「手帳の級数」で苦しさを比べがちな私たちが、「障害支援区分」ではマウントを取らない理由
「手帳何級ですか?」
精神障害同士の会話で、驚くほどよく手帳の「級数」を話題にする。「1級だから本当に何もできない」「2級だけど毎日生き地獄」「3級だから支援が薄くてしんどい。
手帳の数字は、まるで私たちの「生きづらさの証明書」であり、時に当事者アイデンティティや、苦しみの重さを測る「ものさし」として機能している。
しかし、グループホームに入居するときや障害福祉サービスを使うときに判定される「障害支援区分(区分1〜6)」でマウントを取ったり、しんどさを競い合ったりする当事者を、私は見たことがない。
なぜ私たちは、手帳の数字には固執するのに、区分の数字には関心すら示さないのか?
1. 手帳は「苦しみのアイデンティティ」、区分は「介護の手間」
手帳の等級(1〜3級)は、「精神疾患によってどれだけ生活や社会参加に制限があるか」を評価するものだ。だからこそ当事者にとって手帳は、「自分が甘えているわけではない」「これだけ心が引き裂かれそうなほど苦しいんだ」という、苦しみの免罪符として抱え込みやすい。
一方で、障害支援区分(区分1〜6)が測っているのは「精神の辛さ」ではない。 判定されるのは、「1日に何分、他人の手(介護・支援)を借りないと生きていけないか」という物理的な手間の量だ。
精神障害のリアルとして、どれだけ強い不安やトラウマ、解離、自殺念慮、摂食障害の苦しみを抱えていて、毎日死ぬ気でも、自分の足で歩き、自分で服を着替え、トイレに行けさえすれば、区分は「区分2」や「区分3」となる
当事者からすれば、「こんなに死にそうなのに、区分2なの?」となる
2. 区分は「事務手続きのチケット」に過ぎない
手帳は「持ち歩くもの」であり、更新のたびに自分の状態に向き合わされる存在だ。
しかし区分は、市役所から送られてくる1枚の決定通知書にすぎない。グループホームに入居するための「条件(パスポート)」として使ったら、引き出しの奥にしまい込まれる。
当事者にとって区分は、自分の精神的なアイデンティティとは1ミリも結びつかない「ただの行政ルール」なのだから、誰かと比べる対象にさえならないのは当然と言える。
3. 「他者からの見え方」と「内面の地獄」が乖離する精神障害
身体障害や重度心身障害の場合、区分が高くなることと生活の不自由さは直結しやすい。
だが精神障害の場合、「一人で電車に乗れるし、デイケアで農作業やスポーツもできる(=区分は低くなる)」けれど、「一度トリガーを踏めば強いパニックや解離が起き、数日間寝込む(=内面は地獄)」という状態が日常茶飯事だ。
「一人で動けること」が、行政のチェック項目上では「手がかからない=区分が低い」
私たちが区分でマウントを取らないのは、取れないのではない。「区分の数値は、私たちの本当の苦しみを何一つ表してくれていない」と、誰もが感覚的に知っているからだ。
手帳の級数で自分の苦しさを証明しようとしてしまうのは、それだけ私たちが「目に見えない生きづらさ」を誰かに理解してほしいと渇望しているから
手帳の数字も、行政がつけた区分の数値も、日々耐えている苦悩の深さを正確に測ることはできない。
私は、相手の知性や理解度の低さをどこかで軽蔑し、冷めた目で低く見てしまう自分に嫌気が差しながらも、その視線をやめられない。
なぜなら、精神障害という目に見えない障害を抱えていると、「自分の苦しさの正当性」を証明するための客観的な指標が欲しくてたまらなくなるからだろうと精神入退院繰り返しているのに、障害者を下に見てしまう。
知能や理解力で差を感じたとき、手帳の「1級」「2級」という分かりやすい数字を使って、「私の方が重度で、私の方が苦しみを深く理解している」と無意識にマウントを取り、自分の存在価値を保とうとしてしまうんだろうね
区分という数字に傷つく必要も、手帳の数字に囚われる必要もないと常に思う。みんな人と比べすぎ。それらは単に、この生きづらい社会で「利用できる支援を引き出すための道具」に過ぎないのだから。
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