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【ピリカ文庫】掌篇小説『東の街へはもう行かない』

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広告会社のNさんに出会ったのは、去年の今頃。職にあわず、流行にうとい、ぼんやりとしたひと。
モデルの仕事で2、3度会って、電話番号を渡された。

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彼の独り暮す東の街は、都会に近いながら、それまで訪れたことはなく。
最初の日。地下をゆく知らない路線にのり、出口から顔をだすと。曇り空のもと、雨のかわりに春の雪がちらついていて、薄手のコートにつつんだ身をふるわせた。
反して、駅に迎えにきたNさんと寄った喫茶店の、壁いちめんに飾られた抽象画は、初夏をイメージさせる眩いオレンジで溢れ。
反して、無言で部屋のカーテンをしめ、懐かしくもマニアックなソウルミュージックのカセットをかけ、ベッドをゆるやかに泳ぐNさんの蒼い裸、蒼い指は、秋の夜みたいにつめたいままで。

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二度目からは、駅まで迎えにきてもらわずとも、方向音痴の私でもあまり迷わず、Nさんの街へ、アパートまでゆけるようになり。
時間があれば早めに行って、独り、ありふれているようで、肌に触れる光や空気の質感、建物や道の匂いのちがう土地を、放浪した。

やや閑散とした、しかし迷路のように長くいりくんだ商店街には、魚屋、『十歳若返る』と何か塗りたくる美容術をアピールした薬局、床屋、名物らしい蕨餅の店、レトロなブティック……
アパートのある高みへと向かう、阿弥陀籤みたいに幾筋もある坂道沿いには、犇めく家々にまざって、畳の工房や、コインランドリー、庭木が繁り過ぎ、変色した看板のほか建物のほとんど見えぬ歯医者などがあり……

そしてアパート手前、わりとながく待たされる信号の隣には、ちいさな一本桜が植えられていた。春頃はわりに足繁くかよっていたから、蕾から花、そして緑への変化に、まるで昔から知るように親しみ。
桜は、突然変異だろうか、ひとつの幹から、白と濃いピンクの花を両方、半々で咲かせ、風に散らせていた。その風情は絢爛だとか毳毳しいと言うより寧ろ、不思議につつましく。ひとつの色で散るよりも、冷酷さとやさしさとを、空に透明なスプーンでゆるやかにまぜて、淡くも悩ましい渦模様を見せてくるようだった……

……そう言えばNさんは、とぼしい灯りの洗面所で、虫歯予防の白いチューブと、歯茎をいたわるピンクのチューブ両方を、スプーンでなくブラシにのせ、口につっこみ掻きまわし 、泡(あぶく)を漏らしていた。
直後のキスは、複雑な薫り。

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……年明けに会って以降、音沙汰がなかったので電話をしてみれば、番号は使われていない、とアナウンス。

彼の部下が偶々モデル事務所に来ていたので、探りをいれてみると、Nさんは転勤が決まっており、まだしばらく此方にはいるがアパートは既にひきはらい、ビジネスホテル住まいであるとのこと。伝えるべき人間には洩れなく伝えられていると……
即ち、そういうことだ。

インテリアどころか、広告業界にいる癖にテレビさえない部屋だった。もぬけの殻になるのは、容易く想像できた。あの部屋やNさんじたい、実在しなかったような気もする。

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その晩行ったバーで、ほろ酔いの男が、一緒に飲みませんか、と声をかけてきた。Nさんだった。暖色につつまれたカウンターにあっても、彼の存在はほんのり蒼かった。
私は今朝方寝癖が酷く、気まぐれに帽子でなく、おかっぱのウィッグをつけて仕事にゆき。撮影はなく打ち合わせだけだったのに、それを面白がったヘアメイクさんにより、かなり派手めの化粧を施されて、そのままいた。
豪奢な付け睫ごしに見るNさんは相変わらずぼんやりした風情で。腕の触れそうな距離でかるくお喋りし、カルアミルクを奢られて、ともに店を出たが、ビジネスホテルへの誘いをふりはらった私に、たぶん最後まで気づかず。

去りぎわ、ふりかえって、歯医者はどこへ行くの? とたずねたら、知らぬ国の言葉を投げかけられた顔をしていた。唇から泡が出ているように見えたが、気のせい?

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私は季節すべての色をひと巡りした、Nさんの街を想っていた。彼がいたから想うのでは、おそらくない。駅とアパートのあいだの寄り道まわり道は、ほぼ私独りで成されたことであり、部屋に蒼く沈んでいたNさんの躯の方が寧ろ、今思いかえせば寄り道であったようにも感ぜられる。

坂道の、二色の一本桜。
喫茶店の、現実の季節と近づいては、また軌道のずれてしまう初夏の画。ときに使った赤い公衆電話。
ほんとうの初夏に、市場の魚屋で墨をはき寝そべっていた剣先烏賊たち、その10分の1ほどの値で売られた、おおぶりな鰯たち。歩きすぎ、かるく日射病になってアパートにきた私をすこし呆れて見ていたNさんの、鰯にとてもよく似た眼。
秋にあらわれた、喫茶店でさぼってばかりいるおじさんが曳く焼き芋の屋台、警官の姿を見たことのない交番、おなじく店員の気配はまったくさせずに季節ごと、Vネックの衿と釦と袖口が白くてかわいい空色のワンピースや、スタンドカラーのイエローコートに着替えていたショーウィンドーのマネキン……

……春のはじまりにあの街でだけ見た雪、秋の終りにあの街でだけ花粉症で眼が痒くなり泪でほんのり朧になった景色と、触れてもすり抜けそうなNさんの背中や台詞さえも、すべて、知らぬまに上映の終った、そこそこ面白かった映画のシーンのように、瞬いている。

今年もまた、白とピンクの蕾をふくらませて咲き、風に散り乱れるだろうあの桜を、もう見ることはない。ソウルミュージックの歌手や駅や喫茶店やNさんの下の名前……何もかもが、複雑な薫りをともなう二色の渦にまかれ、そして消え去ってゆく。

©️2022TSURUOMUKAWA


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ピリカさん主催のアンソロジー『ピリカ文庫』に参加させて戴きました。


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