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美味しいコーヒーの愉しみかた Acidity and Bitterness 第18話


「で? 日曜日の予定を聞いてきたのは何?」

僕はなるべく苛立ちを抑えながら日葵に尋ねた。

『直接謝りたくて……』
「いや、いいってそんなの。企画を立てた時の人件費だけきっちり払ってもらえればいいよ。特に失うものもないし」
『ごめん……』
「日葵は自分のことを心配したら? 僕は、盗まれて採用されるほどいい案を作ったんだなと思っておくことにするし」
『ありがと……』

 案を盗まれることは大嫌いだし、僕の案を別の人間が好き勝手にひっかきまわして制作するのだと思うと腹が立つ。

 だけど、日葵は騙されただけでなく仕事まで奪われて、惹かれていた男が企画泥棒だったと知ってしまった。
 さすがに、そんな状況に置かれている元カノであり元同僚に冷たく当たれるほど僕は冷酷ではない。

「人間の考えることだから、偶然、案が似ることだってある。みんなにはそう思わせておいた方がいいよ」
『うん、そうする……』
「じゃあね。次はもっとちゃんとした人と付き合いなよ」
『……』

 日葵は気まずいのか、何も言わなかった。そりゃ、振った人間に言われたら余計なお世話も甚だしいのだろう。

「切るね」

 日葵の声を待たずに通話を切る。
 メッセージもなくかけ直しても来ないあたり、納得はしたのかもしれない。
 事実、これ以上僕らが話しても仕方ない。

 やりきれない気持ちが身体の奥でうごめいている。
 僕の声を反響させていた店のコンクリート壁は、いつもよりも冷たくて無機質だった。

「なんだよ」

 無性に、何かにぶつかりたい衝動に駆られる。
 
 早く帰って身体を休めないと。
 また明日、店の営業を無事に始めて無事に終わらせて。
 開業資金を返せるように、3年はここで頑張らないと。

「あー……」

 行き場のない気持ちが、僕の中で沸騰しそうだ。
 こんな時は、誰かにすがって自分の中の悪いものを鎮めながら眠りたい。
 誰か、なんて頼れる人はいないけど。

 今、この瞬間、祥太くんはまきちゃんを抱きしめているのかもしれない。
 祥太くんに思い切り吐き出せたら、と思ってしまった。

 どうしてこんなに、人の優しさを欲するようになってしまったのか。

 こうなってみるまで、気付かなかった。
 僕は、自分が思っていたよりもずっとずっと弱いってこと。

 戸締りをして店を出た時、隣の定食屋の2階から明かりが漏れていた。
 利津さんは、お店の2階に住んでいる。そんな環境を羨ましく思いながら、家に帰るために駅に向かった。

  *

 次の日、開店準備をしていると携帯電話にメッセージが届く。

『昨日はすいませんでした。今日でよければウチ来ませんか?』

 まさかの祥太くんだ。
 きっと、まきちゃんと離れたところなんだろう。
 家にいれば簡単に出勤できるものを、わざわざ勤務先から離れた女の子の家に行っていたに違いない。

 いやあ、僕にはその若さが眩しいよ……。
 実際に見たわけじゃないけど……。

 すぐに祥太くんにメッセージを送った。お言葉に甘えて泊まりに行きたいということ、色々聞きたい事があるということ。

『聞きたいことですか、はい。覚悟しておきます』

 祥太くんは観念したのか、例のまきちゃんについて話してくれるつもりらしい。
 改めてちゃんと話してもらおうと思ったら、案外どうでもいいかもしれないと思い始めて来た。

 祥太くんは恐らく、単に恋愛をしているだけだろう。
 僕は彼の恋バナを聞きたいわけではない。

  *

「いや、ほんと……昨日はすいませんでした」
「なんで謝るんですか。いつも僕が甘えてるだけなのに」
「いや、ナツさんやっぱり俺の家に住んだらどうですか?」
「……祥太くんの部屋に?」

 いやさすがにそれは、と祥太くんも唸っていた。

「まきちゃんはどうなったんですか?」
「あーそれまだ早い、早いですよナツさん」

 祥太くんと僕は商店街を歩いている。すっかり秋の気配がしてきたと思っていたら、夜は大分冷えるようになっていた。
 そろそろ上着が要るなと、シャツだけの格好に頼りなさを感じる。

 この商店街には明るい街灯がある。夜でも明るい道を歩いているけれど、陽も短くなったせいですっかり寂しさが漂っていた。

 今日は祥太くんのお母さんが夕食を準備できないらしく、僕と祥太くんはお弁当を買いにお総菜屋さんに向かっているところだ。

「まあ、お弁当食べながらゆっくり話すつもりなんですけど、僕と一緒に暮らしたら祥太くんは彼女と会えなくなりますよ?」
「まあ、そういうのは……」

 ここまで来ても祥太くんは歯切れが悪い。
 どうして祥太くんはこんなに話しづらそうにするんだろう。

「おばちゃーん、のり弁ひとつー」

 総菜屋さんは通りに面した注文カウンターがある。祥太くんは普段の調子でそこから声をかけていた。

「あれ? 祥太、珍しいじゃない」
「すいません、僕はアジフライ弁当で」
「はーい。ナツさん、アジフライ好きねえ」

 アジフライが好きなんじゃなく、アジフライは素晴らしい食べ物だと思う。

「ナツさん、30代後半って夜に揚げ物食べたらもたれるんじゃないんですか?」
「後半て35だし! いやまあ、世間的にはおっさんかもしれませんけど」

 がっつりした肉メニューを食べたいと思わなくなって来たのは老化なのかもしれない。祥太くんに馬鹿にされそうなので口には出さない。

 僕と祥太くんはリビングでお弁当を食べた。

「で? 僕は祥太くんに任せますよ。話せる内容だけ話して下さい」

 口に含んだアジフライはサクサクという食感ではなかったけれど、それでも衣の中でアジがふっくらしていてやっぱり美味しい。

「あー、はい。真樹ちゃんは……一応両想いではあるんですけど」
「……小学生みたいなことを言い始めましたね」
「男にトラウマがある子なんです」

 なるほど、訳ありだったのか。それで祥太くんの歯切れが悪かったんだな。

「出会ったのは先週で、友達から紹介された子で」
「トラウマ抱えてる割に両想いになるのが早いんですね」
「……そうですかね」

 祥太くんがひるんでしまった。別に責めているわけじゃないのに。
 トラウマがあっても君を好きになれたんだねって意味なんだけど。

「俺、初めて会った時からタイプだとは思ってたんですけど、過去の話を聞いているうちに側にいてやりたいと思っちゃって」
「……ほう」
「気付いたら好きで」
「……続けてください」
「なんか、添い寝をしに行くように……」
「……」

 添い寝と来たか。それは想像していなかった。
 それで彼女ではないと言っていたのか。でも両想いなんだから彼女って言ってもいいんじゃないの? え? 僕の感覚がおかしい?

「呆れてます?」
「いえ、両想いの添い寝っていうのはもう彼氏彼女じゃないんですか?」
「なんか、お互い彼氏彼女は要らないって宣言してるので、なんとなく付き合おうって言いづらくて」
「そこちょっと理解ができませんが」

 祥太くんは遠慮をしているだけらしい。恐らく本音は付き合いたいのだろう。
 彼女じゃない、の真相はそんなことだったのか。

「まあでも、祥太くんと真樹ちゃんがいいなら、僕がどうこう言う話じゃないですから」
「ありがとうございます」

 祥太くんはあっという間にお弁当を平らげていた。
 若いからだろうか、細いのに祥太くんは一般的な成年男子よりも食べる方だ。のり弁はご飯を大盛りにしていた。

「俺、なんか尽くしたい願望があるのかもしれないんですよね」
「そうでしょうね。僕は気付いてましたけど」
「……そうなんですか?」

 案外自分のことは分からないんですねと僕が言ったら、祥太くんは「そうなのかなあ」と納得していない。

 それから僕は、日葵から電話があったことを祥太くんに報告した。
 僕の案が盗まれたこと、盗んだのは日葵と付き合っていた男だったこと。
 恐らくその男が日葵に近づいてきた理由は企画を盗むためで、過去の僕はその男に日葵も案も取られていたのだということ。

 だから昨日、真相がわかって愚痴りたかったんですよーと冗談ぽく言うと、祥太くんは本気で謝って来た。

「それは、一緒にお酒でも飲みたかったですね」
「はは、でも僕、あんまりお酒でストレス解消できるタイプじゃないんですよね」
「いつも、どうしてるんですか?」

 祥太くんに聞かれて、僕はどうやってストレスを解消して来たのかと思い出してみる。

「あんまり、何かをしてストレスをどうこうしてきたことってなかったんですよね」
「溜まりっぱなしですか?」
「うーん、どうなんだろう。ひたすら映画を観続けたり」

 僕がそう言うと、祥太くんは「今日、何か観ます?」と気を遣って来た。

「その言葉だけで充分ですよ」

 このやるせなさが伝わっただけで、さっきまで抱えていたモヤモヤとした気持ちが晴れていく。

「祥太くんが分かってくれたので、もう大丈夫です」
「そんな簡単な話じゃないと思うんですけど……」
「日葵に振られたことは別になんの未練もなくて、企画を盗まれて自分以外の人間が自分の案で好き勝手やることが、ちょっと許せないなという感じなんです」
「分かりますよ、なんとなく」

 僕は、他人に対して「分かる」という言葉を使う人が得意ではない。
 どうしても他人の「分かる」は軽くて、「何が分かる」と思ってしまいがちだ。

「なんでなんだろうな、祥太くんだけです」
「何がですか?」
「そう言われても、嬉しいのって」

 僕が言ったので、祥太くんは一瞬何かを考えたようだった。

「分かります、って誰が言うかですよね」
「誰が言うか?」
「適当に分かるっていう人もいますけど」
「祥太くんは違う?」

 祥太くんはちょっと気まずそうに頷いてから、「だってナツさんのことですから」と当然のように言った。

「日葵さんと付き合っていたら上手くいかなくなるだろうことも、ナツさんの渾身の企画が誰かの手によって汚されていく悔しさも、何となく分かります」

 僕たちの前には、空になった弁当がらが置かれている。

「僕、この町に来て良かったのは……祥太くんに会えたことかもしれない」

 つい、口から出ていた。
 真面目に言うことじゃない。こんなことなら、お酒を用意すればよかった。

  *

 午後の時間、客足が落ち着いたころに利津さんはやって来る。

「こんにちはー」

 最近ヘアスタイルとメイクを変えた利津さん。聞くところによると祥太くんのアドバイスによるものらしい。
 確かに以前より垢抜けて、若者らしい雰囲気になった。

「利津さん、今日は3種類の焼き菓子を用意しました」

 カウンター前に立つ僕の目の前、利津さんは席に着く。
 審査員を見るような目で、僕は利津さんを見る。今日もきりりとした目がこちらに向けられていた。

 プレゼンの時だって、こんなに緊張したことはない。利津さん、大企業の重役よりも圧が出ているのは何故なんだ。

 気を取り直して白いお皿に3種のマドレーヌを乗せる。
 先入観を与えないため、全て一般的なシェル型で焼いた。
 ドキドキしながら、利津さんの席にそれを置く。

「ノーマルなマドレーヌ、オレンジピール入り、ココアマドレーヌの3種です。今、ブレンドコーヒーを持って来ますね」

 利津さんは席に置かれていた水をひと口飲むと、目の前に置かれたマドレーヌを凝視している。冷や汗が出そうだ。

 僕はブレンドコーヒーを利津さんの席に置いた。
 相変わらずマドレーヌを睨んでいる利津さん。頼むから何か言って欲しい。

「あ、あの。何か気になりました?」
「いえ、食べてから感想言いますね」

 来たよーー。これだよ、これ。これが超怖いんだよ。
 地獄の前で審判を待っている気分になる。閻魔大王様みたいな利津さん。

「なるほど」

 利津さんはノーマルなマドレーヌをひと口かじると、すぐにブレンドコーヒーを飲んだ。

「わあ、合いますね!」

 うそおおおおおお。うわあああい、褒められたアアア……。

「ありがとうございます!!」

 利津さんに深々と頭を下げたら、やたら驚いている。
 いやだって、こんなに褒めてくれたこと無かったじゃないか。
 これまでの評価を思い出して欲しいんだけど。

「中に入ってるのはアーモンドプードルですか? 香ばしいナッツの香りがコーヒーに合いますね」
「そうです。本来ナッツだったらこのブレンドコーヒーよりも他の豆の方が合う気がするんですけど、このくらいの香りならいけますかね?」

 利津さんは、もう一度ノーマルなマドレーヌを食べた。定食屋なのに、アーモンドプードルの味も分かるんだな。ナッツの種類が違っても分かるんだろうか……ちょっと興味が湧いてきた……。

「はい、香りがぶつかり合わないし、どちらも焦がしたような香りで相性良いですね」

 ああああー初めてこんなにしっかり褒められたんじゃ??
 これは絶対にメニュー化できるやつ。簡単だし。

「あの……」

 僕が利津さんに握手を求めていると、困っている様子でなかなか応じてくれない。
 ああ、こういうの嫌いなのかなと思って手を引っ込めようとしたら慌てている。

「ご、ごめんなさい。嫌だったわけじゃなくて、握手の習慣があまりないので戸惑っただけです」

 利津さんはそう言って控え目に僕の手を握って来た。
 定食屋で水仕事をしている利津さんは、日葵のような保湿に全労力をかけているようなしっとりした手ではない。

 皮膚は若い女性の割に硬かったけれど、仕事をしている手だなと思う。
 人の美しさに対する価値観が変わったのは、自分がお店をはじめてからだ。

「戸惑わせてしまってすいません、利津さんにそう言われると嬉しくて、つい」
「そうですか……」

 急にしおらしくなった利津さん。
 一緒に市場調査でお店に行った時にも、こんな印象だったんだよなあ。

「すいません、続きもお願いします。利津さんのお墨付きをもらえると嬉しいですね」
「は、はい。それでは試食を続けますね」

 そんな恥ずかしそうにしなくてもいいのに。
 利津さんって厳しいのに、結構シャイなんだよねえ。
 じっと見てると何だか申し訳ないな。

 オレンジピールの入ったマドレーヌを一口食べた利津さん。

「これ、好きです」
「えっホントに? いやすいません、本当ですか?」
「甘みはハチミツで付けてますか? しっとりしているし華やかな香りがします」
「その通りです。天才か……」

 焼いていて風味も変わるのに、そこまで分かるのか。
 何がすごいって、利津さんはお菓子が専門じゃないところだ。
 定食の味見しかしてきていないのに、材料まで分かるなんて。

「このブレンドコーヒーとも、相性いいじゃないですか。オレンジピールもこうやって食べてみると、苦味と酸味があってコーヒーに合う気がします」
「僕は今、感動しています……」
「大袈裟ですね」

 マドレーヌに対する利津さんの評価があまりに良くて、何か悪いことでも起きるんじゃないかと思ってしまった自分がいる。
 利津さんは僕を見ながら笑っていた。

「だって、利津さんってすごく冷静な評価を下すじゃないですか。これだけ褒められたの初めてです」
「私、普段はマドレーヌよりフィナンシェ派なんですけど、こうやって食べてみるとフィナンシェってコーヒー用語でいうボディの強いコーヒー向きで、マドレーヌなら割と何でも合いそうな気がしました」

 利津さん、ペアリングまで完璧とか本当にあなたは何者だ。
 僕が感動して言葉を失っていたら、利津さんは不安になったらしい。

「すいません、偉そうに……」

 何故か謝られてしまった。
 過去に人間関係でつまづいた経験もあることだし、自分に自信がないのだろう。

「全く外れていませんよ。むしろ、よくそこまで分かったなと思っていたところです」
「そんな、あ、えっと、最後のココア入りもいただきます」

 利津さんは褒められたせいか困ったようにしていたけれど、きっと嫌ではないのだろうなと分かる。
 さっきから、なんか楽しそうなんだよね。

 利津さんはココア入りのマドレーヌをひと口食べて頷き、コーヒーを飲んだ。

「これは、どんなコーヒーにでも合いそう。あ、でも浅煎りよりも中煎り以上が良いですね」
「焙煎までイメージできちゃうとか、本当にあなたは何者ですか」

 利津さんは、スペシャルティコーヒーを飲み始めて、日が浅い。
 それなのに、既に焙煎のことまで把握していた。

 まあ、コーヒー豆の産地以上に焙煎は分かりやすいけれど……。
 それにしたって、正確に特徴を覚えている。
 一度飲んだコーヒーの味は忘れていないんだろうというのは明らかだ。

「お役に立てましたでしょうか……?」
「勿論です!」
「よかった……」

 利津さんはホッとしたようで、表情が柔らかくなった。
 リラックスしたのかコーヒーを多めにごくりと飲んで息を吐いている。

「なにか、お礼したいですね」

 利津さんの舌に頼っておいて、これではいけない気がする。
 本当なら、報酬を払うべきなんだろうけど……。
 それだと、利津さんは嫌がりそうだしなあ。何か欲しいものとか無いのかなあ。

「あ、あのっ。お礼……なんですけど」
「はい、何かありました?」
「その、ナツさんて引っ越し先を探してるって聞いて」
「ああ、祥太くんから聞きました? ほら、祥太くんちに泊ってたんですけど、最近女の子の家に行ったりしてるみたいで」

 意外と祥太くん、僕のことを利津さんに話してるんだなあ。
 下手なことは言えないぞ。

「うちに下宿しませんか?」
「……は?」


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