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【エッセイ】【映画】船で山を越える ヘルツォーク「フィツカラルド」を観る

 定期的にフィルムの質感への飢餓感が嵩じてくる。宿痾であろう。早稲田松竹でヴェルナー・ヘルツォーク監督の大作「フィツカラルド」(1982年)がフィルム上映されるという。駆けつけるしかあるまい。
 「フィツカラルド」は久しぶりのように思い、調べてみたら、最後に観たのは伝説の配給会社「ケイブルホーグ」の特集上映会、18年も前のことだった!「暗黒街の弾痕」、「狩人の夜」、「ワイルドバンチ」、「ストレート・トゥ・ヘル」……。人生で大切なことの少なくない部分を、「ケイブルホーグ」が届けてくれた“狂おしい”作品群の“魔に憑かれた”登場人物たちに教えられた、そんなような気がした。「フィツカラルド」もそうした一本だ。

主人公フィツカラルドを演じるクラウス・キンスキー

 映画はクラウス・キンスキー演じる主人公フィツカラルドとクラウディア・カルディナーレ演じる愛人で娼館の女将モリーが夜の闇の中、アマゾン川をボートで急ぐシーンから始まる。ヨーロッパからブラジルの港湾都市マナウスに来ていた稀代のテナー、エンリコ・カルーソーのオペラ公演を聴くため、ペルーのアマゾン奥地の町イキトスから二日二晩かけて遥々やって来た。途中でエンジンが故障し手で漕いだため、手の皮はすりむけ血で真っ赤。ひどい身なりのフィツカラルドは入場を断られるが、ひるむことなくオペラへの愛を語る。「いつかジャングルにオペラハウスを建設する」——フィツカラルドの強烈なキャラクターを端的に示し、作品のテーマ、物語の展開を予示する。映画にせよ小説にせよ、こういう掴みの早い語り、大好きである。
 天を衝くほど意気盛んながら、フィツカラルドには資金がなかった。鉄道事業に失敗し、破産も経験していた。「金で何でも買える」という考えを軽蔑し、音楽とオペラの崇高性を信じている。金儲けはうまそうではない。途轍もない夢を叶えるための途方もない大金をどうするか。その頃、アマゾンはゴムブームに沸き、ゴム長者も続々誕生していたが、栽培に条件のいい土地は既に開発されている。残されていた一画があった。急流のため船で遡ることができない人跡未踏の奥地である。フィツカラルドは諦めない。なんと、側を流れる別の川から遡り、両河川が数百メートルにまで最接近している地点から、船ごと山を越えようと思いつく——物語が進んでからだが、ともにアマゾン川の支流で、蛇行するパチテア川とウカヤリ川が、すぐ近くまで迫っていることを、空撮による鮮烈なワンショットでとらえている。台詞による説明だけでは済ませない。ヘルツォークは骨惜しみしない。
 フィツカラルドの冒険が始まる。ゴム成金から蒸気船を買い入れると、唯一支えてくれたモリーを船名とし、乗組員を集める。歴戦の頼もしい船長、敵か味方か謎めいた機関士、飲んだくれのコック。一癖も二癖もある連中を乗せ、船は出航する。川岸にはまつろわぬ民、インディオが住んでおり、宣教師の一行が犠牲になっていた。フィツカラルドの無謀すぎる計画に恐れをなし、乗務員の大半が下船する。残された一行の耳には不気味な太鼓の音が聞こえてくる。姿は見えない。徐々に高まる恐怖。打ち払うかのようにフィツカラルドは蓄音機でカルーソーのアリアを大きく響かせながら船を進めるが、ふと振り返ると、川幅いっぱいインディオのカヌーで埋まっているではないか。退路を断たれた!——このあたり、西部劇の手法を借りたヘルツォークの演出が冴える。
 フィツカラルドと族長の緊張の対面。意外なことに、彼らはフィツカラルドに協力することにあっさり同意する。傾斜42度の急斜面、熱帯林を伐採し、山を崩す。船の錨の巻き上げ機の動力と滑車を組み合わせ、大量の人力を動員し、320トンもの大船を少しずつ引き上げる。狂気に駆られたように難事業の陣頭指揮をとるフィツカラルド——圧巻の一大スペクタクルである。映画史上、最も困難な撮影の一つとされている。それはそうだろう。特撮なしである。
 危険極まる作業にインディオたちは身を粉にして黙々と従う。「なぜだ?」。船はとうとう山を越え、反対側の川岸にたどり着いた。祝杯を上げるフィツカラルドと乗組員、インディオたち。乱痴気騒ぎである。妖しく輝く満月のショットが繰り返される。凶事を暗示するかのように。乗組員たちは泥酔し、船で眠り込んでいたが、族長が船を固定していたロープを切断してしまう。目を覚ました時には、船は急流に突入しており、フィツカラルドは船を止めることができない。船は下流へと漂着する。計画は断念せざるを得ない——船を急流へ送ることで、そこに棲む悪霊を鎮める、それがインディオたちがフィツカラルドに協力した理由だったことを知る。このあたり、シナリオに破綻はない。
 壮大な骨折りが水泡に帰し、意気消沈のフィツカラルドは蒸気船をゴム成金に売り戻す。手元に金はあり、所有権の移転までは間がある。フィツカラルドはいいことを思いつく。マナウスに興行に来ていたヨーロッパのオペラ一座を呼び寄せ、船の甲板に舞台装置を組んだ。川を航行する蒸気船、一座が歌い、演奏し、イキトスの街中の人々がその様子を見物する。船首には誇り高き敗者、フィツカラルドの雄姿。晴れ晴れとしたフィツカラルドのアップで映画は幕を閉じる。映画史上特筆に値する美しいラストシーンだと思う。
 フィルムで「フィツカラルド」を観た率直な感想は、もうこういう映画が撮られることはないだろうなということである。世界そのものが確たる手応えを失い、映画を含めたあらゆる表現のちゃち化、幼稚化がとまることはないだろう。

 私にとってヘルツォークは「過剰な人」である。あるいはヘルツォークが「フィツカラルド」について述べたという「Conquistador of the Useless(無駄骨の征服者)」という言葉は、そのまま自己言及でもあろう。さらにいえば、文学の方面でよく使う「ファウスト的人間」という言葉が思い浮かぶ。それは必ずしも徳の高い理想的人間を指しているわけではなく、むしろあらゆる人間的欠陥にもかかわらず、自己の力量以上の仕事にがむしゃらに挑みかかり、自己の情熱にすべてを打ち込んでしばしば悲劇的没落をとげる不幸な人間、いわゆるデモーニッシュな人間を指して、賛美するよりは、却って警告し警戒する意味で使われる言葉のようだ。

ヴェルナー・ヘルツォーク(1942年~)

 そんなヘルツォークの本領をうかがうことができる本がある。ミュンヘンからパリへの真冬の徒歩旅行の記録「氷上旅日記」である。時にヘルツォーク32歳、なぜそんな無茶なことをしたのか。重篤の映画研究者の友人を見舞うためだという。

1974年の11月下旬に、友人がパリから電話をかけてきて、ロッテ・アイスナーが重病だ、おそらく助からないだろう、といった。ぼくはいってやった、そんなことがあってたまるか、こんな時に、ドイツの映画界にとって、それも今の今こそ、かけがえのないひとじゃないか、あのひとを死なせるわけにはいかない。ぼくはヤッケとコンパス、それに最低限必要なものをつめこんだリュックサックを用意した(……)そしてまっすぐパリに向かった。ぼくが自分の足で歩いていけば、あのひとは助かるんだ、と固く信じて。

『氷上旅日記』

 狂おしい。一言でいえば奇妙な書、私好みである。「願掛け」という言葉よりももっと激しい何か。 “デーモンに憑かれた”ヘルツォークは歩く、歩く、ひたすら歩く。季節は11月末から12月にかけて、凍てつく空気、荒天また荒天。夜は空き家や農家の納屋に泊まる。単なる過酷な旅の記録にとどまらず、哲学的内省や映画のアイディアとおぼしき断片などもはさまれる雑多な内容。そういうところも私好みだ。
 私の粗雑な分類では、映画作家としてのヘルツォークは、微妙なところではあるが、散文作家ということになる。それも雄渾な。黒澤明もエリッヒ・フォン・シュトロハイムを引き合いに出して、ヘルツォークと「フィツカラルド」を称賛していたと記憶している。対してこの「氷上旅日記」の叙述はとてもポエティックに思える。ヘルツォークの映画文法と共通するところといえば、エンプティショットの有効な使い方といえようか。

窓から外を見ると、むかい側の屋根の上に、カラスがとまっていた。雨のなか、首をちぢめ、身動きもしないで。しばらくたってからも、あいかわらずじっとしたまま動かず、寒さで凍えながら、静かにカラス的思索にふけっていた。眺めているうちに、不意に兄弟のような感情が湧いてきて、一種の孤独感で胸がいっぱいになった。

『氷上旅日記』

 友人の見舞いという目的は浄化されてしまい、もはや歩くために歩くという感じである。あらゆる真正の巡礼がそうであるように。ヘルツォーク自身の言葉をもじれば、「Pilgrim of the Useless(無駄骨の巡礼者)」ということになろうか。ミュンヘン─パリ間は空路ならわずか1時間半、鉄道で最速約6時間、車でも8~10時間程度らしいが、ヘルツォークは約20日かけて走破し、とうとう友の病床にたどり着く。1974年12月14日、日記の最後の記述を引用する。

ぼくはアイスナーのところに行ったが、彼女はまだ弱々しく、やつれていた。ぼくが歩いてやってくることを、誰かが電話で彼女に教えたに違いない。自分ではしゃべるつもりはなかった。どぎまぎしたぼくは、彼女がぼくの方に押してくれた二つめの椅子に、痛む足をどっかりのせた(……)彼女はぼくを見つめて、とてもかすかに微笑んだ。ぼくが歩いて旅をする人間であり、それゆえ無防備だということを、彼女は知っていたので、ぼくの気持ちをわかってくれたのだ。ほんの一瞬のあいだ、死ぬほど疲れきったぼくのからだのなかを、あるやさしいものが、通り過ぎていった。ぼくはいった、窓を開けてください、何日か前から飛べるんです。

『氷上旅日記』

 ファウストの末裔による、とびっきり美しい文章だと思う。

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橋本 健史 公開中の「林檎の味」を含む「カオルとカオリ」という連作小説をセルフ出版(ペーパーバック、電子書籍)しました。心に適うようでしたら、購入をご検討いただけますと幸いです。

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