乱暴で雑なルールが実は合理的である理由―計算コスト・運用コスト・更新コストから考える社会設計―
はじめに
次のような助言を聞いたことはないだろうか。
* 「レターパックで現金送れ」は全部詐欺だと思え。
* 現代文は本文を読まずにディスコースマーカーだけ見ろ。
どちらも乱暴なルールである。
例外は当然ある。
それでも、多くの場面では驚くほど有効に機能する。
なぜだろうか。
本稿では、その理由を三種類のコストという観点から考えてみたい。
仮説は単純である。
人間や社会は、真理をそのまま扱っているのではなく、有限な資源の中で十分に良い判断を行うためのプロトコルを発明してきた。
そして制度とは、そのプロトコルの集積ではないだろうか。
先に断っておくと、この発想の骨格――限られた資源の中で「最適解」ではなく「十分良い解」を目指すという考え方――は、経済学者ハーバート・サイモンが「限定合理性」「満足化」として、また心理学者ゲルト・ギーゲレンツァーが「速く節約的なヒューリスティック」として、すでに詳しく論じている。本稿はそれを否定するものではなく、その上に立って、個人の判断だけでなく制度そのものの生成と劣化のサイクルまで射程を広げようとする試みである。
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三種類のコスト
議論を進める前に、三つのコストを区別しておきたい。この三つを混同すると、話が曖昧になる。
**計算コスト**。毎回ゼロから最適解を導出するためのコスト。相手の人格を調べ、商品の品質を検証し、文章を精読し、制度の妥当性を検証する――これを毎回行うコストである。
**運用コスト**。すでにあるプロトコルを、実際の場面で使うためのコスト。ルールを覚え、適用し、判断を下すコスト。プロトコルの存在意義は、計算コストを運用コストに置き換えることにある。
**更新コスト**。プロトコルが攻略された(ハックされた)とき、それを検知し、修正し、社会全体に再度普及させるためのコスト。この更新コストが、実は最も見落とされやすい。
制度の設計とは、究極的にはこの三つのコストの配分問題である。計算コストを丸ごと運用コストに付け替えれば当座は楽になるが、更新コストを支払う仕組みを用意していなければ、プロトコルは陳腐化したまま放置される。
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人間は毎回最適解を計算できない
理想を言えば、
私たちは毎回、
相手の人格を調べ、
商品の品質を確認し、
文章全体を精読し、
制度の妥当性を検証してから判断したい。
つまり、毎回フルの計算コストを支払いたい。
しかし現実には、
時間も、
注意力も、
情報も、
認知能力も有限である。
社会は、この制約の中で運営されている。
だから目指されるのは、
常に最も正しい判断ではなく、
十分に良い判断を、十分に低い運用コストで繰り返せることなのである。
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プロトコルは計算コストを運用コストに変換する
そこで社会は、
判断を簡略化するためのプロトコルを発達させる。
礼儀は、
相手の人格を毎回証明するものではない。
「少なくとも現時点では敵対する意思はありません」
という合図を、低い運用コストで交換する仕組みである。
ブランドは、
品質そのものを毎回検証する計算コストの代わりに、
品質を推定するための低運用コストの近道である。
――これは経済学でいう「シグナリング」に近い。偽装する側の運用コストが本物より高くつくからこそ、ブランドは信号として機能する。
「レターパックで現金送れ」は、
個別事情を調べる計算コストの代わりに、
危険をほぼ一律に回避するための、運用コストゼロに近いルールである。
現代文の試験でも、
本文を完全に理解する計算コストより、
ディスコースマーカーや選択肢の構造だけを見る低運用コストの戦略が存在する。
これらは、
真理そのものではない。
計算コストを運用コストへと圧縮した近似的なプロトコル
なのである。
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良いプロトコルとは何か
優れたプロトコルには三つの特徴がある。
第一に、
運用コストが低いこと。
誰でも理解し、
誰でも実行できる。
第二に、
誤りの種類によってコストが非対称であること。
「レターパックで現金送れ」を全部詐欺と判断すれば、
善意の相手を誤って断る(偽陽性)ことはある。
しかし、
詐欺被害という偽陰性のコストに比べれば、
その偽陽性のコストははるかに小さい。
つまりこのルールは、
コストの非対称性を前提にした、合理的な賭けなのである。
逆に言えば、偽陽性と偽陰性のコストがほぼ等しい領域では、同じ乱暴なルールは機能しない。良いプロトコルの条件は、状況に依存する。
第三に、
運用者の能力に依存しないこと。
天才だけが使える制度は、
運用コストが実質的に高い制度である。
普通の人でも低い運用コストで機能することが重要である。
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プロトコルには限界がある
もちろん、
どんな近似にも適用範囲がある。
例えば、
人は限られた情報しか扱えないため、
年齢や職業、肩書き、出身地などを手掛かりに他者を予測することがある。
こうしたカテゴリー化そのものは、
計算コストを下げるための自然な働きである。
しかし、
その近似を絶対視し、
個人を見ずに属性だけで能力や人格、権利まで決めつけるなら、
それはもはや運用コストの節約ではなく、
社会全体に新たな――しかも見えにくい――コストを生む。
重要なのは、
近似を使うことではない。
近似を現実そのものと取り違えないことである。
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制度は必ずハックされる
さらに、
優れたプロトコルほど、
攻略されやすい。
礼儀正しい詐欺師。
ブランドの偽装。
試験テクニックだけで高得点を取る受験。
検索アルゴリズムだけを狙う記事。
制度の目的ではなく、
制度の判定条件だけを満たそうとする戦略は、
必ず現れる。
これは統計学者チャールズ・グッドハートが指摘した現象――「ある指標が目標になった瞬間、その指標は良い指標ではなくなる」――の一般形と言ってよい。プロトコルは、目的の近似でしかないのに、いつのまにか目的そのものとして扱われ、そこが攻略される。
ここで重要なのは、ハックとは「運用コストの安さにただ乗りする行為」だということである。ハックする側は、本来の目的を満たす計算コストを一切払わずに、判定条件だけを低運用コストで満たす。プロトコルが計算コストを圧縮すればするほど、その圧縮のショートカットそのものがハックの標的になる。
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制度は更新され続ける――信用スコアという例
抽象論だけでは説得力に欠けるので、一つ具体例を三つのコストで追ってみる。
個人の信用を貸し手が毎回精査するのは、高い計算コストを要する。そこで「信用スコア」という単純な数値プロトコルが生まれた。返済履歴などいくつかの指標を集約し、一つの数字にする。運用コストは低く、貸す側は数字だけを見ればよい。
しかし普及すると、今度は「スコアを上げること」自体が目的化する。実際の返済能力ではなく、スコアの計算式が拾いやすい行動(短期間でのローン開設と即返済など)だけを繰り返す――低運用コストでスコアの判定条件だけを満たす、という攻略法が現れる。
これに対して、スコア算出モデルは定期的に見直され、新しい変数が追加される。この見直し自体が更新コストである。モデルを再設計するコスト、金融機関に周知するコスト、消費者からの反発に対応するコストなどを含む。更新コストを払わなければ、ハックされたスコアはそのまま放置され、制度自体の信頼性が損なわれる。
更新すると、また新しい攻略法が現れる。この往復こそが、信用スコアという制度の実際の歴史である。
低い運用コストで普及する。
ハックされる。
更新コストを支払って修正する。
そしてまたハックされる。
この循環そのものが制度なのである。
重要なのは、
ハックされない制度ではない。
更新コストを継続的に支払い続けられる制度
である。逆に言えば、「ハックされても誰も更新コストを払わない制度」――更新の主体が不在、あるいは更新するインセンティブがない制度――こそが、静かに劣化していく制度である。
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真善美について――ここから先は仮説である
ここで一つの仮説を置いてみたい。ただし、ここまでの議論より格段に推測の度合いが高いことを断っておく。
真・善・美とは、
絶対的な価値というより、
社会全体が更新コストを払い続けるよう仕向ける仕組みなのではないか、という仮説である。
更新コストは、個人にとっては割に合わないことが多い。使い慣れたプロトコルを疑い、検証し、書き換える労力は、目先の利益では回収できないことが多いからである。それでも人間や集団は、真理を探究する、他者を助ける、美を残す、といった行動を繰り返してきた。
一つの見方として、真善美という価値は、個人が更新コストを支払うことを正当化するための、いわば社会的な補助金として機能してきたのかもしれない。更新コストの負担者に、経済的な見返り以外の理由を与える仕組みである。
ただし、これは今のところ検証可能な予測を伴わない物語にとどまっている。どのような観察があればこの仮説が反証されるのか、まだ自分でも明確に答えられない。この点は今後の課題として、いったん保留にしたい。
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おわりに
制度とは、
人間が正しいから生まれたものではない。
人間が有限だから生まれたものである。
有限な時間。
有限な情報。
有限な認知能力。
その制約の中で、
社会は計算コストを運用コストへと変換するプロトコルを発明してきた。
しかし、
プロトコルは必ずハックされる。
だから制度とは、
完成したルールではなく、
更新コストを払い続けることで存続する仕組みとして理解する方が自然なのではないだろうか。
信用スコアも、礼儀も、試験の解法テクニックも、この同じサイクルの中にある。違うのは、三つのコストの配分と、更新コストを誰が、どのくらいの頻度で払うかだけなのかもしれない。
