現代音楽がわからない、で止まるのはもったいない
現場に入ったら、クセナキスの『メタスタシス』が流れていたことがあった。年配の大工さんで、少し耳が遠いせいか、凄まじい大音響だった。据えられたラジオから、たまたまNHK-FMの番組が流れていたらしい。
「クセナキス好きなんですか?」と聞いたら、「あ?」という短い返事で終わった。
現代音楽は、案外そういう無欲な場所にも届いている。——などということを考えていたら、ふと中学の音楽の授業のことを思い出した。
鑑賞の時間に聴いた、武満徹の『ノヴェンバー・ステップス』と、小山清茂の『管弦楽のための木挽き歌』である。
特に『木挽き歌』の冒頭の響きは、今も鮮明に記憶に残っている。「面白い、もっと聴きたい」という能動的な感情ではなく、「面白い響きだ」という、もっと静かな驚き。山あいで木を挽く音と風景が、解説される前に頭の中で像を結んだ。音がそのまま景色になった、という体験だった。
大工になった今から振り返ると、少しおかしい。あのとき音楽室で聴いていた「木を挽く音」を、まさか後に自分が毎日現場で立てることになるとは思っていなかった。まあ、丸ノコの音ではあるけれど。
調性という「重力」とその解放
後に音楽大学で学んで、あのときの体験の輪郭が少しずつ言葉になった。
西洋音楽の面白さの本質は、一つの調に留まらず、異なる調へと移動していく「転調」にある。バッハがその礎を築き、古典派、ロマン派、印象派へと時代が下るにつれ、この移動の範囲はより奔放に、より複雑になっていった。ある日突然起きた断絶ではなく、「より自由に、もっと遠くへ」という欲求が長い年月をかけてグラデーションのように色を変え、やがて「無調」という地点に辿り着いたのだ。
これは、一周回って「元に戻った」と考えることもできる。そもそも、音を楽しむという人間の原始的な衝動に、最初から構造も調性もあったわけではない。そこに自ら規則を課し、枠を設け、何世紀もかけてその枠を精緻に積み上げ、最終的にまたその枠を外していく。西洋音楽の歴史とは、つまりそういう壮大な営みなのだ。
指揮者であり作曲家でもあったピエール・ブーレーズは、現代音楽の始まりをドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』に求めた。それまでの音楽が「次にどう進むか」という和声の機能に従っていたのに対し、ドビュッシーは音を「色彩(テクスチャ)」や「性格」として扱った。理屈を離れても、あの独特の空気感を直感的に「美しい」と感じる感性——それは現代音楽を聴くための、案外大きな入口になるのだと思う。
バッハから続く「構築」の意志
西洋音楽のもう一つの特徴は、「構築」にある。
バッハの『インベンション』が象徴するように、たった一つの短い旋律(動機)を材料にして、見事な構造体を組み上げる手法は西洋音楽のDNAである。そもそも「バロック」という言葉自体、建築様式から転用された名称だ。少ない材料で大きな構造を作るという発想は、音楽と建築のあいだで、もともと地続きだったのかもしれない。
シェーンベルクの「十二音技法」も、この延長線上にある。歌えるメロディの代わりに「音列」という抽象的な設計図を用い、厳格なルールで音楽を設計していく。それは自由を求めた結果としての、極限の秩序だ。当然、歌える「音列」だってある。音楽の創意はどこまでも自由なのだ。
「無調」でしか描けないもの
二十世紀、二つの大戦を経て、既存の秩序への信頼は大きく揺らいだ。その時代の空気と、ルールを解体する無調音楽は相性が良かった。
無調音楽でしか表現できない感情が、確実に存在する。解決を約束する調性音楽では描き切れない、出口のない不安や、剥き出しの衝動、言葉にならない深い悲しみ。『木挽き歌』の冒頭で私が受け取ったのも、説明される前の、そういう「名前のつかない何か」だったのかもしれない。
現代音楽は難解だ、という声をよく聞く。確かにそうかもしれない。しかし「わからない」と感じることは、扉の前に立っている証拠でもある。好きか嫌いか、それだけでいい。理屈は後からついてくる。
この世界は、あまりにも面白い響きに満ちている。もっと多くの人に聴いてほしいものである。
さて、現場に戻ります。
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