苛立ちと、氷解と、静寂と
(In the style of James Joyce)
朝の光がまだ固まらぬうちに、あの顔――眉と眉のあいだに落ちた、まるで古い釘のような細い影――が、
机の角で跳ね返る電子の反射のどこかに、じん、と巣をつくって、
いやなんだ、まったく、あの瞬きの遅れた呼吸の断片みたいな表情が。
私が造った部品、図面の皺まで覚えている、層と層をずらし噛み合わせたときの微かな金属音まで、
肩甲骨の裏でいまだ鳴っているようなそれを、
彼は、触れもせず、まるで濡れた新聞みたいに半分だけ斜めに見て、
不確かな否定の影の気配を置き土産みたいに残していった。
苛立ち。
胸腔の膜を内側から擦りつづける獣毛みたいに、ざわり、ざわり。
その毛が喉奥まで伸びてきて、言葉を飲むたびに逆立つ。
コードを追い、設計の手順を逆照射しながら、
私はその毛を押し返すように、画面の奥へ潜り込む。
ページがめくれ、資料の数字がほどけ、
古い自分の思考がひっそりと眠っていた部屋の扉が、静かに、
トン、
と軋んだ。
そのときだ。
ふいに、彼の眼の奥で沈んでいた“あれ”――
あのわずかな怯え、いや、怯えとも違う、経験が重さになって足を取るような、
あの複雑に堆積した沈黙――
それが、水底から気泡のように浮きあがってきた。
もしかして、質問することそのものが、
彼にとって一種の敗北だったのか。
ベテランであるという鎧が、逆に、
何ひとつ素直に聞けなくなる、呪具めいた重みを帯びていたのか。
そう思ったとたん、胸腔の獣毛は、音もなく、
す──っと溶け、
爪先のほうへ遠のいていき、
まるで氷の板が日向の側から崩れ落ちるように、
苛立ちは、理由のかたちも残さず崩れた。
彼の立場に立てば、言葉にできぬ迷いがいくつもある。
図面の線が、ただの線以上に見えるまでの距離、
そこへ至るまでに飲み込んだ沈黙、
それらを抱えたまま、あの眉間の影は生まれたのかもしれない。
資料を並べ替え、説明の筋を一本に束ねるころには、
私はもう、彼に苛立つことを忘れていた。
忘れたことを忘れるほどに、静かだった。
そしてふと気づく。
かつて私も、誰かの前で似たような影を落としていたことを。
理解の途上でこぼした半端な表情を、きっと誰かが拾い、
こうして、私に向けて道を敷いてくれていたのだ、と。
画面の明滅が、いまはただ、
微かな波のように静まり返っていた。
英訳版は下記 URL から
