嘘も方便? 世界に広まった「禅」のかたち
先日、大徳寺にある、とあるお寺のご住職とお話しをする機会があり、仏教についていくつか質問させていただきました。
私はアート、そして東洋哲学をきっかけに仏教に興味を持ったため、仏教と東洋哲学のつながりについてお尋ねしました。
しかし、ご住職は東洋哲学についてはあまり語りたくないご様子でした。
なぜなら仏教から見ると東洋哲学は全くの別物だというお考えのようだったからです。
いわゆる「東洋哲学」という分野において、近代に日本の禅を欧米に紹介した代表的人物に鈴木大拙(すずき だいせつ)がいます。
鈴木大拙は、仏教における「無」のコンセプトを emptiness(エンプティネス) と訳して紹介しました。
しかし、この訳語は、仏教本来の意味からは、やや離れているのかもしれません。
なぜなら、英語の empty / emptiness は、あくまで物質的に「何もない状態」を指すことが多いからです。
一方、仏教でいう「無」は「空(くう)」とほぼ同義です。
この「空」という考え方は、「ある」か「ない」かという二元的な答えを明確にすることを前提としていません。
むしろ、その両方を超えて、あらゆる現象が相互に依存し合う関係性そのものを指しており、単なる物理的な「空っぽ」とは異なるのです。
では、なぜ鈴木大拙は、仏教の「無」のコンセプトを emptiness という、物質的に「何もない状態」を意味する名詞で訳したのでしょうか?
私が考えるに、その主な理由は、鈴木大拙が仏教を哲学のフィールドで紹介しようとしたからだと思います。
もし「空」の価値観をそのまま翻訳して説明したとしても、西洋哲学の文脈の中に自然に組み込むのは容易ではなかったでしょう。
そのため、多少意味を単純化し、場合によっては意図的に本来のニュアンスから外れることがあっても、哲学的に受け入れやすい言葉として emptiness を選んだのだと考えられます。
あくまで仏教を「東洋の哲学」として導入するための戦略的な選択だったわけですね。実際、鈴木大拙はコロンビア大学で客員教授として教壇に立ち、その講義は大変な人気を博しました。
これがきっかけとなり、彼の思想は西洋において禅思想を広く伝える大きな契機となったのです。
話を大徳寺の住職に戻しますが、彼は鈴木大拙のことを「仏教、特に禅の思想を、ある種間違った形で海外に紹介した人物である。しかし同時に、彼のおかげで禅は世界中で広く知られるようになった訳なので、私どもは大変感謝している。」と仰っていました。
まさに、嘘も方便というわけです。
