掌篇小説『風が吹くはずがない』
風が吹くって、おかしい。ドアはあたりまえのこと、窓だって総てとじられ鉄網が張られているのだし。扇風機ひとつもないこんなところで、風を感じるはずなどない。それなのに、微かに僕を、おもてを裡を、すぎてゆく。やわらかく、或いはくすくす、嗤うように。
運転手の姿も隠された護送バス。側壁に据えられた椅子は野ざらしの公園にあるようなボロっちい木製で、僕の斜むかいに座る僕とともに手錠をかけられはこばれゆく視知らぬ男が、のびた前髪のすきまより眼鏡を熙らせ。
「どこまで」
喉の爛れた、ひりつく声で、在り来りなことを訊く。どこだか知らない訊くなとおもいつつ黙っていると、男の髪が靡く。風のせいじゃなく、たちあがり、僕にちかづいているから。かけられた両の手錠を、僕のうしろへと、まるで恋人へおくるネックレスでも留めるみたいにまわしたかとおもうと、顔をおしつける。男の剃らぬ髭はきっと網とおなじ鉄でできていて、僕のよわい肌は赤らみ果てには切れ、うっすら血が流れだし。かさなる潰れるたがいの脣や舌に血は垂れ、鉛の風味をつける。手錠は男にとって安価なアクセサリーに過ぎないか、脹脛と勘違いするほど隆起した褐色の腕で鎖をあっさりちぎり、鼠色のボロ着など藁半紙みたいにやぶりとり。そろって、宗教画ともポルノ映画とも、清廉とも罪悪ともつかぬ裸體となる。男の髭が鉄なら、指はヤスリ、ペニスは黄銅の鍵。魂の蝋燭がかろうじてちいさく灯るだけだろう果敢ない僕のなかからいったい何をさぐりだしたいか、あらあらしく、且つ慎重に、うごき。バスの揺れと男がおこす揺れに、どこかふかい底へふりおとされてしまう氣がして、男の背に首に、しがみつく。さも愛するかのように。風が吹く。そんなはずないのに。ふたりのあれ狂う呼吸とは質を異にする風が、肉と肉のわずかなすきまを、ぬける。つめたく。
意識を一瞬、うしなう。オルガスムス? ちがう。蛍光灯が、消えて。鉄網、溶炉に融けたふうに歪んだ網のすきまからの光を宿した窓硝子と蛍光灯それぞれの破片が、まざりあい、宙にミニチュアの天体をうみだし、とどまり。男は僕のなかから鍵をぬいたどころでなく、後ろにとばされポールで頭をうったか、血を流麗な刺青として、清廉で罪ぶかき肉體に飾る。尻も、右のうわ履きだけはいた脚も、はずれた眼鏡も、床より浮いたまま。僕はといえば果して軽傷なのか、どこをどうしていためているかいないのか不明のまま、やぶられた鼠色の布をひろい腰や肩に巻きつけ、ひしゃげたドアをこじあけ、外へ。
………ほんとうに、外なのだろうか。風のけはいは、バスにいたときと変りなしに、おもてに裡に火照りののこる僕の體を、ひやす。ひやかしながら。
バスはやはり、壁にぶちあたり大破していた。壁、というのは、堤防でもなければ刑務所のそれでもなく……やけに白光りして、どこがてっぺんなのか、ぼやけて視えない。背後に翳を感じてふりかえると、青のモルフォ蝶、僕の丈よりおおきなそれが、翅をのびやかにひろげ……しかし、宙にありながらうごかず、磔にされており。僕から視る面は総て翳となっているのに、そのフォゲットミーノットからターコイズブルーへとながれゆくグラデーション、ちりばめられた光の粒は、男の血の刺青よりも硝子の破片の天体よりも、眩い。
「時をとめてないのね」
限りなく息にちかいささやきが声が、耳というよりも髄に聴こえる。うごかぬモルフォ蝶のしたをくぐり、緑や朱や黄に染まるやわらかな草地をゆくと、ピラミッドほど豪壮な、しかし崩れおちる寸前で留まる積木と、ヒトの等身大ほどのクイーンやキングやジョーカーの描かれたカードと、アクアリウムほどの、水が満たされながら泡のひと粒もやはりうごかぬ器があり。そして……女が、大仏ほどおおきな、蛆虫みたいなレース模様のはしるミントグリーンのベビードールをきた女が、煙草をふかしつつ、僕を視おろす。誰へと媚びるスケジュールかブロンド髪を引力に悩ましくさからわせ重厚な付け睫を垂らし血より濃い紅をひき。やわらかな草地……ではなく絨毯らしきところに伏しならべた膝はややくすんでいて、きっとさほど若くはない。器に満たされている水もたぶん、酒。やすい演劇の神様役のような、遺った釦でどうにか留めたワンショルダーの腰布をつけ、ふたつの錠、じぶんの手のものと、如何なる手品か鎖がもとどおりなうえ左右の輪っかまで御丁寧に留められた男のを、呪縛か鎮魂か或いは祝福か首に垂らす僕を、かわいた眼をかったるげにこらし、視て。
「あんた、時をとめてないのね」
貴女が、時をとめた?
「ちがうわよ、知らないわ」
貴女が、風を吹かしている?
「それも知らない。在り来りなこと、訊くのやめて。犯罪者のくせに。すくなくとも、風って、きらい」
それでも、ちかいのかとおいのか不明瞭な女と僕とのあいだに、風はある。つきまといながら、知らん顔で。
僕は犯罪者ですか? と聞こうとして、やめ。女は顎と、ベビードールから透けた乳房をのけ反らせ、かたちのよい鼻孔から、白いけむりを溢れださせる。煙草のさきから漏れるけむりと、いつからか燃えだしたバスから噴きだす火葬めいたけむりとが、いたずらな風のせいでからまりあったり、離れたり。生産性のないセックスみたいに、もしくは、雲を創造しているみたいに。
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参加させて戴きました。
