原作を読んで/コルミノ
やっと時間が出来たので、コールミー・バイ・ノーネーム原作を読みました。
まず最初に抱いた感想は、文学的な質感が強い作品だな。ということ。
活字だから成り立つような、
少しくどく感じてしまうほどの関西弁と、
正確に、美しく示すために使われる文学的表現。
このふたつをそのままドラマに反映してしまえば、作品の出来映えは確実に、今のものより落ちていたと思います。
これを、ナチュラルな演技と設定でリアルに落とし込み、かつ詩的な美しさを損なわないような映像に仕上げた主演のお二人と枝監督含め、関係者の方々には本当に頭が上がらないです。
※ここから先は、小説のネタバレを含みます。
ドラマを観た段階では、
めぐちが琴葉の名前を当てるのを避けたのは、
琴葉の弱さに触れるのが怖かったからだと
私は思っていました。
けれど、そうじゃなかった。
私は自覚していた通り、いや、それ以上に
めぐちのことを全く理解出来ていなかった。
原作を読んで、
めぐちが名前当てを避けたのは、
本当に琴葉を好きになり、恋人の関係を続けたかったから。
という理由だったことを知り、少し驚きました。
今になって考えれば、
理由自体は何となく理解出来ますが、
めぐちがどの段階で好きになったのか、全然分からなかったです。
やっぱり、私は恋愛感情に疎かったです。
まあ、そんなことはどうでもいいんだけど、、
他にも、原作ではドラマと違い、めぐちは琴葉の兄(旭)に会うことになります。
めぐちは旭から、琴葉が受けた虐待の内容を聞く訳ですが、原作では性的虐待を受けていたのは琴葉だけでした。
(ドラマでは「私とお兄ちゃんは同じことをされてた」と言っていただけなので、ドラマでも性的虐待を受けたの琴葉だけだったかも、、?)
そして、琴葉の母(天)はレズビアンだった。
私にはその事実が一番苦しかったです。
もし琴葉が、
好きなのに、めぐちを傷つけてしまうかもしれない自分と母親が重なっただけでなく、
憎い母親と同じように、同性を好きになっている自分に絶望したとしたら。
その先にはめぐちの前から消える以外の選択肢はなくて、、、
“愛”そのものを否定することになります。
自覚してしまったが、証明しようのない“愛” と
明確に重なる“憎しみ”
琴葉にとって一番大切で、証明したい“愛”は証明できないのに、この愛情が、同性愛が、母親と重なることだけが事実として残る。
想像も出来ないくらい苦しくて、
ひとりじゃどうにも出来ないくらい大きな壁。
斜線堂有紀先生も、いつにも増して辛い展開を考えはったなと思います。
そしてやっと気づいた“宿命”の意味。
母親の相手をするために生まれてきた。
だから“そういうこと”をするのは“宿命”だと、琴葉は思うようになった。
そして私は母親とは違う(=同性愛者じゃない)ということの“証明”のために男の人とする。
琴葉自身、これがなんの証明にもならないことには気づいていただろうし、だから途中から宿命としてこのルーティーンを続けたんだろうけど、、、、
めぐちに出逢わなかったら、ほとんど自傷行為とも言えるこのルーティンを一生続けていたかもしれないと思うとゾッとします。
ちなみに、2023年の改正によって、女性同士でも同意無しの行為は 不同意性交罪 に問うことが出来るようになったそうです。
重たい話ばかりして申し訳ないので、ここから先は
ミステリーとしてなるほど!面白い!と思った点について話します!
ひとつは琴葉の兄の名前が 旭 であること。
そして琴葉の「うちとは何もかも正反対のええお兄ちゃん」という言葉。
ドラマでは気づけなかったけど、
あさひ と正反対の 夜
そして2人の母親の名前が そら であること。
よく出来た話だなーと感心しました。
もうひとつは千夜一夜物語の内容。
私は呼んだことがないので知らなかったのですが、
シェヘラザードは毎晩、王の元へ物語を読みに行っていたということ、
そして、“夜伽”という言葉が
夜間に退屈しないよう、話し相手になったり物語を語ったりして過ごすこと という意味も持つこと。
この繋がりを思いつきはったのも本当に凄いです。
名前の繋がりだけを見ると、
橋立天は、生まれた時は旭も夜伽も同じくらいの愛情を持って名付けたんじゃないかとさえ思ってしまいます。
このような細かく散りばめられた全ての伏線を綺麗に回収するのは、本当に気持ちが良かったです。
このままだといくらでも書き続けてしまいそうなので、一旦ここら辺で止めます!
原作は、ドラマだけでは気づけなかったことが、文学的表現と共に、正確にかつ丁寧に記されているので、是非原作も読んで欲しいです!
