見出し画像

無限の木


無限の木とは何か


何かがまだ語られぬまま存在していることを示すために生まれた言葉。または、見えないものに触れるとき、私たちの中で立ち上がる構造、それはただ、形になる「順番」が来なかったものたちが自らの重みでゆっくりと立ち上がってくるときに見えてくる、あるいは見えそうになる可能性。

何かを感じても、それが何なのか、すぐには言葉にならないことがあります。

「悲しい」でも「嬉しい」でもない。
「痛い」でも「安心」でもない。
けれど、たしかに胸の奥が動いた。

そういう感覚に出会ったことが、誰にでも一度はあるのではないでしょうか。

私たちの中には、
名前を持たないまま沈んでいった感情や、
伝える前に飲み込んだ言葉、
どうしても言葉にならなかったまま、
記憶の底に沈んでいった何かがたくさんあります。

それは無視されたわけでも、忘れたわけでもなく、
ただ、かたちになる機会がなかっただけです。
「無限の木」とは、そうした“かたちになれなかったもの”たちが、自らの重みでゆっくりと立ち上がってきたときに見えてくる構造を表したアート作品です。

それは、木のように見えるかもしれません。
けれど、実際に「見える」ことはほとんどありません。
気配のように。記憶のように。
あるいは、眠りかけたときにふと感じる「何か」のように。

けれど多くの場合、それが何なのか私たちは気づきません。なぜなら、その実りは、気づかれないまま落ちてしまっていることがほとんどだからです。

それでもなお、確かにそこには何かが実っていた。
その感覚だけが、うすく、にじむように残っている。

でも、それは音を立てずにこぼれ落ち、記憶に残らず、意味にならず、定義されないまま沈殿していく。もちろん誰にも拾われない。それは、思い出せないのに、確かにそこにあるという可能性。それが、「無限の木」の原点なのかもしれません

この木には、ふたつの無限が流れています。
ひとつは、縦に伸びる無限──Gene Eight(ジーン・エイト)

もうひとつは、横に広がる無限──MUGEN BLUE(ムゲンブルー)
そして、このふたつの無限が交差する地点に、
無限の木は芽吹きはじめるのです。

縦の無限:Gene Eight(ジーン・エイト)


数字の「8」を縦にしたとき、そこに現れるのは、生命をつなぐ「遺伝子」のかたち。

規則性と不完全さ、対称性と揺らぎ。
過去から未来へ受け継がれる命は、いつもわずかにズレながら、新しい個性を生み出し続けます。

Gene Eightは、「秩序の中にある変化」「生命が持つ進化の可能性」を象徴しています。

この縦のラインは、「無限の木」の根と幹を形づくり、時間・記憶・命の情報が幾重にも重なりながら支えている軸となります。

詳しい詳細は、以下のリンクをご覧ください

詳細

横の無限:MUGEN BLUE(ムゲンブルー)


∞(無限大記号)は、左右にひらかれた無限。
でも、MUGEN BLUEはそれをただの自由や理想の象徴として描いていません。

この無限記号は、私たちが未来に向かうとき、必ず立ち上がってくる「不安」と関係しています。
「できるかどうかわからない」「失敗するかもしれない」
そんなふうに、私たちは未来の可能性を思い浮かべた瞬間、不安の方を先に想像してしまいやすいです。

そのときに生まれるのが、「ネガティブな可能性」です。
けれど、不安もまた“無限”であるなら、それを乗り越えるための視点や選択肢もまた“無限”にあるはず
MUGEN BLUEは、そんなふうに未来を丁寧に見つめ直す時間をつくり、不安に光をあてて、可能性へ変換するアートです。
この横のラインは、「無限の木」の枝と空間にあたり、関係性や対話、創造力といった“広がっていくもの”の象徴です。

詳しい詳細は、以下のリンクをご覧ください

詳細


無限の木が生まれるということ


この縦と横の無限が交差するとき、そこから無限の木が生まれる。この木は、私たち一人ひとりの中に存在している“生きるための構造”の中にある、こぼれ落ちている“実り”です。

右と左、上と下、外と内、生と死。
それらは、私たちが世界を理解しようとするとき、最も根源的な“分け方”として立ち上がる対の概念です。まるで世界には最初から、それぞれを分ける線が引かれていたかのように、私たちは自然とそれらを区別し、意味を与えてきました。

けれど、本当にそうでしょうか?

それらは「対義」ではなく、むしろ「共存する状態」なのではないか。もしかしたら私たちは、何かを理解したいと思ったときに、まず“分ける”という行為に頼りすぎているのかもしれません。たとえば、右があるのは左があるからであり、上があるのは下があるから。外があるのは内があるからであり、そして、生があるのは死があるから。けれど、それは本当に“二つに分かれている”のでしょうか?

私たちが日々感じている多くのものは、決してどちらか一方だけに属しているわけではありません。右に手を伸ばすとき、左の重みを無意識に感じている。上を見上げるとき、足元の感触が自分を支えてくれている。外の世界に心を向けるとき、内側で何かが震えている。そして誰かの“生”に立ち会うとき、私たちはいつも“死”というものをどこかで想っている。

つまり、これらの「対」は、切り離された概念ではなく、「あいだ」で関係しあい、循環しながら私たちの経験を支えているのです。





いいなと思ったら応援しよう!