【エッセイ】【文学】カフカに倣いて(九) 奇天烈な人ドストエフスキーとカフカ 「ミレナへの手紙」を読む
結局のところ、それが一番の関心事だったのかもしれない。フランツ・カフカ(1883~1924年)が日記や書簡の中で、フョードル・ドストエフスキー(1821~81年)について言及している箇所を調べていた。最もよく知られしばしば引用されるのは、当時の婚約者フェリーツェ・バウアーに宛てた1913年の手紙に中の次の一節であろう。ドストエフスキーに対し特別な親縁性を感じていたことがうかがえる。
自分の本来の血族と感じている四人の人間、グリルパルツァー、ドストエフスキー、クライスト、フローベール……
愛人であったミレナ・イェセンスカー(1896~1944年)への1920年の手紙の中にも長い言及がある。あらゆるドストエフスキー伝が必ず伝えている、処女作「貧しき人々」(1946年)で24歳の無名の文学青年が「新しいゴーゴリ」として華々しくペテルブルグ文壇に迎えられた“文学史的事件”に触れているのだ。「貧しき人々」を読んで深く感動した新進作家グリゴローヴィチと詩人ネクラーソフが夜中の三時、突然ドストエフスキーの部屋を訪ねる。泣き出さんばかりにドストエフスキーを抱きしめ、接吻するグリゴローヴィチとネクラーソフ。作品について熱く語り明かし、朝方になってようやく部屋を辞した。ドストエフスキーの生涯で最も幸福な夜。二人を見送り、涙に暮れる。何という素晴らしい人たちだ!それに比べてこの俺の何という卑俗さだ——この余りによく知られたエピソードをくどくど述べるカフカが、無意識的にせよ、ミレナに対して何を意図せんとしていたのか、今一つ分からず、ずっと考えていた。
ミレナ・イェセンスカーは当時ウィーン在住のチェコ人ジャーナリスト。スタンダール作品のヒロインにもたとえられた情熱の塊のような女性で、大変劇的な人生を送った。詳述するには稿を改めなくてはならないだろう。後年、ナチ占領下のプラハでレジスタンスに参加、ゲシュタポに捕らえられる。強制収容所で命を落とした。
早くにカフカを認め、ドイツ語からチェコ語に翻訳したことで知られる。カフカ作品の最初の翻訳ともいわれている。何よりもカフカの良き読者にしてその真価を深く理解していた。1924年、カフカの死に際してはそのわずか三日後、以下のような胸を打つ追悼文を新聞に寄せている。
かれの書く本はどれも残酷で、痛ましい感じをあたえた。かれは世界が、無防備な人間を抑圧し破滅させる目に見えぬデーモンに満ちているのを見たのだ(……)それらは、象徴によって語っているところでさえも自然主義的に見えるくらい、真実の裸形を有している。その乾いたイロニーと感覚的な透視性は、世界をあまりにも明敏な明るさのなかで見てしまったので、もはやそれに耐えることができず死ななければならなかった人間のものだ。
没後100年にわたって、ファンや研究者たちが喧々諤々の議論をすることになる、なぜカフカの小説の主人公たちは決まって破滅するのか、その文体的魅力は何かといった問題に、この時点で的確かつ簡潔に答えている。
交際当時、ミレナにはユダヤ人の銀行員の夫がおり、カフカにも婚約者があった。道ならぬ恋である。ミレナは夫と離婚する決心がつかず、二人は破局することになるが、膨大な手紙を読んでいると、その激しい言葉とは裏腹に、カフカの側にも本当にミレナと一緒になる気があったのか、疑問に思えてくる。
結論を先回りすると、「ミレナへの手紙」は「承認」を巡るドキュメントではないか。もちろん、大きくいえば、当時37歳の中年男カフカの、13歳年下の若き才媛ミレナへのエンスージアスティックなラブレターなのだが、あらゆる恋愛において小さくない部分を占める、あるいは深層においては本質といっていいかもしれない「承認」の問題が、グロテスクなまでに高精細にクローズアップされているように思われる。鳴かず飛ばずの作家にとって、良き読者、理解者は干天の慈雨という言葉では足りないくらいの存在である。孤独な作家は「救済者」とまで呼ぶミレナという一人の女性の熱烈な魂の中に、グリゴローヴィチ、ネクラーソフ、ベリンスキーを求めていた——。

と、ここまでぐたぐたと益なきことを書き連ねてきて、ふと奇妙な考えに取り憑かれる。「貧しき人々」と「ミレナへの手紙」って似てないか?正確にいえば、ドストエフスキーが創造した書簡体小説中の架空の人物、自意識過剰の主人公マカール・ジェーブシキンと、私信の中で赤裸々に自己をさらけ出し、自意識に溺れるかのような“生身の”カフカが似ていないかということである。その特異な自己卑下のスタイルも含めて。何より共通するその奇妙な読後感——。
「貧しき人々」はペテルブルグの暗い裏町を舞台とした、貧乏な下級官吏、四十半ば過ぎの中年男マカール・ジェーブシキンと、二十は歳の離れた薄幸の孤児ワルワーラとの愛の往復書簡。ワルワーラが同じく中年の下衆な金満地主との愛なき結婚を選び、ジェーブシキンのもとから去ることで幕を閉じる悲恋の物語である。
同じ公務員といっても、しがない木っ端役人ジェーブシキンと、法学博士にして職場で順調に出世を重ねた“デキる男”カフカとでは、その社会的境遇は大きく異なる。また誰もが感じ、傍から見れば喜劇的ですらある、中年男性の若くうるわしい女性への粘着的な執心という類似性も、わざわざ言挙げするにはいささか表層的であろう。それでも、私が思いついただけでも、以下のような共通点が指摘できるように思われる。「貧しき人々」は私にとって大切で特別な一冊であり、語り出したら止まらなくなりそうなので、出来るだけ簡潔に記したい。
①短期間での大量の書簡群
「貧しき人々」の物語上の時間は半年足らず。この間のジェーブシキン、ワルワーラ双方の手紙の数は計55通。1920~23年の間にカフカが送った「ミレナへの手紙」は数え方によって諸説あるようだが概ね130通、その大半は恋愛の最高揚期の三か月ばかりの間に集中している。ごく短い間に燃え上がり、燃え尽きた愛の記録である。手紙は今でいうメールやSNSで、電話も一般的でなかった時代、誰もがたくさん手紙を書いたという点は差し引かなくてはならないにしても、なぜかくも量が多いだけでなく、内容も高密度な書簡が、短期間にやり取りされたのか。
②過剰な承認欲求
「ミレナへの手紙」は「承認」を巡るドキュメントではないかという考えは先述したが、「貧しき人々」にも同じことがいえると思う。ジェーブシキンがワルワーラに対して繰り返し述べているのは、社会の底辺で虐げられ、孤立した自分が、いかに善良な魂の持ち主であるかを理解してほしいということだろう。手紙は情報の伝達という本来の役割を離れ、自己の価値証明のメディアとなる。恋愛そのものより、「相手の意識の中の自分」への執着が大きくなり、自意識の無限の合わせ鏡のように自己が増殖、かくて大量の手紙となる。似たような構造は現代におけるメールやSNSにもみられるだろう。ジェーブシキンとカフカの恋愛の破局は外在的事情によるというよりも、一人の人間に「承認」を賭けるという内在的要因そのものの不可能性からの必然だったように思えてくる。
③距離感のジレンマ
もっといえば、そもそも「書簡による恋愛」だったのではないか。ジェーブシキンもカフカも、「会いたい、会いたい」と繰り返しているわりには、なかなか会わない。このジレンマを強調するためだろうが、ジェーブシキンとワルワーラは同じ建物の中庭を挟んだ向かい側の部屋、目と鼻の先に住んでいる設定になっている。時に教会で顔を合わせたりはしているようだが、ジェーブシキンは周囲の目を異常なまでに気にして会いに行くことを避け、デートらしき描写は一回きりである。カフカとミレナの場合はプラハ—ウィーンという一応遠距離恋愛ながら、大きな障壁となる距離でもあるまい。恋愛期間中に二人が会ったのはたった二度。ウィーンでの四日間のランデブーがクライマックスだろうが、決してハッピーな交わりではなかったともいわれている。貧しく年老いた自分がワルワーラと一緒に暮らすことに踏み出すには、ジェーブシキンはあまりに臆病だった。同じ女性と二度婚約し、二度破棄したカフカが人妻ミレナと本気で結婚することを考えていたようには思えない。他者との現実的な関わりの回避が、手紙という媒体で想像的な関係を維持することと表裏なのだろう。実際、ワルワーラが地主に嫁ぐことになっても、ジェーブシキンはいかに文通を継続するかということばかりに気を揉んでいる。
④文学的人間
手紙という「書かれたもの」を通して、お互いがイマジナリーな文学的存在になっていくということ。現実の恋愛を生きるよりも、その経験を物語として意識し、言葉の中に生きてしまう精神構造。カフカが結婚生活や世俗的な幸福に背を向け、文学に一生を捧げたことはいうまでもないだろう。プーシキンの「ベールキン物語」に感動し、ゴーゴリの「外套」に憤慨する文学愛好家ジェーブシキンも作家の会合に頻繁に出入りし、むきになって否定すればするほど、内密で夢想的な文学的野心が見え隠れする。視点を少しずらすと、「貧しき人々」は極めて野心的なデビュー作だと思う。ベリンスキー以来、社会派のリアリズム小説とみなされ、後期の大作群との断絶が指摘されることもあるが、ジェーブシキンは後年発展し深刻さを増す「ドストエフスキー的人間」たち、自意識に取り憑かれた奇妙な人物群、近代文学の鬼子ともいえる文学的人間の先駆形ともいえよう。
人間というやつは、往々にして奇妙な存在になるんです。奇妙きてれつな存在になる。実際、まったくそうなんで!
若きドストエフスキーの文学的宣言のように思える。

実際、「貧しき人々」と「ミレナへの手紙」、二つの書簡を交互に読んでいて、一瞬どちらがどちらだが、わけが分からなくなるようなことがあった。ジェーブシキンは無一文となり、借金をしてまでも病弱なワルワーラを物心で支える。カフカは結婚生活の破綻から困窮し、病気になったミレナを常に気遣い、惜しみなく金銭を援助する。どちらも同じところでぐるぐる回り、同じようなことで悩み続ける。
どうも私たちは絶えず同じことばかり書いているようです。あなたは病気かと私がたずね、するとあなたがそれと同じことを書き、私が死にたいと言えば、あなたがまた死にたいと言い、あなたの前で小僧のように泣きたいと書けば、私の前で小娘のように泣きたいと書いてこられる。そして、私が一度も十度も千度も絶えずあなたのそばにいたがれば、あなたも同じことを言う。
こういう箇所を読んでいると、ああ、いい恋文だなと心から思う。カフカとしては決して公にされたくはなかっただろうが。奇妙なるがゆえの孤立感、常に淘汰される側としての不適応者の悲哀、弱き心の震えるような繊細さ、苦悩するヒューマニティ、底光りするノーブルな魂……ああ、やっぱり語り足りないうえ、話もさっぱりまとまりそうにない。「貧しき人々」についてはいつか改めて書いてみたいと思う。
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