23.私の日記【雨はヤマボウシと喪失の時間】
娘たちは、いつも足元に花を探した。
まだ冷たい風が吹く春。
子ども達は何度も、小さな野花を集めては、私の所へ持ってきてくれた。
そんな季節も少しずつ去っていって、次第に娘は、花を摘まなくなっていく。
初夏。
温かい光を受けた種や、温まった土に包まれた根は、どんどん葉を伸ばしていった。
ミチタネツケバナしかなかった道。
程なくしてヒメオドリコソウが咲いた。
やがてムラサキケマンが姿を見せる。
そんな、他に何も生えていなかった冷たい地面に、密やかに咲いた花たち。
娘達の目には、どんな特別な花と映っていたのだろう。
今では、スギナを初め、イネ科の植物が立ち並ぶ。
伸びた葉にはトゲを纏った蔦が絡みついた。
花は散り、やがて雑草と呼ばれるようになる。
だから私は駆除したんだ。
妻の花壇。
その花は、取る事を許されなかった。
望まれずに咲いた花は、いくらでも奪えた。
けれど、誰かに望まれて咲いた花は、守られている。
子ども達は、花壇の花に触れられなかった。
そのうち娘は、確認をするようになる。
『このお花は取ってもいいの?』
と。
この子たちには、野花も、花壇の花も、区別はなかったんだ。
でも少しずつ、区別する事を知っていく。
親である私たちは、それを疎ましいものであるか、あるいは望ましいものであるかを決め、この子たちに教えてきた。
私たち夫婦に愛されなかった花は、私たちの手によって枯らされていった。
私たちの花だけ、ここに咲けばいい。
それが、綺麗な花壇だった。
私たちの庭だ。
私はスギナをむしり取る。
私を見て、4歳の娘と、2歳の娘も、同じように雑草をむしる。
しゃがみ込んで、足元を眺める。
新しい植物がまた生えてきたのに、誰も喜ばない。
何だろう。
心が痛む、というのとも違う。
何かずっと、違和感を感じるんだ。
選んで、取り除き、時には残す。
きっと誰もが、何の気なしに行なっていく営み。
それを私は、いつも何かが引っ掛かった。
だけど、いつもそれを無視した。
そうしていかないと、いちいち躓いてなどいられなかった。
私は一人で生きていない。
この町に暮らして、子ども達を授かった。
そしていつかは、この世界に、この子たちを送り届けていかねばならない事を知っている。
私が雑草をそのままにしようとしても、妻はそれを、
『こんな草だらけの庭、恥ずかしいよ。』
と言った。
私は困ってないのに。
この庭に訪れる誰にとっても、困る事なんて何一つないだろう?
そのはずなのに。
それでも、私は知ってた。
妻と子どもがいるから、雑草を殺し、美しい庭を守る事は、正しい事だって。
それが家庭を守ることなんだって、私はちゃんと知ってたんだ。
だってみすぼらしい庭を笑われるのは、私ではない。
この子たちだ。
スギナをむしる手を止めると、思ったより風は涼しくて、背筋がひんやりとする。
「寒くない?」
私は、娘達に聞いた。
『寒くないよ。』
4歳ちゃんはそう答える。
『しゃむい!』
2歳ちゃんはそう答えた。
「もう夕方になってきたから、お家に入ろう。」
私がそう伝えると、4歳の娘は、私を見た。
いや、違う。
私を見ていない。
私は娘の目線を追って、振り返る。
そこには、高い木があった。
表面には白い花が咲き乱れ、その内、所々をピンクの色に染め上げた個体が数多く入り混じっている。
春に、みんなで桜を見に行った時の事を思い出す。
満開に咲く、見事な桜の木。
そんなものには目もくれず、散ってしまった桜だけを、しゃがみ込んで拾い集めていたっけ。
手に取れる花だけが、君たちの花。
奪える花だけが、君たちの世界なんだね。
そんな風に思った。
娘は言った。
『あのお花をとりたい。』
顔を上げて、私よりもその向こう側にある、手が届かない花。
君はそれを欲しがったんだ。
私は答える。
「あの花は、高い所にあるから、手が届かないんだ。」
それでも娘は言った。
『じゃあ方法を考えよう。』
生命に貴賎のない、純粋な娘たち。
けれどいつか、区別するようになるだろう。
そうしなければ生きていけないから。
私は優しいだけではいられなかった。
不器用で、理屈でばかり物事を考える。
守れるものと、守れないものが、同時にあった。
だから、たまに苦しくなるんだ。
私の手が届く所にいる、君たちさえ守れたらそれで良い。
そんな小さな一つの家庭の、ただの父親だった。
なのに君は、あの花が欲しいんだね。
「分かったよ。」
私は少し黙り、その後、少し考えて、また口を開いた。
「今すぐにはどうにもできないけど、パパも考えるよ。
あの花を取る方法を、一緒に考えよう。」
そう言って、私たちは家に入ったんだ。
私は、雨が降る今日、白とピンクの花を、一人眺めている。
風が吹いても、枝は揺れるだけ。
雨が降っても、花は落ちなかった。
けれどいつか、遠くない未来、あの花たちも枯れ落ちていくのだろう。
だから私には、もっと時間が必要だった。
雨に打たれるヤマボウシ。
どうかもう少し、そこで待ってて欲しい。
私がそこに届くまでの間、その花を留めておいてくれ。
