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【エッセイ:第30回】🌿 命のたすきを受け取って

人はいつか必ず人生に幕を閉じる――
頭では分かっていても、本当の意味で理解するのは難しいものです。

けれど、家族や親戚の葬儀に参列したとき、
私たちは否応なく「自分の終わり」を意識します。


私が五十を過ぎてから参列した、義父の葬儀。
その場で私は、やがて確実に訪れる自分の最期を思わずにはいられませんでした。

納棺の儀でのおくりびとの丁寧な所作。
頭や足を優しく洗い清めるその手つきは、
まるで今も命が宿っているかのように、深い敬意と愛情に満ちていました。

人の命は、なんと尊いのだろう
胸の奥が静かに震えました。


家族葬が始まり、
家族思いだった義父のエピソードが読み上げられるたびに、涙がこぼれます。

ほんの少し前まで確かに生きていた人が、もうここにいない。
その戸惑い、違和感、受け入れきれない心。

死に向き合うとき、人は誰もが「終わり」を意識するのだと思いました。


私は気づきました。

葬儀とは、単なる別れの儀式ではなく、
どう生きるのか」を静かに問いかける場なのだと。

遺影を見つめながら、自問しました。

私はこれまで、どれほど真剣に“生”と向き合ってきただろうか。
忙しさに追われ、ただ日々をこなしていただけではなかったか――。


義父の死を前にして、
「死」は遠い未来の話ではなく、
必ず自分にも訪れる現実なのだと、初めて腑に落ちました。

そこには確かに恐れがありました。
けれどそれ以上に、

限りある命を、どう生きるのか

その問いが、私の中で大きく膨らんでいったのです。


「命のバトン」という言葉があります。

けれど私は、どこか違和感を覚えます。
バトンは短距離を全力で走り、ときに落としてしまうもの。

人生は、そんな一瞬の競走ではない。

むしろ私は、「命のたすき」という言葉の方がふさわしいと感じています。

たすきは、駅伝のように、長い距離を仲間と支え合いながらつないでいくもの。
落とさず、確かに受け継がれていくことを前提としている。

人生は短距離走ではなく、マラソン
息を切らしながらも、自分の歩幅で進み、
やがてその歩みを誰かに託していく――。

その方が、命の本質に近い気がするのです。


中学一年生の息子も、
小学五年生の娘も、静かに遺影を見つめていました。

言葉はなくても、
それぞれの心で「死」と「生きる意味」に触れていたのかもしれません。

その姿を見たとき、
命のたすきは、確かに静かに次の世代へと渡されていくのだと実感しました。


ふとした瞬間、
義父が「後は頼んだよ」と語りかけてくる気が何度もしました。

その声なき声は、
私のこれからの生き方を静かに問い続けています。


人は死によってすべてが終わるのではない。
その生き方は、残された人の心の中で生き続ける。

義父の死は教えてくれました。

死を見つめることは、生を見つめることなのだ」と。

今、私は
自分に残された時間の重みを、
以前よりも少しだけ真剣に受け止めています。 🌅

📖 次週の予告

(毎週水曜日更新です。ご期待ください!)

第5章 記憶の中の風景
― 過去と現在が交差する瞬間
【第31回】記憶の住処(すみか)

エッセイ全体の目次はこちらです。

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