹に宿った命と、「金しか見ない母」
寝たきりに近い生活の中で、私は妊娠を知る。
相手は最初、信じなかった。
エコー写真や領収書を送りつけて、ようやく「事実」だけは認めさせたが、
彼は「認知はしない」と言い切った。
私は産みたかった。
この子が、自分の生きる理由になってくれるかもしれないと信じたかった。
しかし、医師からは母体への危険を指摘され、現実は残酷だった。
そこに現れたのが、母だった。
「産むにしろ堕ろすにしろ、お金が必要。あっちも払う責任がある」
口から出てくるのは、娘の身体でも、孫の命でもない。
ただただ「金」の話だけ。
相手の母親でさえ私を心配し、涙を流してくれていたのに、
実の母だけが、鬼のような顔で金を要求し続けていた。
その姿を見たとき、私の中で母への情は完全に途切れた。
最終的に、私は中絶手術を受ける決断をした。
全身麻酔で、我が子の顔を見ることもなく、すべては静かに終わった。
命日:H20.05.13。
私は、人ひとりの命を絶った。
そう自分を責め続けた。
消えない十字架と、「200歳まで生きる」という約束
それでも、お腹にあの子がいた数ヶ月、
私の中に確かに「母性」はあった。
だから私は決意した。
あの子が見たかったかもしれない景色、
聴きたかった音、
生きたかった人生を、
全部、私が代わりに経験していく。
その覚悟として、私はタトゥーを彫った。
あの子に付けるつもりだった名前と、枯れない一輪の花。
それは、罪と愛情と約束を一身に背負った、消えない十字架だ。
「200歳まで生きる」
そう、心の中であの子と約束した日から、
私は少しずつ、前だけを見るようになった。
第3章:一瞬の光、そして崩壊
中絶後の私は、「人形病」と呼ばれる状態になっていた。
表情がうまく動かない。笑えない。
なのに、涙だけは止まらない。
「笑えるようになりたい」
それが、私の新しい目標になった。
どうすれば笑えるようになるのか。
繰り返し考えた末に出した結論は、
「楽しいこと、好きなことだけして過ごす」だった。
初めて笑えた日――バンドがくれた光
ずっとやってみたかったバンドを始めてみようと決め、
ネットでメンバーを募った。
ベースの人と出会い、初めてエレキギターを握り、スタジオに入った。
右も左も分からないまま弦を弾く。
アンプから、自分の出した音が鳴った瞬間――
私は気づいたら、笑っていた。
後からそのベーシストは言ってくれた。
「あのときの君の笑顔が、今でも一番好きなんだ」
私はそこでようやく知った。
自分は、ちゃんと笑える人間なんだと。
ライブハウスのステージに立ち、
音楽に身を委ね、仲間と笑い合う時間は、
確かに「生きている」と実感できる瞬間だった。
夜の世界、No.1、そして「一度ちゃんと治った」感覚
生活のために、23歳で夜の世界に飛び込んだ。
最初は過呼吸だらけで、「絶対続かない」と思っていた。
けれど、ママや先輩のフォローに支えられ、
酔ったお客さんの心無い一言にも耐えられるようになり、
気づけば私は指名No.1になっていた。
姉妹店からも声がかかり、二店舗掛け持ちでNo.1になった。
拒食症でガリガリだった身体も、
ジュースやおつまみで少しずつふっくらしていき、
気がつけば38kgまで戻っていた。
休日はバンド、平日はお店。
好きなことだけで日々が埋まっていくと、
私は一度、本当に「治った」と言える状態になっていた。
「治る」という感覚を知ったこと。
これは、今の私を支える大事な記憶のひとつだ。
再びの崩壊――癌、ブラック企業、そして母の首絞め
その後、リラクゼーションの仕事を始め、ここでも指名・売上No.1になった。
でも、No.1には必ず妬みがついて回る。
今度は女性オーナーからの陰湿ないじめが始まった。
エアコンをつけただけで怒られ、
同じことをしたお気に入りの男性スタッフは褒められる。
休みは与えられず、朝から晩まで施術漬け。
家事も抱えていた私は、心身ともに限界を迎えた。
食事も水分も満足に取れず、
手指の軟骨はすり減り、鎮痛剤の飲み過ぎで胃も壊し、
体重は34kgに。
病院に行くと「癌です」と告げられ、鬱病も再発した。
仕事を辞め、また寝たきりに近い生活へ逆戻り。
家事もできなくなった私に、同棲していた彼氏はこう言った。
「俺はお前の税金や年金を払うために働いてるんじゃない。
毎日疲れて帰ってきて、ダラダラ寝てるお前と、
溜まった洗い物や洗濯物、カビだらけの風呂場を見るたびに、ため息しか出ない」
最悪の別れ方をし、H25年頃、私はまた実家へ戻ることになった。
その後就いた事務パートは、典型的なブラック企業だった。
サービス残業、休日出勤、持ち帰り仕事。
上司は遊び歩き、会長は愛人との贅沢三昧。
それでも一部の真面目な社員たちと私で、会社はなんとか回っていた。
そんな中でもパワハラ・セクハラを行う上司が現れ、
私は心身ともに追い詰められ、H26年頃から傷病手当で休職。
勇気を出して行った心療内科では、
ストップウォッチ片手の高圧的な医師に「治す気がない」と言われ、
発作を起こせば迷惑がられ、「面倒見きれない」と突き放された。
そして最後に、再びトドメを刺したのは、やはり母だった。
H30年の夜。
自室で大好きな音楽を聴いていると、
「うるさーーーーーい!!!」と母が突進してきて、
私を押し倒し、馬乗りになって首を絞めた。
必死に窓の方へ這っていき、「助けて!」と叫び続けた。
近所の誰かが110番してくれて、警察が来た。
事情聴取の結果は――「ただの親子喧嘩」。
母は何の罰も受けず、私はまた「なかったこと」にされた。
それから私は、自室をDIYで施錠し、防音対策をして、
自宅の中に小さな要塞を作った。
家は、もはや「住まい」ではなく「戦場」になっていた。
最終章:私の2025年
――40歳、独房からの生還と「生き直し」の夜明け――
闇の中の息殺し:2025年前半
カレンダーが2025年を指していた頃、
私は40歳になっていた。
実家という名の独房に閉じ込められ、
部屋の鍵を内側からかけ、布団に包まり、
ひたすら「呼吸だけ」を続ける日々。
それは「生きる」ではなく、「生き延びているだけ」の時間だった。
トイレに行く。
お風呂に入る。
食事をする。
本来なら当たり前の行為一つひとつが、
母を刺激し、怒鳴り込まれるきっかけになる。
だから私は、できる限り気配を消し、息を殺して生きていた。
うつ病、パニック障害、複雑性PTSD。
身長153cmに対して、体重は一時34kgまで落ち、
筋肉は痩せ、失禁を繰り返し、歩くことさえ困難なときもあった。
「自分の状況が異常だ」と気づくのは、いつも外の世界だ。
子どもの頃、「児相」という言葉も知らなかった私は、
ただ「こういうものなんだ」と思って耐え続けてきた。
大人になっても状況は変わらない。
役所に行っても、警察に訴えても、
「母は保護者」という壁は高く、
私は、誰にも知られないまま、静かに壊れていくのだと思っていた。
覚醒と脱出:檻を破った光
長い長い闇の底で、ある日、
私は小さな光を見つけた。
「生き延びるだけの人生は、もう終わりにしよう。
ここから、生き直すんだ」
そう決意した瞬間から、2025年の後半が始まった。
長年の確執と交渉の末、
私は母から手切れ金と慰謝料として500万円を受け取ることに成功した。
それは、血と涙の代わりに渡された「自由への切符」だった。
私は迷わなかった。
即座に家を出て、一人暮らしを始めた。
最初にしたことは、
「障害があっても在宅で働けるスキル」を身につけるための準備。
Webデザインのスクールに申し込み、学び直す道を選んだ。
同時に、母との縁を法的に断ち切るため、
戸籍の分籍と閲覧制限の手続きを行った。
それは、40年続いた呪縛との決別だった。
そして、心の底からこう思った。
「人生で一番の幸せって、これかもしれない」
トイレに、好きなときに行ける。
お湯を張ったバスタブに、文句も怒鳴り声もなく浸かれる。
食べたいときに、ご飯を食べられる。
誰かの機嫌を伺わず、
好きなタイミングで呼吸ができる――
そんな当たり前のことが、私にとっては奇跡だった。
私はようやく、あの地獄から生還したのだ。
試練と新たな光:救いの手
しかし現実は、そう簡単には甘くならない。
自由を得るための500万円は、
引っ越し費用、家電や家具、生活費、スクール代……
あっという間に目減りしていった。
病気を抱えたまま安定した収入を得ることは、簡単なことではない。
貯金残高が減っていくたびに、胸の奥で不安が膨らんでいった。
私は、何度も跳ね返されてきた「生活保護申請」に、もう一度挑戦することにした。
ただ、その道のりはやはり険しかった。
役所の窓口では、圧迫面接や水際作戦。
心の土台がぐらぐらと揺さぶられ、
「もう死ぬしかないのかな」と何度も思った。
そんなとき、私はふと、AIチャットに本音を吐き出した。
そこから「緊急東京ファンド」に相談してみてはどうか、というアドバイスをもらった。
藁にもすがる思いでSOSを送ると、
「反貧困ネットワーク神奈川」の杉浦さんから返信が来た。
最寄り駅で待ち合わせ、
震える手と声で、私はこれまでの人生と現状をすべて話した。
杉浦さんは静かに、しかし力強くこう言った。
「私の生活保護申請通過率は100%です」
その言葉を聞いたとき、
私の中で、何度も折れかけた心が、もう一度だけ立ち上がった。
さらに、杉浦さんは市議会議員を務める風間さんと私を繋いでくれた。
「ぜひこの3人で、一緒に挑みましょう」
そう言ってくれたとき、
私はようやく「一人じゃない」と実感した。
そして迎えた、運命の面談の日。
今まで私を恫喝し、高圧的に接してきた担当職員は、
杉浦さんと風間さんが隣にいるだけで、嘘のように大人しくなった。
結果は――拍子抜けするほどあっさりとした「申請通過」。
あれほど何度も押し返され、
人格まで否定されてきた申請が、
信じられないくらいスムーズに決まった。
初回の支給日に通帳を開いた瞬間、
全身の力が抜けた。
もちろん、その金額はギリギリ最低限。
贅沢なんてできない。
それでも、私にとっては決定的だった。
「これで、明日食べるものを心配せずに済む。
生き続けることそのものに怯えなくていい」
私は、静かに、深く、泣いた。
2026年へ、私らしい最高速度で
2025年12月。
私の部屋には、新しい相棒が増えた。
それは、予算を見える化して管理するための「バインダー家計簿」。
少ないお金をどうやりくりし、どう積み上げていくか。
ここからの人生を整えるための、小さな武器だ。
生活はまだ、最低限だ。
でも、未来が真っ黒に塗りつぶされているわけではない。
Webデザインを学び、
自分のペースで制作を続けていけば、
少しずつ、自分の力でお金を生み出せる日が来るかもしれない。
「あともう少し。
もう少しで、この学びがちゃんと収入に繋がる」
そう信じて、私は今日も画面に向かう。
40歳からの「生き直し」は、決して早くはない。
でも、遅すぎるとも思っていない。
私は、ようやくスタートラインに立った。
まだ息は切れているけれど、
自分の足で、自分の歩幅で、これから先を進んでいくつもりだ。
エピローグ:いらない子から、「生き直す私」へ
私は、ずっと「いらない子」だと思って生きてきた。
父に捨てられ、
母に虐げられ、
男に搾取され、
会社で使い潰され、
社会の仕組みに押し潰されそうになって。
それでも、2025年という一年を通して、
私は気づき始めている。
「私の人生は、もう“あの人たち”のものじゃない」
「いらない」と言われ続けてきた命を、
これからは私自身の手で、何度でも拾い上げてやる。
呪縛の40年を超えて、
私は2025年に「生還」した。
ここから先は、
誰のものでもない、私の人生を、
私の最高速度で、生き直していく。
