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美味しいコーヒーの愉しみかた Acidity and Bitterness 第6話

 私とナツさんは16時前にお店を出て帰路につく。
 食べたパフェのことや、これまで見て来たお店の話をしていたらあっという間に時間が経っていたらしい。

「市場調査、私なんかでお役に立てました?」
「ばっちりですよ」
「それは、良かったです」
「とても楽しかったです。ここのところ、商店街からあまり出てなくて」
「利津さんは、もっと自由にしていて良いんですよ」
「でも、ひとりで行きたいところも無くなってしまっていたので」

 いつの間にか、行動しないことが普通になってしまった。
 日曜日の休みは家にいるか日常に必要なものを買いに行くくらいで終わる。
 こんな風に外出したのはいつ振りだろう。

 ナツさんと一緒に食事をすると、心の奥がほんわかとする。

 地下鉄の車内で並んで座っていると、どこかの窓に私と隣り合っているナツさんが映るのだということが、まるで大きな発見みたいで。

 今日は、色んな事を知った日だった。

「じゃあ、利津さん。また市場調査に誘ったら付いて来てくれますか?」
「え!? 良いんですか? 食事代とか全部払ってもらっちゃってるのに……」
「いやいや、ランチ以外は飲食代というか研究費ですから。利津さんがいてくれると助かるんですよね……」

 ナツさんは当然のようにそう言うと、地下鉄の駅に向かう階段を降り始めた。慌てて後に付いて行く。

「あの、ナツさん」
「はい?」
「ナツさんの前職の写真、見ちゃいました」
「あー……見られちゃいましたか」

 地下鉄の駅に向かう地下の通路に、私たちの声が反響する。

「髭、無い方が若々しくてカッコいいのに」
「それだと店長の威厳がないじゃないですかー。僕のコンプレックスなのに」
「威厳なんてなくたって、ナツさんは充分すごいです」

 私が口を尖らせて言うと、ナツさんは「すごくありません、利津さんより年を食ってるだけですよ」と謙遜する。どうやら童顔を隠そうとしているナツさん。

 私はもっと、ナツさんと並んで「お似合い」になりたい。
 年の差はいつまで経っても追いつけないのだから、せめて見た目だけでも。

 どうやら、仕事休みのナツさんを独り占めできたせいで欲張りになっている。
 地下鉄で、我が家までは1時間弱。このままだと17時には家に着くだろう。

「あの、ナツさん、うちで晩ご飯食べて行きませんか? 材料はありものですけど」
「え?」
「お父さんは今日、夜遅くまでいないんです。どうせ1人分作るのも、2人分作るのも変わらないですし、今日のお礼に……」

 明らかにナツさんは動揺していた。まさかそんな提案が来るとは思わなかったのだろう。

「いや、でも、そんなご厚意に甘えるわけには……」
「1人で晩ご飯食べるの、寂しいじゃないですか。今日は久しぶりに一緒にご飯を食べる人がいて、私、とても楽しかったんですけど」
「はあ……」
 
 ホームに向かう階段を降りる前に、ナツさんは立ち止まった。

「いや、あのう……やっぱり店長がいない業務時間外のお店に僕が入るっていうのは、よくないですよ」
「……お父さんがいないだけで、我が家なんですけど」
「いやだって、僕、男だし。お父さんは嫌だと思いますよ」

 ナツさんは、まるで保護者みたいなことを言う。
 家に呼んでいるだけだというのに、どうしてこうも遠慮っぽいのだろうか。

「漬けマグロ丼なんかどうですか?」
「旨そうですね」
「冷凍庫に、マグロがあります」

 ナツさんは複雑な顔をしていた。
 本当は、責任者がいない時に他人がお店に入るなどあってはならない、とか思っているんだろう。
 それはそうなのかも。私はよく知らない。

「今日のお礼に、ご飯を作りたいんです。私も、ナツさんが美味しいって言ってくれるようなものを作れるようになりたいので」

 私は強引にナツさんの手を引いて地下鉄のホームに降りる。ナツさんの手は思ったよりも厚みがあって、そんなにゴツゴツしていない。

「あの」

 明らかに戸惑った声が後ろからした。

「分かりました、分かりましたので、その……」
「はい?」
「手は、離していただけたら……」

 小さな声で、ナツさんは私を拒絶した。

「ちゃんと、お店まで来てくれます?」
「はい、行くので……」

 私は精一杯納得して、階段を降りたところでナツさんの手を放す。地下鉄がホームに来ていたけれど、飛び込み乗車をするわけでなし、その場に立ったままだ。

 階段に向かう人たちが、私たちの間を容赦なく通り抜けて行く。

 公共の場所では、私たちは他人同士のよう。
 電車から出て来た人たちが階段を上って行くと、ホームはすっかり人気ひとけがなくなった。

 ただ手を引いただけなのに、そんなに嫌がらなくたって。
 私はそんな気持ちでいっぱいになっている。
 半日以上デートのようなことをしてきた相棒に対して、ナツさんは冷たい。

「あっち側に行きましょうか」

 ナツさんはホームを歩いて行く。私はその後に続いて歩いた。
 この距離感なら、商店街の人たちに見つかっても何も思われないだろう。そのくらい、私たちは離れていた。

 地下鉄の中、隣り合って座ったまま何となく私たちは無言だった。
 およそ40分間の移動中、結局私たちはひとことも交わさずにいつもの商店街に到着した。

 私とナツさんは、人がひとりくらい間に入れそうな距離を取りながら歩く。
 一緒に歩いているようにも見えるけど、他人同士が歩いているようにも見える。

 言葉を交わさないまま店に到着した。
 商店街は日曜定休のお店が多く、誰かに声をかけられることもなく済んだ。

 私は店の入り口を開けると、電気を点けてナツさんを中に案内した。
 お店の席に座ってもらい、すぐにキッチンに入る。

「ナツさんは、いつもご飯どうされているんですか?」

 キッチンでエプロンを付けて手を洗いながら、向こうにいるナツさんに声をかける。このまま夕食に突入するのは微妙だ。

「ああ、実はお店に泊まっちゃうことも何度かあって、その時はお総菜屋さんのお弁当を買って食べてました」
「お店に……? あのお店、寝られるところありましたっけ?」
「店内の椅子に座って、テーブルに突っ伏して寝ます」

 耳を疑った。なんて疲れの取れない睡眠方法を。

「なんですか、それ。そんなんじゃ日中きつくなりませんか?」
「まあ……」
「まあじゃないです!」
「僕、前職もそんな感じだったから」

 当たり前のように無理をするクセがついているらしい。
 
「今、ナツさんは店長さんでオーナーさんでただひとりの店員さんですよ?」
「ほんと、そうですね。でも、僕が1日店を閉めたところでそこまで社会に影響もないですが……」

 とんでもないことを言い始めるナツさんに、私は焦ってキッチンを出た。
 ナツさんの顔を見ると、いつも通りの顔をしている。

「なんてことを言うんですか?」
「……?」
「お店をやる人間が、そんなことを言わないでください」

 私の真剣な口調に、困ったような顔を浮かべて「ああ」と頷くナツさん。
 
「もちろん、それぞれ事情はありますし、突然休まなければならないことも起きます。でも、体調管理はしてください。やむを得ない事情以外でお店を閉めるのは賛成できません」
「……まあ、そうですよね」

 私はナツさんの座った席の前に着く。
 このままだと、ナツさんは無理をして目の前からいなくなってしまいそうな気がした。

「あの……差し支えなければ、なんで前の仕事を辞めてコーヒーショップを開いたのか、教えていただけませんか?」

 私はずっと聞きたかったことを、しっかり聞こうと思った。
 今聞いておかなければ、今後ナツさんに向き合う時に戸惑いそうだ。

「ああ……差し支え……は、ないですけど……」

 ナツさんは言いづらそうな顔をして、観念したようにこちらを見た。

「別に、いい話じゃないですよ?」
「私だって、いい話じゃないことを聞いていただいたので」

 ナツさんはまた「ああ」と呟いて、小さく頷く。

「僕の前の仕事は、お客さんである企業にクリエイティブ……それは時にホームページ制作の内容だったり、会報誌だったり、ポスターだったり、映像だったり……を作る仕事だったんです」
「はい」
「それで、あるお客さんの仕事で、有名俳優を起用したWebムービーを作るっていう企画を立ち上げました。最初から最後まで、僕が責任者で全部の制作を統括していて」
「ナツさんって本当にすごい人だったんですね」

 まるで、別世界の人みたいだ。そりゃ、あれだけインタビューされているような人だ。
 私の知らないナツさんは、とても華やかな世界の人なんだ。

「すごい人なんかじゃないですよ。僕はお客さんがやりたいことをやるためにどうしたら良いかを考えるだけで」
「私には、思いつきません」

 私の感覚とナツさんの感覚は根本的に違う。
 考えるだけと言うけれど、その考えられることが私とは違う。
 何かを産みだせる人は、それだけで多くの人とは違うんじゃないかな。
 頭で考えたことだけで人の心を動かす人が、目の前にいるなんて不思議だ。

「これまで僕は、そうやって仕事をしてきて何も疑問を持っていなかったんです。喜んでもらえるのが、いつの間にか当たり前になっていて」

 それが当たり前だと思えるくらいに、仕事ができたんだろう。きっと、ナツさんの頭の中から生まれたアイデアが、人の心を動かしていたんだ。
 それに比べて社会人1年目ですら越えられなかった私。助けて下さいすら言葉にできなかった。

 ナツさんは、いろんな会社から助けて下さいと言われて結果を出してきた人で、だから私がナツさんに何か言えることも支えになれることも何もないのかもしれない。

「あの、俳優の波野耕平って覚えてます?」
「ああ、あの……」

 私の言葉はそこで途切れた。二股交際が発覚してから次々に他の女の人の存在が明るみになり、報道陣の前で謝罪をした人。

 それまでは爽やかな印象で、人気のきっかけになったドラマの役柄もあって誠実な男性として見られていた。
 それが一転、主演ドラマも降板になり、起用されていたCMは全てテレビから消えた。芸能人とは社会の印象が大事なのだなとつくづく思ったのを覚えている。

「実は、耕平くん。個人的に仲良くさせてもらってたんです。演技も上手いし評判もよくて、僕の仕事にも協力的で……。そんな縁から、とある企業さんのWebムービーに起用したんですよ。それが世の中に出たのが、あの謝罪会見の1週間前で」
「1週間前……」
「そりゃもう、大騒ぎで。担当者は怒り狂って、絶対にこんなものに金なんか払えない! って制作に掛かったお金は未収になってしまうし、耕平くんの印象は悪くなったけれど、未婚なわけで不倫ではないから……まあ、誠実がウリの芸能人が不誠実な交際をしていた時点で、傍から見たら裏切り行為なのかもしれませんけど」

 たまに芸能ニュースを見て適当な噂話をしていた私には、こんな裏事情など想像もつかなかった。当時は、「もうダメだなー波野耕平」なんてニュースを見ながら普通に言ってしまっていた。

「……大変だったんですね。でもそれは、ナツさんのせいではないし」
「僕のせいですよ。耕平くんを起用したのも僕ですし、彼と仲良くしていたのも僕です。リスクを甘く見過ぎていた。人を見る目もなかったんです」

「人を見る目なんて言ったら、日本全国みんな見る目が無かったってことじゃないですか。彼を誠実なイメージに仕立て上げたのは、ナツさんじゃなくて視聴者側です」
「実力派の俳優さんが、ドラマで演じた役柄の印象に引っ張られるのは当たり前です。僕は、私生活すら知ってたんです。交際中の彼女さん含めて会ったことがあったし……」

 恐らく、その彼女さんというのは波野耕平がもともと交際を公表していたモデルさんのことだろう。実力派俳優は私生活を演じるのも上手かったに違いない。

「ナツさんって、下の名前はカタカナなんですか?」
「いえ、石原裕次郎の、太郎バージョンです」
「なにその説明」

 私が不可解な顔をすると、ナツさんは「いや、年齢が上の方にはそれが一番伝わるんですって」と言った。
 だいぶ上の世代じゃないのだろうか。いや、クリエイティブな人たちからするとレジェンド的な人だから通じるのだろうか。

 夏木裕太郎さん。見た目が現代人風でおしゃれなナツさんに、古風な名前が付いたものだなと感じる。けど、案外それがカッコイイのかもしれない。

「ナツさん、前の仕事を辞めたのは、罪悪感からですか? それだけとは思えないんですが……」

 私はその時、ナツさんの表情が一気に曇ったのを目に入れてしまった。
 
「利津さん……どうやら僕、利津さんとの距離感を間違えてしまいましたね。ああ、僕のせいです。もう、こういうの止めてもらえませんか?」
「こういうの、って……」
「距離感を間違えて欲しくないって言えば分かります?」
「そんな……」

 ナツさんの顔には「勘弁してください」と書いてある。お願いだから関わらないでくれという気持ちが、私に突き刺さるみたいに。

 何が、どうしてそんなにナツさんを怒らせたのか分からない。
 だけど、ナツさんの顔には今まで見たことのないような悲壮感が張り付いていて、それを見た途端に私の息は止まった。

 傷付けた。

 ナツさんは、何も言わずに店を出て行ってしまった。


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