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オーロラに導かれし者 ホズミ 9

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第9章:星降る境界、揺らぐ時

 時を裂くもの、そして声を断つもの


 風の塔を越えた先、星図の石が示す道は、古の物語で語られる「空の裂け目」と呼ばれる禁域へと続いていた。

それは、かつてニヴァルの巫女たちですら立ち入ることを許されなかった、時空そのものが乱れるとされる地――《ロヴェリアの谷》
その名を聞くだけで、古の記憶がざわめくような、畏敬と恐怖の入り混じった感情が呼び起こされる場所だった。


 谷の底は、重力の常識さえ失われたかのように、空気が沈み込むように静まり返っていた。
この世のあらゆる営みから切り離されたような、奇妙な静寂。
雪も風も、そして生命のささやきさえも、谷に近づくと一瞬だけ“止まる”のだ。
それは、まるでこの地だけが「時間」という絶対的な流れから見放され、置き去りにされているかのようだった。

ホズミの胸に、底知れぬ不安が忍び寄る。

ホズミは、その異様な気配に全身の感覚を研ぎ澄ませながら、一歩、足を踏み入れた。
彼の魂の道標である星図の石は、その内部から放つ光をわずかに強め、まるでこの地の神秘に呼応するかのように、谷の中央にそびえ立つ古代の石碑を指し示していた。
石碑には、もはや誰も読むことのできない、失われたニヴァル文字が深く、そして無数に刻まれている。しかし、ホズミにはその意味が、まるで自身の記憶の断片であるかのように、「感じ取れた」
文字の羅列が、直接彼の意識に語りかけてくる。

――“ここより先、時間は流れず、声は届かぬ”――


その意味を理解した瞬間、彼のカーボーイハットのツバを抜ける風が、ぱたりと止まった。
そして、これまで常に彼の耳元で囁き続けていた、無数の“声”たちが、まるで意思を持ったかのように、突然、音もなく…消えた。

「……なぜ、声が……」


 焦燥が、乾いた喉を締め上げる。
これまで彼の旅を導き、支え続けてきた、あらゆる生命のささやき、風の導き、そして遠い記憶の残響。
それら全てが、一瞬にして彼の世界から失われたのだ。
星図の石さえ、今では微かな、頼りない光しか放っていない。
慣れ親しんだ焚き火の気配も、彼を包み込むはずの風の導きも、どこにも感じられない。
ただ、全身を覆い尽くすかのような、深い沈黙だけがあった。
それは、彼がこれまで経験してきたどんな孤独よりも、絶望的に重い沈黙だった。
と、その時だった――

   空が、裂けた…


 まるで夜空そのものが巨大な手によって引き裂かれるような、耳を劈く音が谷中に響き渡る。
その音は、空間そのものが悲鳴を上げているかのようだった。
ホズミの眼前で、漆黒の空に深淵の亀裂が走り、その中心から、ひとすじの、眩い白光が天地を貫いた。
光は周囲の空気を震わせ、時間そのものが共鳴し、変質していくような感覚に襲われる。

それは、ただの光ではなかった。
世界そのものが、その瞬間に生まれ変わろうとしているかのような、原始的な力に満ちていた。

 ホズミは本能的にその場を飛び退いた。
彼の直感が、この現象がただ事ではないと告げていたからだ。
しかし、光の中心から、何かが――いや、“誰か”が現れようとしていた。

      白く輝く人影。

その輪郭は曖昧で、掴みどころがない。
しかし、確かに“形”を持ち始めていた。

それは、かつて彼の夢の中で、星の海の中心に静かに立っていた“白いフードの存在”と、寸分違わぬ姿だった。

 ホズミの魂が、その存在に深く惹きつけられ、同時に恐怖を感じる。
その存在が、音もなく口を開いた。その唇は動いていないのに、その言葉は確かに彼の意識に響いた。

「ホズミ……時は…割れた……選べ……」


それは、耳で聴く声ではなかった。
頭の奥に、直接、鮮烈に響いた。
言葉というよりは、時空を越えて届いた、純粋な「意志」そのものだった。
その意志は、彼の魂の奥底に語りかける。

「過去に囚われ、今を閉じるか――
未来を信じて、時を越えるか――」


 ホズミは、その言葉の真意を悟る。
この存在こそが、“時の裂け目”そのもの。
声を聴く者としての試練の最終段階にして、彼の未来を切り開くための、最後の扉の鍵だったのだと。
彼の胸に、深い覚悟が芽生える。
それは恐怖を超越した、運命を受け入れる覚悟だった。
そして、その白いフードの存在の奥に、ちらりと別の影が見えた。

 それは…祖母の優しい笑顔、アマヤの力強い視線、そしてこれまで彼が出会ったニヴァルの人々――いや、それら全ての「記憶」が、一つに集まってできた、まるで悲痛な“声なき叫び”のように見えた。
それは彼自身の過去であり、未来であり、そして彼が守るべきものたちの総体だった。
ホズミの胸の星図の石が、その記憶の叫びに呼応するかのように、再び強く光を放った。
その光は、彼自身の魂の輝きでもあった。

が――その光は突然、闇に飲まれる。


 谷を覆っていた奇妙な静寂が、突如として激しい嵐へと変貌した。
風が逆巻き、星々が瞬きを止め、まるで世界がその存在を否定するかのように、彼の魂に刻まれた火の記憶までもが、無理矢理に引き剥がされていく。
それは、彼がこれまで培ってきた全てを、根本から揺るがすような、圧倒的な力だった。

「これは、声を持つ者を封じるための、試練ではない」


再び、頭の奥に直接響く声。
しかし、それは先ほどの白いフードの存在の声とは異なっていた…

より冷たく、より無慈悲な、否定の響きを伴っていた。

「――選ばれし者を断ち切る、“侵食”だ」


 ホズミは、その言葉の意味を理解した。
これは、彼に選択を迫る試練などではなかった。何者かの邪悪な意思が、「この世界そのもの」に作用し始めていることを悟る。
それは星の意志とは異なる、世界そのものの存在を否定する、“否定の存在”だった。かつて声を聴く者たちを葬っていった“闇”――彼がこれまで感じてきた、漠然とした悪意の正体が、今、目の前に現れたのだ。

そして、ホズミは飲まれた。

暴れ狂う闇の渦が、彼の全身を包み込んだ。
風も火も星も感じられない、絶対的な無音の世界。
そこには、色も、温度も、そしてあらゆる感覚さえも削がれた、真の無があった。
彼の存在が、その闇の深淵へと引きずり込まれていく。
抵抗する術もなく、彼はただひとり、その場所に「囚われた」。


けれど、その直前――

ホズミのカーボーイハットのツバが、かすかに震えた。
その震えと共に、遠く、微かな声が、彼の耳元で鳴ったような気がした。

「……また……会おう、ホズミ」

それは、かつて彼の旅路に光を与えてくれた、アマヤの声だった。
その声は、闇に飲まれる彼にとって、唯一の光であり、希望の兆しだった。

そしてホズミは、深淵の沈黙の中へと――落ちていった。

   “時の裂け目”


 そこは、誰も抜け出したことのない、記憶と時間の牢獄。

彼の意識は、無限の闇の中を漂う。


しかし、その闇の奥で、小さな火が、まだ揺らめいていた。
それは、闇に飲み込まれながらも、決して消えることのない、彼の魂の輝きだった。

声を断たれた世界においても、彼の内なる焚き火のように燃え続ける、ホズミという存在が

  ――消えることはなかった。


物語は、静かに次の章へと進もうとしていた。


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