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美味しいコーヒーの愉しみかた Acidity and Bitterness 第2話


「お父さん、ホンジュラスだってー」
「何が?」
「コーヒー」
「ああ、産地の話か」

 買って来たコーヒーをキッチンに面したカウンターに置くと、お父さんがキッチンからコーヒーカップを2つ持ってくる。

「利津も飲むだろ?」

 お父さんはカップのコーヒーを等分してお店の白いコーヒーカップに入れた。
 そのうちのひとつを、私の前に差し出す。
 
 顔に近付けると、これまで香って来ていたコーヒーの香りに比べて随分と控え目だった。
 もっとガツンとしたコーヒーの香りがすると思ったのに、むしろ香りはそんなに強くない。

「ベリー系の酸味が残っている感じ。中煎りって言ってたけど……これで中煎りってことは、浅煎りだと相当酸味が強いのかなあ」

 コーヒーの感想を言うと、お父さんは嬉しそうに頷いている。

「さすがだな、利津。コーヒーに詳しくない割に、すぐに感想が出る」
「別に。思ったことを言っただけ」
「へえ、確かにあんまりこの辺では飲めない感じの味だね」

 そう言うと、一気にコーヒーを飲み干してキッチンに行ってしまった。
 お父さんは昔から私の味覚を「神の舌」だとおだてる。
 お父さんが買い付けてくる魚について感想を言っていただけだ。

「利津、その格好で行ったのか」

 お父さんに言われて初めて気付いた。私、普通の青いエプロンに青い三角巾をして、後ろでひとつに縛ったまま……。

 あのお洒落なお店の人と、お洒落なお店に通っている人たちに定食屋丸出しの姿を見られてた……!

「このまま、行って来ちゃった……」
「まあ、この商店街では普通だよ」
「そう、だよね」

 不覚だあ……。
 この商店街では普通だけど、あの店では浮いていたに違いない。
 注文する時も「どれでもいいです」なんて言ってしまった。

 うわあ……やらかしたああ……。
 もう、あのお店には行けない。行こうとも思ってなかったけど。
 このままどちらかのお店が閉まるまで、なんのアクションもなく日々が過ぎて行くんだろう。うん、それでいい。

 私は気を取り直して夜の仕込みを始めた。
 今日はサバ味噌定食と唐揚げ定食、親子丼の3メニューだ。

 サバを三枚におろした後で大きさを揃えて切るのはお父さんの仕事。
 鳥肉は唐揚げ用と親子丼用に下処理と下味に浸して。あとは出汁。味噌汁用と親子丼用の出汁をひく。

 そして、夜の営業が始まった。

 いつも通りに学生さんたちとサラリーマンが来る。
 一日の営業は、いつもと同じように過ぎて行った。

 そんな、ラストオーダー間際の21時前……。

「まだ、大丈夫ですか?」

 そう言って駆け込むようにやってきたのは……あのお洒落アゴ髭男だった。

 困る。昼間と同じ格好の私を見て、絶対にあの時の客だと気付くはずだ。

「どうぞどうぞ」

 お父さんは快く迎え入れている。

 うちの店の、ごくごく一般的な店舗什器にお洒落な人間が腰かける。
 違和感……。
 量産品の上に、オーダーメイド品が無理矢理飾り付けられているかのよう。

「あの、本日の魚定食は何ですか?」
「サバ味噌です」
「じゃあ、それを」
「はい」

 大丈夫? サバ味噌の匂いが身体に沁みついてしまうとコーヒーの邪魔になったりするんじゃ??

「すいません、一度挨拶したきり、お店にお邪魔してなくて」

 お洒落アゴ髭男はそう言った。何の話だ。

「ああ、お隣さんですね。いや、開店の時は大変でしょう?」

 キッチンでお父さんが答えている。何? この人、挨拶に来たことあるの??

「思った以上にバタバタしちゃって……やってみると至らない事ばかりで、お恥ずかしい限りです」
「いえいえ、誰だってそうですよ」

 お父さんはまるで前から知っている人みたいにお洒落アゴ髭男と話す。

「今日は、コーヒーを買っていただきまして」
「えっ……私?」
「はい、昼間はどうもありがとうございました。やっぱり、オーダー分かりにくいですか?」
「あ、ああ……。私、コーヒーって詳しくなくて」
「そうですよね、いや、普通はそうなんだよなあ……」

 お洒落アゴ髭男は……アゴに手を当てて困った顔をする。
 様子が、ちっともアゴから離れられない。

「娘が、感想言ってましたよ」
「ホントですか?? どうでした??」

 ちょっとお父さん!! ヤメテ!!

「ええと……中煎りって言われて渡されたんですけど、酸味がありました。ベリー系で、スッキリとした飲み口で」

 私は渋々思い出しながら感想を言う。素人に語られたところで、嬉しくないだろうに。

「すごい。産地まで当てましたね」
「いえ? 分かりませんけど」
「ホンジュラスでベリー系まで分かっていたら充分ですよ。酸味の種類には、ほかに柑橘系がありますが」

 アゴ髭男は、そう言って私をおだてた。嬉しくなどない。たまたまベリー系だと思っただけだし。
 豚じゃないから木には上らない。いや、豚も上らない。

 すぐにサバ味噌定食が用意できたので、私はお盆をアゴ髭男の前に置いた。

「うわあ。サバが綺麗ですね。こういうのホント嬉しいなあ。いただきます」

 お父さんはとある魚卸を昔から懇意にしていて、良い魚が手に入る。
 魚と肉の定食を用意しているけど、絶対に魚定食の方がクオリティが高い。

 アゴ髭男は、近くで見ていると30代前半に見える。
 店長にしては若いのだろうか? その辺の事情には詳しくないけれど、お箸の使い方は綺麗だ。

「このサバ味噌、赤味噌ですか?」

 コップの水を足していたら聞かれてしまった。

「はい、うちは赤を使うことが多いです」
「へえ……? いや、自分の実家は合わせ味噌か白味噌だったので、赤味噌はこれで美味しいなと思って」
「ああ、白味噌でも美味しいですよね」
「いやでも、これはすごく……調和するというか」
「赤味噌って、割とうまみの強い食材を整える時に向いている気がするんです。白味噌に比べると塩分が強くてクセがあるように思えるんですけど、実は熟成期間が長い分だけコクが柔らかいところがあって」
「へえー……面白いな」

 アゴ髭男は、アゴに手を置いて感心している。それ癖なんだなあ。
 アゴに目が行って仕方がないんですけど。

「アゴ……」
「あご??」

 やっば。アゴ髭って言いそうになったーー!!
 名前知らないから、もーーーー!!

「すいません、あのって言おうとして噛んじゃいました」
「ああ、何ですか?」

 あっぶな……。名前聞いておこうかな、コーヒースタンド・ナツの人。うかうか話しかけられない。またアゴになっちゃう。

「お隣さんは、すごくお洒落なお店ですけど……どうしてこんな下町にオープンさせたんですか??」
「ああ、確かに下町ですよね」

 お洒落なものなんて大してない場所に、あんな難易度の高いお店をオープンさせるなんて。

「なんか良いなあと思って。物件探しで初めてこの町に来た時に、生活感とオフィス街がいい具合に混ざっていたし、道行く人たちが温かいし、隣にはいい雰囲気の昔からある定食屋さんが栄えていて」
「栄えて……?」

 栄えているの意味を分かって使っているのだろうか。昼時にサラリーマンで溢れているだけだ。
 うちのお昼の売上なんて、せいぜい3万円台しかいかない。材料費引いたら2万円にしかならないって言うのに。

「食って、やっぱり人の根源だと思うんですよ、僕。いい食事がある場所がすごく好きで」
「はあ……」

 何を言っているのかよく分からないけど、このお店が褒められているのだろう。アゴ髭男は、「ご馳走様でした。本当に美味しかった」と言って満足げに隣のお店の方に消えて行った。

 あーあ、名前、聞きそびれちゃったなあ……。またアゴって言っちゃいそう……。

  *

次の日、昼の営業が終わった仕込み時間になって隣の店が気になった。

「ねえ、お父さん」
「うん?」
「今日の午後さ、隣のお店に行って来てもいい??」
「別にわざわざ断らなくったって、好きに行けばいいだろう」

 お父さんは、真っ白な髪で白い襟付きの白衣を着ている。だからとても……全体的に白い。
 その白い姿でくしゃっと笑った。還暦前だというのに、いつまで経っても娘が自立しないせいでお店を止められそうにないっていうのに。

「ありがとう。じゃあ、行って来る」

 14時を過ぎた頃、隣の店の扉を開けた。
 店内が程よく見えるようになっている、ガラスのはまった木枠の扉。
 開くと、扉の上に付いたカウベルがカラランと鳴る。

「いらっしゃいませ」

 店内は明るい色の木でできた什器と、コンクリート壁の空間になっていた。お客さんは2人だけ座っていて、全部で6席しかない。

「こんにちは」
「あっ、お隣さん」

 私は、何となく2人掛けのテーブル席をやめてカウンター席に着いた。席から、アゴ髭男の仕事が見える。
 洗い物をし終えたのか、カップを布巾で拭いていた。

「メニューはこちらになります。分からなかったら何でも聞いてください」

 厚紙に印刷されたメニューは、相変わらずお洒落だ。
 コーヒー豆の種類と、その豆の酸味と苦味が★の数で示されていた。
 食べ物は何か出しているのかと思って探すと、トーストとガトーショコラだけらしい。

 ガトーショコラか……。今、お昼食べたばっかりだからちょっと無理。

「すいません、この……コスタリカを。淹れ方のお薦めってなんですか?」
「ああ、このコスタリカは、フレンチプレスもお薦めです。挑戦してみます? ミルクは入れる派ですか?」
「ああ、入れたり入れなかったりですけど……今回はお願いしようかな」

 アゴ髭男は頷いて、メニューを下げた。
 そろそろ、名前を聞いておかなきゃ。

「あの、店長さん」
「はい?」

 うん、店長っていうのは合っているのか。他の従業員が居るわけでもなさそう。

「お名前……聞いてもいいですか?」
「ああ、すいません! お隣さんなのに、自己紹介がまだでしたね!」

 慌てて名刺を出してきた。私は名刺とか持っていない。

『店長・クリエイティブディレクター 夏木ユウタロウ』

「なんですか、この、クリエイティブディレクター? って」
「ああ、本当は入れたくなかったんですけど……まだ前の仕事から足を洗えてなくてですね。時々この名刺で挨拶しなきゃいけないことがあるので、消せないだけというか」

 よく分からないけど、前にやっていた仕事がクリエイティブディレクターってこと?

「コーヒースタンドナツの『ナツ』っていうのは夏木さんのナツですか?」
「ええ、前職では僕のことをみんなナツさんって呼んでて……」

 「ナツさん」は真鍮製らしい深さのあるスプーンでコーヒー豆をすくい、おそらくコーヒーミルであろうお洒落な機械にかけている。

 ウィーン……ザリ、ザリザリ……

 ああ、豆って挽く時にも香りが立つんだ。ふんわりと優しく香るコーヒーの香りで心が安らぎそう。
 これは、癒されるかも。

 ナツさんは挽き終わった豆を丁寧に……あれ、それってコーヒーを淹れる時に使う器具なの? 紅茶飲むときにお店で出て来たことがある器具だ。

「それって紅茶用の器具じゃないんですか?」
「ああ、フレンチプレスで紅茶を出すお店がありますよね」

 やっぱり同じものなんだあ。というか紅茶用だと思ってたけど、本当はコーヒー用の器具だったんだ、これ。

 紅茶を飲む時は、茶葉が開くまで待って最後に真ん中に通っている棒を上から押すことで、ギューッと紅茶の茶葉が押されてお茶だけを注ぐイメージ。

「これは、フランスでコーヒーを手軽に飲むために作られた器具なんです。だからフレンチプレス。コーヒープレスって呼ばれることもあります」
「へえ、フランスで……」

 フランス生まれで、コーヒー用の器具だったなんて。

「ミルクを入れて飲む方に、フレンチプレスを使った抽出はお勧めですよ」
「何でですか?」
「ペーパードリップだと、どうしてもコーヒーオイルがペーパーで濾されてしまって残りにくいんですけど、フレンチプレスは金属フィルターを使うのでコーヒーオイルが残りやすいんです」

 ナツさんはフレンチプレスに入れたコーヒー豆に、細いお湯が出るやかんでお湯を注ぐ。豆が空気を含んで、ふわあと膨らんでいた。うん、良い香り。

「コーヒーオイルですか」
「豆の油分です。それがミルクとの相性が良いんです。コクがあるので」

 器具は上から蓋をした状態で、そのままになっていた。
 待っていると抽出が完了するのだろうか。
 それにしても……料理みたいにコーヒーにもコクを気にする世界があるんだな。

「利津さん、でしたっけ」
「ええと、はい。なんか、ナツさんと似てますよね」
「いや、僕のはあだ名ですから」
「でもユウタロウさんだと呼びづらいんで、私もナツさんて呼びます」
「はは、どうぞ。利津さんは、コクやうまみに詳しいと思うんですけど……」

 そんなに詳しいわけがない。ただの定食屋の娘だ。

「コーヒーは、コク、苦味、酸味で味を表現します」
「へえ……そうなんですね??」
「コクがbody、酸味がacidity、苦味がbitternessです。それぞれの強さを豆ごとに把握して、そこに焙煎と抽出で風味の楽しみ方を変えるんですよ」
「面白い」

 そう聞くと、さっきメニューで見た★の数の意味がようやく分かる。
 酸味が強い豆と苦味が強い豆があるのはイメージが付くから、その特徴を活かした焙煎と抽出がある、と。

 ナツさんは私の分のコーヒーを、そこでぐっとプレスした。
 そして、あらかじめ温めていたコーヒーカップに注ぐ。

「焙煎で飲みやすい酸味になっています。ミルクと一緒にどうぞ」

 取手が付いている白のマグカップが、茶色いシリコン製のコースターと共に目の前に置かれた。カップには、『The Coffee Stand Natsu』のロゴが入っている。

「なんか、こういうカップまでセンスが良いのは、ナツさんがクリエイティブ……ディレクターっていうのと関係ありますか??」

 私はカップを持ち上げて香りを確認しながら尋ねた。
 コーヒーの香りがふんわりと香る。コーヒーに詳しくない私は、確かに酸味がありそうな香りだな、程度にしかわからないけど。


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