【第19話】太平洋への門、パナマ運河
子犬の飲み込んだ針は無事に外れたようだが、相変わらず漁の方は振るわない。
ハリファックスから」ボストン沖まで漁場を変えつつ30回の商売をこなしたが、魚槽が満たされる気配はなかった。
「よし、パナマへ向かうぞ
船頭の決断により、私たちはついに大西洋を離れ、太平洋への門を叩くことになった。
「安部さん、パナマ運河ってどんな所なんですか?」
「俺も聞いた話だがな、巨大な水の階段だよ。船を大きな箱(閘門)に入れて、水を出し入れして山を越えさせるんだ。俺たちの船なんて、巨大な貨物船の隅っこに『隙間』として押し込まれるだけさ」
横で聞いていた機関長が、実務的な話を差し込んできた。
「それよりもセコンド、気をつけなきゃいかんのはエンジンの冷却水だ。配管にこびりついた貝が湖の真水で死んで、一気に剥がれ落ちて詰まることがある。エンジンを焼き付かせんよう、当直中は温度計から目を離すなよ」
さらに、機関長は私に「特命」を言い渡した。
「パナマに入ったらダイバーを呼んで船底を掃除させるが、セコンド。お前は潜ってプロペラの根元のネジが全部揃っているか、自分の目で確かめてこい」
「……私が、ですか? 船の底まで?」
「お前が一番若いんだからな。4〜5メートルも潜りゃ着くさ」
「つべこべ言わずに『はい』って言え」と安部さんの追い打ち。
抵抗は無意味だった。
パナマの港。岸壁が狭いため、本船は沖にアンカーを下ろした。
上陸許可が出ると、デッキの連中はサンパン(連絡船)に飛び乗り、早々に街へと消えていった。
私はといえば、恐怖と闘いながら船外梯子を降りていた。
「セコンド、無理はするな。船底に肌を触れさせるなよ、吸い付いて離れられなくなるって話だ」
機関長の物騒なアドバイスを背に、私は泥濁りの海へ飛び込んだ。
視界はわずか50センチ。暗い水中で方向を失いかけながら、大きく息を吸って潜る。
闇の向こうから、巨大なプロペラの影が姿を現した。傍らでは現地のダイバーが、軸に絡まったロープを切り落としている。
私は必死に目的のネジを確認し、肺がはち切れる寸前で水面へと這い上がった。
機関長に報告すると、「よし、よくやった! 今日の当直は免除だ」
安部さんが「なんだ、そんな役得があるなら俺が潜ればよかったぜ」とニヤリと笑った。
翌日の午後。いよいよ運河進入の時が来た。
巨大な貨物船のすぐ後ろに収まり、鉄の扉が閉ざされる。
「ワイヤー固定よし!」
日本の三菱重工製だという牽引機関車が、本船をがっちりと両サイドから支える。
凄まじい勢いで水が注入され始めた。3階建てビルほどの高さまで、わずか30分で押し上げられる。凄まじい水圧、渦巻く飛沫。
これを何度も繰り返し、私たちは文字通り「山を登って」いった。
最後の閘門に差し掛かった時、辺りはすっかり暗くなっていた。
「セコンド、外を見てください! 街が、あんな下に……」
同室の中島君に呼ばれ、私はデッキの最後尾に立った。
そこには、信じられない光景が広がっていた。
漆黒の闇の中、今しがた登ってきたはずのパナマの街の灯りが、遥か眼下、ミニチュアのように小さく瞬いている。
私たちは今、水の上に浮かんだまま、空の中にいた。
「……こんな景色、二度と見ることはないだろうな」
「多分な」
中島君と二人、言葉を失ってその光を見つめた。
夜明け前、最後のパイロット(水先案内人)を乗せ、船は太平洋側の出口、バルボアへと滑り出した。
この門を抜ければ、そこはもう太平洋。
見慣れた星座、聞き慣れた潮の音。
その先には、私たちが一年以上も焦がれ続けた、日本という島国が待っている。
