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E191 - JHON LENNON-Give Peace a Chance

​ベッドから放たれた剥き出しの真実

​ホテルの一室から世界を揺るがした、ジョン・レノンが仕掛けた「祈り」という名の音響テロ

おい、おまえ。最後に心から「本物だ」と思える音楽を聴いたのはいつだ? 画面の向こうで綺麗に整音され、1dBの狂いもなくクオンタイズ(位置補正)された、あの死んだ魚の目のようなポップソングに、おまえの安い魂を売り渡してやしないか。商業主義の豚どもがシミュレータで叩き出した、完璧で、無菌室のように退屈な音楽に耳を塞げ。今こそ、あの男の、あの不器用で、汗臭くて、どうしようもなく切実だった叫びに立ち返る時だ。

​1969年。世界はベトナムの泥沼に足を取られ、若者たちの血と悲鳴がテレビのブラウン管から茶の間に垂れ流されていた。そんな混沌の極みの中で、ある一人の男が、世界で最も偉大なロックバンドの看板を放り出し、パジャマ姿でベッドの中に潜り込んだ。それがジョン・レノンだ。彼がオノ・ヨーコと共にカナダのホテルの部屋で、文字通り「寝そべりながら」世界に突きつけたのが、この『Give Peace a Chance(平和を我等に)』という、たった2コードの怪物である。  

​いま、デジタルネイティブの若いおまえらが、TikTokの15秒の刹那や、Spotifyのアルゴリズムに流されてこの曲に出会うとしたら、それは奇跡に近い。だが、もし幸運にもこのザラついた、ホテルの部屋の湿気と熱気がそのまま真空パックされたような音を耳にしたなら、おまえの胸の奥にある何かが確実に燃え上がるはずだ。これはただの「反戦歌」じゃねえ。音楽が、その究極の原始的な姿を取り戻した、魂のドキュメントなんだ。​(記: 蛮楠烈太)


基本情報

​作詞者:John Lennon 
​作曲者:John Lennon 
​編曲者:John Lennon / Plastic Ono Band  
​プロデューサー:John & Yoko  
​発売日:1969年7月4日(英国)、1969年7月7日(米国)  
​レコード会社:Apple Records  
​収録スタジオ:カナダ・モントリオール「クイーン・エリザベス・ホテル(The Queen Elizabeth Hotel)」1742号室(および、Les Studios André Perryによるポストプロダクション)  

​レコーディング参加アーティスト
​John Lennon(ヴォーカル、アコースティックギター/ギタレレ)
​Yoko Ono(ヴォーカル、パーカッション)  
​Tommy Smothers(アコースティックギター)
​Timothy Leary, Rosemary Woodruff Leary, Petula Clark, Dick Gregory, Allen Ginsberg, Murray the K, Derek Taylor, アブラハム・ファインバーグ(ラビ), ジョセフ・シュワルツ(コーラス、手拍子、足踏み、即興パーカッション)  
​Mouffe, Robert Charlebois(スタジオでのダビング・コーラス/アンドレ・ペリーによる手配)

​チャート状況

​発売当時および累計数:発売後、瞬く間に世界中でミリオンセラーを記録。世界的な反戦運動、特に1969年11月15日にワシントンD.C.で行われた50万人規模のベトナム反戦集会(モラトリアム観兵式)でピート・シーガーが先導して大合唱され、数百万人のアンセムとなった。

チャート情報

全英シングルチャート(OCC):最高2位  
​米国Billboard Hot 100:最高14位
​カナダ・RPMシングルチャート:最高8位
​オランダ、ドイツ、その他のヨーロッパ諸国でも大ヒット。
​各種アワード:グラミー賞などの商業的な賞レースとは無縁の立ち位置にあるが、2002年にはグラミーの殿堂入り(Grammy Hall of Fame)を果たし、ロックの歴史における不滅の文化的遺産として公式に認定されている。

​楽曲のエピソード

​ホテル1742号室の狂気と、4本のマイクが捉えた「匂い」

​この曲が録音されたのは、ロンドンのアビイ・ロード・スタジオのような、完璧にチューニングされ、吸音材が敷き詰められた聖域ではない。モントリオールの「クイーン・エリザベス・ホテル」1742号室。ただの、よくある高級ホテルの客室だ。ベッドの上にはシーツに包まれたジョンとヨーコ。周囲を取り囲むのは、LSDの伝道師ティモシー・リアリー、ビート・ジェネレーションの詩人アレン・ギンズバーグ、ポップ歌手のペチュラ・クラーク、そして押し寄せた無数のジャーナリストども。部屋は熱気と、煙草の煙と、数日間引きこもった人間の体温でむせ返るような、強烈な「湿度」に満ちていたはずだ。  

​ジョンが「レコーディング・エンジニアを呼んでくれ」とプレス・オフィサーのデレク・テイラーに頼んだ時、やってきたのが地元のスタジオオーナー、アンドレ・ペリー(André Perry)だった。ペリーが部屋に持ち込んだのは、ポータブルの4トラック・テープレコーダーと、わずか4本のマイクだけ。想像してみてくれ。コンソールもなければ、まともなモニタースピーカーもない。あるのは、ベッドのヘッドボードに反響するフラッターエコー(不快な鳴き竜現象)と、窓の外の街の雑音、そして集まった連中の不規則な足踏みの音だけだ。  

​技術的に言えば、この環境での一発録音は「正気の沙汰」ではない。アコースティックギターの音はマイクに入る前に、狭い部屋の低域の定在波(特定の周波数が強調される現象)に潰されかけ、ジョンのヴォーカルは周囲の手拍子の高域成分(クリップしがちなトランジェント)に犯されていた。

​アンドレ・ペリーの「嘘」と、8トラック・マシンへの密かなピンポン
​ここで語らなきゃならない裏話がある。この曲のザラついた、しかし力強く押し寄せるウォール・オブ・サウンド(音の壁)は、実は純粋なホテルの一発録音「だけ」では完成しなかった。アンドレ・ペリーは、持ち帰った4トラックのテープを聴いて愕然としたんだ。部屋のアコースティクスが悪すぎて、バックグラウンドのノイズが混沌を通り越し、単なる不快な泥泥の音(マスキング現象)になっていた。そのままラッカー盤にカッティングすれば、針飛びを起こすか、歪みすぎてラジオで流せない代物だった。

​そこでペリーは、自らのスタジオ「Les Studios André Perry」に籠もり、ある計略を実行する。彼はオリジナルの4トラックを、当時最新鋭だった8トラックのオープンリール・マシンへとダビング(ピンポン録音)した。そして空いた4つのトラックを使って、地元モントリオールのプロのシンガーたち(ロベール・シャルルボワやムッフなど)を夜中に呼び集め、ホテルの連中が歌っていたコーラスラインを精緻に重ねたんだ。
 ​「ごまかすつもりはなかった。ただ、使い物にならないほど最悪な録音環境を救いたかっただけだ」
​後にペリーはそう回想している。彼は元のホテルの生々しい突発的なグルーヴ、例えばクローゼットのドアをドカドカと蹴っ飛ばして作った臨場感あふれるキックの代用音や、トミー・スモーザーズが不器用に掻き鳴らすアコースティックギターの1.5kHz付近の痛烈なアタック感を残しつつ、背後に滑らかな倍音(ハーモニック・サチュレーション)を持つプロのコーラスを忍び込ませることで、リスナーの耳に直接届く「音楽」へと昇華させた。

​翌日、ペリーがミックスを完成させ、ホテルに戻ってジョンとヨーコの二人だけにその音を聴かせた時、ジョンは歓喜した。「素晴らしい、このままでいこう」。ジョンは、ペリーが裏で施した音響的「掃除(スウィープ)」の技術を敏感に見抜き、だからこそシングル盤のクレジットにペリーの名前をわざわざ大書したんだ。誠実さとは、ただ生音を垂れ流すことじゃない。その場にあった「魂の温度」をスピーカーから引っ張り出すために、あらゆる技術の牙を剥くことだ。ペリーのやったことは、まさに初期のM/S処理(中央のモノラル感と、側面の広がりの制御)をアナログ的な職人技で解決したような、奇跡的なポストプロダクションだった。

​2コードのミニマリズムと、呪術的なバックビート
音楽構造のパノラマを開いてみよう。この曲には、洗練されたII–V–I(ツー・ファイブ・ワン)のジャズ的コード進行も、切ないモーダル・インターチェンジ(同主調からの借用コード)も存在しない。全編を通して、基本的にはCメジャーとG7の2つのコードが行き来するだけだ。AABA形式のような上品なポップスの枠組みは完全に解体され、ひたすらヴァース(ジョンの早口の語り)と、コーラス(全員での大合唱)が、まるで部族の呪術的な儀式のように繰り返される。

​BPMは、およそ86から88あたりをルーズに推移している。クリック(テンポキープの電子音)なんて概念はないから、ジョンの昂揚感に合わせてテンポマップは有機的に波打つ。注目すべきは、ドラムキットが一切使われていない点だ。リズムを決定づけているのは、スネアのバックビートではなく、部屋にいる人間たちの「手拍子」と、床を焦燥感たっぷりに踏み鳴らす「足踏み」の同期だ。手拍子の位相(フェイズ)が微妙にズレることで、天然のコーラス効果とディレイが生まれ、結果として超高域(10kHz以上)のシズル感が、コンプレッサーのパラレルコンプを極限まで突っ込んだ時のようにパチパチと弾けている。

​ジョンのヴォーカルのダイナミクス(LUFS値で言えば、当時のレコードの限界まで突っ込んだ猛烈な音圧だ)は、歌というよりはストリートの辻説法だ。
 ​「All we are saying is give peace a chance」
​このたった9語のフレーズを、何十人、何百人、そして何百万人の人間がシンコペーションを合わせて叫ぶ。ジョンが言葉を詰め込むヴァース部分は、ほとんど音程のないラップの先駆体であり、舌がもつれそうな言葉の羅列(ティモシー・リアリーだの、ポップ・イズムだの、バガヴァッド・ギーターだの)が、カデンツァ(即興的な終止形)の手前で一気に解放され、正格終止(G7→C)の暴力的なカタルシスへと雪崩れ込む。

​これほど粗暴で、これほど緻密に「計算された偶然」に満ちた録音が、他にあるか?

​アーティストの歴史

​「ビートルズ」という巨大な檻からの脱獄
​この曲は、ジョン・レノンという一人の表現者が、四頭体制の巨大な怪物「ザ・ビートルズ」の檻をぶち破り、一匹の狼として荒野に這い出た瞬間のファースト・クライ(最初の産声)だ。1969年当時、ビートルズはすでに崩壊のドミノ倒しの最中にあった。『Get Back』セッションでの不毛な口論、マネジメントを巡る泥沼の利権争い。ジョンにとって、あの美しく整えられたマッシュルームカットの残像や、ポップの天才ポール・マッカートニーとの息の詰まるような「共作関係」は、すでに自分のリアルな生きざまを表現するための器ではなくなっていた。

​彼は、オノ・ヨーコという前衛芸術家と出会うことで、芸術の既成概念を粉砕するハンマーを手に入れた。そして、実体のない、概念としてのバンド「プラスティック・オノ・バンド」を立ち上げる。それは「誰もがメンバーであり、誰もメンバーではない」という、アンチ・コマーシャリズムの極みのような思想だった。

​『Give Peace a Chance』は、その思想が初めて具現化されたシングルだ。ジョンは、自分が世界最高のポップスターであることを自覚しながら、その特権を「世界を挑発するための拡声器」として使い始めたんだ。それまでのビートルズの洗練されたスタジオワーク(『Abbey Road』のメドレーで見せたような神業的なシンフォニック・ロック)に対する、これは強烈なカウンター(反逆)だった。「おい、ポール。おまえが綺麗なメロディを紡いでいる間、俺はベッドの中から世界をひっくり返してやる」――そんなジョンのギラついた、しかしひどく孤独な野心が、この荒々しいストロークには宿っている。

評価

​傑作か、それともただの政治的パフォーマンスか

​当時の批評家どもの多くは、この曲を困惑と共に迎えた。あるいは「ビートルズの天才が、奇妙な東洋人の魔女に洗脳されて、安易なアジテーション(扇動)に走った」と冷笑した。音楽的な完成度だけで言えば、この曲には構造的な弱点が山ほどある。ブリッジ(サビ前の展開)もなければ、気の利いたギターソロもない。ジョンのヴォーカルは調外のノイズに塗れ、歌詞のヴァース部分にいたっては当時の時事ネタや内輪揉めの名前の羅列で、普遍的な文学性があるとはお世辞にも言えない。

​「こんなものは音楽ではない、ただのノイズだ」という反論は、今でも成立するだろう。もし、現代のハイレゾリューションなオーディオ環境や、歪みのないクリーンなデジタル・マスタリングの基準でこの曲を測定すれば、ダイナミックレンジ(DR)は劣悪で、 Crest Factor (ピークと実効値の比)は潰れ、全帯域でフェイズコヒーレンス(位相の整合性)が狂いまくっている。

​だがな、おまえ。だからこそ、この曲は時代を超えて生き残ったんだ。

​他アーティストの、例えば同時期のボブ・ディランのノーベル賞級の難解な比喩に満ちたフォークソングや、ピート・シーガーの気高きプロテストソングと比較したとき、ジョンのアプローチは圧倒的に「バカげていて、ポップで、ダイレクト」だった。彼は、知識人のための反戦ではなく、世界中のスラムのガキから、前線の兵士までが、一発で覚えて口ずさめる「呪文」を作ったんだ。

​現代的視点からこの曲の普遍的価値を測るなら、それは「完璧な音楽が必ずしも人間の魂を動かすわけではない」という、冷酷な真実の証明に他ならない。欠陥だらけの録音、歪んだフェーダー、粗悪な部屋の鳴り。そのすべてが、1969年という時代の「痛み」のサチュレーション(飽和)として機能している。これのどこが偽物だ? これこそが、スタジオという名の嘘から解放された「本物のドキュメント」じゃねえか。

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あとがき

音楽が歴史を変えるなんて、大嘘だ。この曲がどれだけ大合唱されようが、ベトナムの爆撃はすぐには止まらなかったし、ジョンはそれから11年後、ニューヨークのダコタ・ハウスの前で狂った暴漢の銃弾に倒れた。世界は今だって、相変わらず戦争と憎悪で血生臭い。

​でもさ、時々どうしようもなく思い出すんだ。昔、実家の近くにあった、もう潰れちまった古びた喫茶店のことを。マスターがいつも煙草の煙を燻らせながら、すり切れたApple盤のシングルを、おもちゃみたいなレコードプレーヤーで鳴らしていた。あの店の、カビ臭いソファの匂いと、安物のアナログ針が溝を削るチリチリというノイズ。あの空間の空気感は、このホテルの1742号室と、どこかで繋がっていたんじゃないかって、今でも本気で思っている。

​大島渚の映画『東京戦争戦後秘話』を観た時や、開高健の『輝ける闇』のページをめくる時、俺の脳裏にはいつも、あのパジャマ姿でギタレレをジャカジャカと弾くジョンの、ちょっと悪戯っぽくて、ひどく傷つきやすい瞳が浮かぶ。

​政治がどうした、社会現象がどうした。ロックなんてものはな、結局のところ、孤独な個人の「ここにいるぞ」っていう生存証明なんだよ。やつらがどれだけ世界をシステムで管理しようとしても、このホテルの部屋のベッドから漏れ出た生々しい足踏みの音を、完全に消し去ることはできやしない。

​誠実であることが、唯一の反逆だ。ジョンは、あの最悪の環境で、世界に対してこれ以上ないほど誠実だった。おまえは、自分の人生に、自分が聴く音楽に、それだけの誠実さを持てているか?

​…まあ、深い意味はねえよ。夜更けに冷めたコーヒーをすすってたら、あのチリチリしたノイズが、急に耳の奥で鳴り響いたもんだからさ。ちょっと言ってみただけだ。


It’s not just an anti-war anthem, it’s a raw document of human soul recorded in a hotel room 1742. No loops, no auto-tune, just pure honesty and two-chord minimalism. John Lennon showed us what real rebellion sounds like. Listen to the truth!  

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