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美味しいコーヒーの愉しみかた Acidity and Bitterness 第16話


「うう……ん。体勢おかしかったのか、ちょっと身体の感じが変……」

 布団から身体を起こして顔を歪めている女の子は、夜よりも瞼が重かった。
 伸びをしているのを見てしまい、慌てて目を逸らす。なんだか付き合いたての彼女を見ている気分だ。

「今日は、仕事?」
「あー……行きたくないなあ」

 真樹ちゃんはがっくりとしていた。

「休もう休もう。精神的な不調も、体調不良みたいなもんだよ」
「祥太さんは? 一緒に休んでくれるなら休む」

 じろっと真樹ちゃんに見られ、俺は自分の携帯電話を掴む。
 母さんに電話をした。

『何? 朝から電話してきて。家帰って来てないけど』
「いやーちょっと友達と飲みすぎちゃって。今日有給取っていい?」
『ったく、社会人なんだから飲み過ぎとか気を付けなさいよ。あんた指名のお客さんは?』
「幸い、いませーん」
『指名客が少なくて助かったわね』
「そういうことを言わないでくれるかな」
『じゃ、二日酔いお大事に』
「はーい」

 携帯電話を切って、ポカンとしている真樹ちゃんを見る。

「休んだ」
「ゆっる! 実家ゆっる!」

 君のために休んだのにその言い分はなんだ、と俺は瞼の重い真樹ちゃんにクレームを入れる。真樹ちゃんは歯を見せて笑うと、同じように職場に連絡を入れた。

「わあい! 休みサイコー!」

 無邪気に喜んでいる顔を初めて見た。こんなに子どもっぽく、目が無くなる笑い方をするんだな。

「よし! 朝飯食ったら江の島だ!」
「なんで??」
「小田急線沿線じゃん、ここ」
「は?」
「俺、久しぶりに江の島行きたい」
「いや、沿線だけど遠いよ? 軽く旅行じゃん。それに祥太さん、服は?」

  *

 俺たちは江の島に向かう前に途中駅で下車して、町田に来ている。
 真樹ちゃんの勤めるブランドの系列店があるから、そこで服を買ってからデートというわけだ。要するに、1日着た服で私の横を歩かないでと言われた。厳しい。

「どれも30パーオフで買えるよ? 新作とか見たら?」
「新作は季節先取りしちゃうからなー」

 俺はファッションも大好きだ。上質の布だなと分かるお高めの服を触りながら、おしゃれな店員さん達を眺める。

 隣にいる真樹ちゃんの髪は俺がセットした。ゆるいパーマに似合うハーフアップで、我ながら素晴らしい出来になっている。真樹ちゃんはご機嫌だ。

「あ、祥太さんこれ似合いそう」
「販売員さんに言われちゃ、ちょっと試着したくなっちゃうなあ」
「ノリがいいね」

 俺は色んな服を着た。トップスを着替えると真樹ちゃんは思いついたように店内から服を持ってきて「それ、このボトムスとか合わせたらいい!」と息巻く。

「さすがですね、お客様!」と俺が興奮すると、「店員だわ!」と突っ込んでくれた。そっちこそノリがいい。

 買った服を着用して店を出て、一緒にまた小田急線に乗る。真樹ちゃんとは隣同士、窓の外に映る何気ない景色を見て会話を続けた。

 片瀬江ノ島駅に着くと、ぐっと観光地の雰囲気が増す。
 江の島は平日だけど観光客がいる。駅は竜宮城を模していて、異世界感がする。日常と離れた感覚がして気分がいい。

「えーうそー! 駅から見えてるの、あれ、海ー!?」
「いや、残念ながらそれは川だね」

 真樹ちゃんは「ちえ」と面白くなさそうに俺を見て、すぐに気持ちを切り替えたのか腕を組んでくる。

「どこ行く? なに見る?」
「江の島大橋を渡ります」
「歩いて?」
「海の上を渡れるよ」

 真樹ちゃんは嬉しそうに、足取り軽く歩いていた。

「ちょっとヒールついてるけど、平気?」と尋ねても、「5㎝にしたから平気。ヒールはこの位あった方がかえって楽」と言っていた。
 そういや、最後に付き合った子はちょっと歩いたら休憩を取らないとダメだったっけ。歩くペースを気にしないで一緒にいられるっていいな。

 江の島大橋は、江の島と繋がる唯一の道だ。
 橋の上では海風に吹かれながら空に浮かぶ雲と一緒に歩いているような、そんな感覚になれて気持ちがいい。

「なにこれーー! 風つよっ!!」

 腕にしがみついたままの真樹ちゃんが、風になびく髪を押さえている。
 もうヘアセットどころじゃない髪になっているのを笑いながら、「また直してあげるから」と声をかけると嬉しそうに笑った。

 向かい風も追い風も一緒になって吹いているような、そんな訳の分からない風の中を歩く。江の島がどんどん目の前に迫って来た。

「よし、江の島に上陸だ!」
「なになに? 江の島って何があるの?」
「まあまあ」

 真っ先に江島神社えのしまじんじゃに向かった。

「江島神社ってさ、弁才天をまつってるんだけど。厳島神社いつくしまじんじゃ都久夫須麻神社つくぶすまじんじゃに並ぶ日本三大弁天なんだって」
「弁才天って、何の神様だっけ?」
「この辺では、音楽や芸事の神様として有名かなあ」

 カップルの姿も多く、くっついて歩いている俺と真樹ちゃんはどう見てもデートだ。

 一緒にお参りをして、江の島内を歩いた。恋人同士が鐘を鳴らすところとか南京錠を付けるスポットもあったけど、俺たちは展望台に向かう。
 展望台の螺旋階段を上ると、海が一望できた。

「うわあああ! 綺麗! 水平線が見えるよ!」

 うん、そりゃ見えるだろうねと思ったけど、かわいいので「ほんとだね」と合わせた。
 今日の真樹ちゃんはテンションが高い。

「祥太さん、お昼は何の気分?」
「江の島だからシラスじゃない?」
「シラスが有名?」
「うん。生シラスとか」

 展望台を降りて、江島神社参道にある食堂に入る。まだ生シラスを食べられる季節らしく、真樹ちゃんも俺も生シラス丼を注文した。
 利津の家を思い出す普通の食堂だ。
 こういう素朴な店に入るとホッとする。

「ねえ、祥太さん。今日、楽しいね?」

 不意に真樹ちゃんは言った。こうやって改めて言われると、来て良かったなと思う。

「やっぱり人生には旅が必要だ」
「ナニソレ、誰の言葉?」
「坂井祥太」
「あんたかい」
「でも、松尾芭蕉も人生は旅って」

 真樹ちゃんは忙しく働く店員さんをじっと見ていた。

「うちの近所にさ、ここに似たような定食屋があって、俺、そこの一人娘と幼馴染なんだ」
「へえ、幼馴染ってどんな感じ?」
「まあ、兄妹かな」

 そこで、俺と真樹ちゃんのシラス丼が到着した。生シラスにショウガが乗ったシンプルな丼もの。キラキラした銀色の小さな魚が、とびきりのご馳走に見える。

「で? その定食屋が?」
「ああ、定食屋は幼馴染のお父さんがやってるんだけど、この間、おじさん倒れちゃってさ」
「そっか、お店がなくなっちゃうの?」
「幼馴染はね、そうするしかないって言ってるんだけど」

 真樹ちゃんは醤油をかけて早速シラス丼をほおばる。会話の最中だったけど「わあ、おいしー」と声が上がるとほっとする。
 本当に昨日の真樹ちゃんと同一人物だろうか。

「その幼馴染の意見に、祥太さんは反対?」
「うん。幼馴染はその店を手伝っててね。1回社会に出てるんだけど、人間関係で躓いて家に戻って来てる奴で」
「店をやめたら、働き先が心配とか?」

 真樹ちゃんは順調に生シラス丼を減らしながら、利津のことに興味津々だ。

「働き先っていうか、居場所がなくなるのが心配で。おばさんは小さい頃亡くなってて、おじさんの男手ひとつで育ってるんだよね」
「ああ、そういう……」
「でも、俺が心配したら憐れみだって言われて。今までそんなこと言われたことなかったから、ショックだったかな」

 最後に話した時の利津は、ハッキリと俺のことを拒絶した。
 確かに俺は利津のことを同情みたいな目で見ていた自覚はあるけど、未だに納得できないところはある。

「まあ、かわいそうって思われてるなってわかると、結構きついからね」

 真樹ちゃんはボソリと言った。憐れまれて嫌な気分になったことがあるのだろうか。

「まあ、そんなわけで兄妹喧嘩? みたいな状態になってる」
「祥太さん、喧嘩するんだね」
「するよ。気心が知れてる分、お互い容赦ないしね」

 なるほど、と言いながら真樹ちゃんは食事を進める。「はあ、久しぶりにこんなにおいしいもの食べたなあ」と完食したのを見た時に、昨日の飲み会の時に真樹ちゃんはあまり食事をとっていなかったかもしれないと思い出した。

「うちの店、体型変化に厳しくてね。食事が楽しくなくなっちゃって」
「うわ、もしかして体重チェックとかある店?」
「流石にないよ。昔はあったらしいけど」

 アパレルはそういうのもあるんだなあと、服を買った店を思い出した。
 確かに店員さんってお洒落なイメージはあるけど、そのために体型を気にしたりするのか。
 でも、友基なんかもインストラクターとして体型を気にしてるな。俺は節制とか苦手だから尊敬する。

「食べることが楽しいって、こんなに幸せなんだあ……」
「毎食美味しくご飯を食べて、お風呂に浸かってゆっくり寝られる幸せって、大人になってみると意識してようやく手に入るものなんだって気付くよな」

 お互いに空になったどんぶりを前に、そんな話をしていた。
 真樹ちゃんは「なんか変な日」と笑うと、提供されたお茶をすする。

「日本茶の実家感。あー私も日本人なんだなあ」
「俺はコーヒーが飲みたい」
「コーヒー好きなの?」
「ん。コーヒーショップの店長が結構好き」
「よく分かんないけど、なんか分かる」

 その後、何となく俺たちは黙っていた。
 一緒に店を出ると当たり前のように真樹ちゃんは俺の腕にしがみつく。
 それが普通になりつつあって、気にもならなくなった。

 フィクションの関係で始まった俺と真樹ちゃんは、いつの間にかその辺のカップルよりも自然に触れ合ってはしゃいでいた。
 真樹ちゃんは男と付き合う気が無いと宣言していたから、これも割り切った関係なのかもしれない。

 時折強風が真樹ちゃんの髪を揺らす。
 カラーやパーマが、何か月前に行われたかはすぐに分かる。
 美容師相手に本気にならないと言い切ったのは、予防線のようなものなのだろうか。

 何も始まっていない関係だけど、一緒に寝て一緒に食事をして一緒に歩いている。
 俺はこの女の子が「相良真樹」という名前だということと、勤めているアパレルのお店以外のことは何も知らない。

 まだ午後3時半を過ぎたところだった。

 あと2~3時間滞在したら帰ろうと思いながらも、どう過ごすか迷っていた。

 もう夏も終わりだ。日は短くなっていてきっと夕方以降の海辺は冷えるけど……夕陽は綺麗なんだろう。

 こんなことなら一緒に羽織ものでも買っておけばよかったかなと薄着の真樹ちゃんを見ながら思う。

 もうすぐこの時間が終わる。それぞれの日常に戻って明日が来たら……もう、関わることも無くなるのだろう。

「祥太さん、どうする?」
「夕陽だけ見て、帰ろうか」
「……そだね」

 海が見える場所で何となく腰を下ろして、2人でくっついて海を見ていた。
 彼女じゃない子とこんな風に過ごして、そしてもうすぐ全部が終わる。

「昨日から、人生で起こってこなかったことがずっと起きてたなあ」

 カモメが飛んでいる。風はやっぱり強い。
 江の島の海は真っ青ではなかったけれど、都会から近いのにちゃんと自然だった。

「祥太さん、今も……私の顔が理由でここにいる?」
「まさか」

 なんで真樹ちゃんと一緒にいるかを聞かれると、実はよく分からない。
 だけど、もう顔や見た目は関係なかった。

「ありがとう。私の我儘に付き合ってくれて」
「うん」

 ポツリポツリと終わりの言葉が紡がれていく。真樹ちゃんは、祥太さんは優しいねと何度も言った。その度に俺は、憐れんで一緒にいたわけじゃないよと笑う。

 真樹ちゃんはいわゆる体育座りをして、小さな背中で海をじっと見つめている。シャツワンピースにスリムタイプのジーンズを履いたカジュアルな格好が、砂浜の背景によく映えた。

 俺は親指と人差し指で直角のLを作ると、両手で画角にして真樹ちゃんを捉える。

「なにそれ?」
「画になるなと思って」

 昨日からずっと、真樹ちゃんは写真に残したくなるような子だった。
 だけど真樹ちゃんの記録が残っているのは記憶の中だけだ。

「海を見てると、泣きたくなるね」
「波の音が、ちょっとね」

 母親の胎内が波の音に似ていると言ったのは誰だったか。今なら、それがちょっと分かる。何故だか懐かしくて、ここから来たような気がして、そのまま還って行けそうな音がする。

「なんで今、生きてるんだろうね」
「哲学的な意味で?」
「消えちゃいたいなあって、何度も思ってるのに」

 真樹ちゃんは、目を離したら本当に消えてしまいそうだ。
 この子の中にあるものは、海のように底が見えない。
 それを掘り出してしまうと大きな傷をつけてしまいそうで、あえて見えない振りをした。

「私ね、学生時代、彼氏に……」
「いや、無理して言わなくて良いよ」
「……ここまで来たら言わせてよ」

 真樹ちゃんは何かの覚悟を決めたように、俺に話をした。

「2万で売られたの」
「……それって」
「先輩にさ、言われたんだって。お前の彼女の顔が好みだから貸せよって」
「は……?」

 耳を疑った。冗談でそういうことを言うやつは確かにいる。
 でも、それを行動に起こした話は聞いたことがない。少なくとも、そんな下衆た話が身の回りで起きたことはなかった。

「普通にさ、いつも通り彼の家に呼ばれて。私もその頃は健気だったから、コンビニで差し入れなんか買って、一人暮らしの家に行くじゃない? そしたらさ、2回位しか会ったこと無い彼氏の先輩が出てきてさあ。部屋間違えたかと思って焦ってるうちに、訳も分からず」

 学生時代、ということはほんの数年前のことだ。まだ新卒の真樹ちゃんは卒業してから1年も経過していないはずで、割と最近のことなのかもしれない。

「ずっと彼氏の名前をね、呼んだの。だってやっぱりそこは彼の家じゃない? きっとどこかから帰って来て、助けてくれるって思って」

 この話は、一番最悪な結果になる。それが分かって、俺は言葉が出ない。

「そしたら先輩が言ったわけ。お前あいつに売られたのに何言ってんの、って。来るわけないから、結局お前はあいつにとってそんなもんだからって。万札2枚の価値で叫んでんなよってすごい笑ってて」
「なんだよそれ」

 胸糞悪い、というのはこういう時に使う言葉なんだ。
 真樹ちゃんが何をしたんだと、そいつに突っかかって行くことも後悔させることも、俺にはできない。

「最悪でしょ。一番惨めなのはさ、その瞬間まで付き合ってた男がそんな屑だと知らなくてずっと信じて好きだった自分。コンビニで買ったスイーツはずっと私の隣で袋に入ったままだった。もう自分が世界で一番嫌い。この世の男の人が、みんな嫌いになった」

 無理もない。真樹ちゃんが受けたショックを考えれば、世の男が全て敵に見えても仕方がない。何しろ、一番好きだった男に裏切られたんだ。

「ずっと耐えて耐えて、相手が飽きるまで我慢して……私は『帰っていいよ』って解放された」

 警察沙汰にはしなかったんだろう。つまり、真樹ちゃんをこれだけ傷付けた男2人は、今ものうのうと何食わぬ顔して生きているんだ。

 それがやりきれない。
 何で傷付いたこの子がずっとこんな想いを抱えて生きて行かなきゃいけないんだ。

「どうしたらいいのか分からなかった。ただ私が男を見る目なかっただけだって……。自分を責めることしかできなくて」

 性犯罪は、こうやって被害者が自分を責めて殻に閉じこもって行くんだろう。
 こんな犯罪、許されるわけがないのに。人の心を殺す行為なのに。
 加害者への罰に比べて失うものが大きすぎる被害者に、俺はやりきれなさを覚えていた。

「それなのに何で、昨日は俺を誘うようなことをしたのか……気になるんだけど」

「剛さんに祥太さんの話を聞いた時、そんな優しいイケメンだって所詮男はみんな一緒なんだって思ったから、証明したくて」
「一緒にすんなよ」
「その方が……救われるじゃん?」

 真樹ちゃんは、まるで言葉を波に投げるように言う。
 目の前にある波は、絶えずこっちに向かってくるようにしては砂浜にかき消されるように消えていく。

 救われる……。
 この場合、この世の男が全員そういうものだと思えば、自分のされたことが特別不幸じゃなかったと思えるってことなんだろう。
 
 その瞬間は救われても、一生真樹ちゃんはこの世の男を憎み続けて生きるしかない。傷に傷を重ねるだけだ。

「救われるっていうのはさあ、真樹ちゃんがそいつらを見返すくらい……誰よりも幸せになることなんじゃないの?」

 月並みな言葉しか持たない俺は、ここにナツさんがいたらどんな風に真樹ちゃんを慰めるのだろうと自分の不甲斐なさが悲しい。

 やっぱり、俺は利津の言った通り人を憐れむことしかできないんだろうか。
 この華奢な女の子が抱えている悲しみや怒りの感情を、憐れみ以外で包む方法が分からない。

「幸せって、なに?」

 真樹ちゃんはこっちを見ずに、海を見つめて言った。
 ザザーン……と幾度も音を立てる波に、まるで自分を入れようか迷っているような顔で。

「美味しいもの食べて、温かい風呂に入って、適度に疲れた身体を休めるために寝る」
「それが祥太さんの幸せなんだ」
「そこに可愛い女の子がいると、もっと幸せかも」

 ぶはっ、と真樹ちゃんが吹き出す。「そこってどこよ。お風呂?」と聞くので、「全部」と答えると寂しそうに頷いた。

「真樹ちゃんは、可愛いよ」
「……顔が?」
「顔も」

 真樹ちゃんは「そ」とだけ短く返事をして、その後はずっと黙っていた。
 俺も特に話しかけたりはしないで、隣でくっついたままずっと海を見つめている。

 徐々に陽が落ちてきて、あたりが紅くなってきた。
 夕陽がどっちに沈んでいるかとか、そんなことを気にするのでもなく、ただただそこに座っている。なんだか空が泣いているみたいだな、と誰かが持ちそうな感想が浮かんだ。

「寒くない? もう、帰ろうか」

 気温が下がったのが分かる。海の近くは冷える。
 日中の暑さをしのいだ服は、風通しが良かった。

「うん……。もう、終わっちゃうね」

 髪を掻き上げて寂しそうに笑った真樹ちゃんに、まだまだ俺は伝えていないことがある。

「物事には大体、始まりがあって終わりがあるんだって」
「始まってたんだね」

 真樹ちゃんと俺はそんな話をしながら立ち上がる。俺は隣を見て、下にあるその顔をじっと見つめた。

「終わりから、始まることもあるよ」

 ナツさんが昔作ったショートムービーは、そんな話だった。
 終わったところからが、全ての始まり。そんなことだってある。

 真樹ちゃんは何も言わずに俺の腕にしがみつく。

「今度、定食屋とコーヒーショップを紹介してよ」

 ボソリと、肩越しに言われた。

「いいよ。その前に、『美容室 前田』だな。腕のいい美容師にカラーをやってもらった方が良い。カットもね」
「……だから美容師って嫌だ。もう2ヶ月以上行ってないのバレてる」
「大丈夫、可愛くするし、トリートメント無料で付けるし、30パーセントオフでやってあげるから」

 帰り道に向かって歩きながらそんな話をしている。真樹ちゃんは「営業されちゃった」と苦笑いしながら、実は男の人に髪を触られるのもずっと駄目だったんだよと告白してくれた。

 俺は男じゃないってことかと笑っていたら、「今度は、あの鐘を鳴らしてみたいな」と遠くに聞こえる鐘の音を気にしている。

 あの鐘には、カップルで鳴らすと別れないというジンクスがあるらしい。


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