2025年の『ばんだいのつどい』に参加・福島県精神保健福祉団体連絡会つばさ会主催
福島県の精神保健福祉「ばんだいのつどい」に寄せて —— 一つの随想
ばんだいのつどいは、毎年秋に開催されます。
2025年は、磐梯町ではなく、郡山市の熱海町にある、ホテルの華の湯で開催されました。
以下は今回のことではありませんが、記しました。
山に抱かれる心
磐梯山の稜線が朝靄のなかに姿をあらわすとき、私はその風景をただ「美しい」と形容するのをためらう。山は、ただの背景ではなく、人の心に語りかけてくる存在だからだ。ここ、福島の地で営まれてきた「ばんだいのつどい」は、その山に抱かれるようにして続いてきた。精神保健福祉という一見かたくるしい言葉を冠しながら、その実態は、人と人とが交わり、弱さや苦しみも含めて自らを表現するための場である。私はこの集いに参加した日のことを思い出し、今もなお胸に響く余韻を文章に残しておきたいと思う。
出会いの空間
会場に到着したとき、すでにあたりはにぎわいを見せていた。国立磐梯青少年交流の家。その広いホールに並べられた椅子、壁際に貼られたポスター、机の上に置かれた手作りの冊子。すべてが「手づくり」であり、「誰かの思い」が染み込んでいることを直感させる。
開会式の冒頭、司会者はこう語った。「ここは、誰もが安心して自分でいられる場所です。完璧である必要はありません。弱さを持ち寄り、支え合う場であることを大切にしてきました。」
その言葉は私の心を強く打った。精神の不調や障害を抱える人、家族として寄り添う人、支援者として学ぶ人、すべてが一堂に会するこの場において、「役割」や「肩書き」は一時的に薄れ、ただ「人」として向き合うことが許されるのだ。
語りのちから
プログラムの中心には「体験発表」があった。一人の女性が壇上に立ち、震える声で語り始める。「私は長いあいだ、病気を恥じて生きてきました。誰にも知られてはいけないと、心を閉ざしてきました。」
彼女は、幻聴に苦しみ、社会から孤立した日々を話した。しかし物語はそこだけで終わらなかった。家族の支え、仲間との出会い、そして自助グループの存在が彼女を支えてきたことが語られる。会場にいる人々は、深くうなずき、時には涙をぬぐいながら耳を傾けた。そこには「聴く」という営みの神聖さがあった。
語りはただの自己開示ではない。それは、他者の共感を引き寄せ、同じ苦しみを抱える人に「ひとりではない」という灯をともす行為だ。私はその瞬間、言葉が人を救うという事実を目の当たりにした。
文化としての癒し
午後のプログラムは少し趣を変え、コンサートや創作発表が行われた。ギターの弦がはじかれると、空気がやわらぎ、歌声が会場を包み込む。障害を持つ人々が書いた詩が朗読され、絵画や手芸作品が展示される。そこには「療養」や「治療」といった枠を超えた、人間としての表現の輝きがあった。
ある青年の詩が印象的だった。「ぼくの心は波立つ湖/ときに荒れるけれど/風がおさまれば/きらめきを映す」。その言葉は、まさに眼前に広がる猪苗代湖の風景と重なり合い、自然と人間の心が響き合う瞬間を感じさせた。
家族の声
つどいの中では、当事者だけでなく「家族の声」も大切にされていた。ある母親は壇上で、息子との歩みを語った。発症の戸惑い、周囲の偏見、そして支援に出会うまでの孤独。その語りは、会場に重い沈黙をもたらした。しかし彼女は最後にこう結んだ。「私たち家族もまた、支えられて生きているのです。息子が病とともに生きる姿から、私自身も強さを学んでいます。」
精神障害は「個人の問題」ではなく、「社会全体の課題」であることを、家族の声は鮮烈に示していた。家族会の存在が、このつどいを長年支えてきた理由がそこにあると理解できた。
支援者の学び
医療者や福祉職の参加者も多くいた。ある若いソーシャルワーカーは、「支援者として来たつもりが、ここでは学ぶばかりです」と感想を述べていた。専門知識や制度の理解はもちろん必要だが、人の生に触れることで得られる「共感」と「理解」は、それ以上に重要である。ばんだいのつどいは、支援者にとっても「原点を思い出す場所」になっているのだろう。
夜の語らい
夕刻を過ぎ、公式のプログラムが終わっても、人々は帰ろうとしなかった。宿泊を兼ねた参加者は、夜の懇親会に集まり、食事を囲んで語り合う。アルコールはなく、ただ温かいお茶と郷土料理が並ぶ。そこでは、笑い声と涙が入り混じり、初対面の人同士が肩をたたき合っていた。
「また来年も会おうね。」
「大変なときは電話していいから。」
そんな言葉のやり取りが、自然と生まれていた。それは「交流」というより「つながり」の芽生えだった。
自然と心の共鳴
翌朝、私は会場近くの湖畔を散歩した。猪苗代湖の水面は、静かに朝日を反射していた。ふと、前日の青年の詩を思い出した。「波立つ湖」と「人の心」。自然のうつろいと人の心の揺らぎは、たしかに似ている。荒れることもあるが、やがておさまり、再び光を映すことができる。そのことを大地と水が語りかけてくるようだった。
精神保健福祉の営みとは、まさに「湖の波を見守ること」ではないだろうか。無理に波を静めようとせず、ただそこにあることを認め、ともに時を過ごす。その姿勢こそが、人に寄り添うということなのだ。
記憶に残るもの
つどいから時間が経っても、私の記憶には鮮やかに残る光景がある。それは、ある参加者が最後に放った一言だった。「ここに来ると、自分を責めなくていいんだ。」
その言葉に、私は深い真実を感じた。精神の不調を抱える人々は、多くの場合「自己責任」として扱われ、社会の中で自分を責め続けてしまう。しかし、ばんだいのつどいは、その連鎖を断ち切る小さな希望の場であるのだ。
未来への願い
「ばんだいのつどい」がこれからも続いていくことを、私は心から願う。それは一度限りの行事ではなく、参加者一人ひとりの心に根を下ろす「文化」であり「伝統」だからだ。山に抱かれ、湖に映される心の営みは、地域の歴史とともに歩みを刻んでいくだろう。
精神保健福祉は、病気や障害の枠を越え、人間の尊厳とつながりを問い直す営みである。その営みが「ばんだいのつどい」という形で受け継がれていることに、私は深い感謝を覚える。そして、このエッセイを締めくくるにあたり、こう記しておきたい。
「ばんだいのつどい」とは、弱さを語り、共に涙し、そしてまた歩き出すための灯である——と。
🍁お読みいただきありがとうございます。
ところで最近。
🧸実際に撮影したヒグマ画像をAIに読み込ませて画像生成し、こちらで加工してラインスタンプを作りました。
⚡まさか作成20時間もかかるとは。
よろしければどうぞ。
⇩
※今回の随想は、フィクションが一部含まれています。
いいなと思ったら応援しよう!
🔀発達障害で苦労しながらも、毎日寝不足になるほど努力しながら、何とか努力しています。
もし気に入っていただけましたら、応援よろしくお願いします。