【創作大賞2024】入職27年目のボクが退職を決意した理由
令和3年9月30日。 この日を以て、大学新卒の23歳で入職したボクの約27年に渡る福祉施設職員の生活にピリオドをうった。
それに先立ち、実質3日前の27日に27年間出勤した職場への理事長始め、各部署などの挨拶、施設入居者さんへの挨拶、物品返却、離職手続き・・・・。
このご時世もあるので、密になる場面を避けながらの場面が過ぎていく。
そして、職場生活のすべてが終わった。
さてここで、ボクがなぜこの27年の社会福祉施設での27年間の勤務生活を終えることになったのか、そのきっかけと経緯を時系列に記して行こうと思う。
退職への始まりは無期限の休職がきっかけだった
時は2021年1月にもどる。
元々ボクは身体障害者だ。 29歳の2001年で発症した右大腿骨の悪性腫瘍により、抗癌剤による化学療法、放射線照射を兼ねた手術などで、骨の腫瘍は幸い初期ということもあり、死滅させて命こそとりとめた。 しかしその代わりに、最終ボクの右足の骨は人工関節に入替され、筋肉を一部切除された障害の足になった。
それ以来、2003年以来肢体不自由4級の認定を受けた中途障害者である。
この人工関節には人工物の消耗品であるが故、耐用年数というものが存在するので、どこかで必ず限度がやってくると言われていた。 そしてこの18年の間、通算5回にわたる人工骨の入替手術を受けることになるが、この1月はその中の4回目にあたる手術の時期にあたる。
当然、休職を余儀なくされた。
通常は入院、手術となるとそれなりに自分には身体に負担、苦痛も伴うため正直非常に憂鬱になるのだが、この時ばかりは休職を迎える自分に正直ほっとする気持ちがあった。 なぜならその当時、在職していた職場でのボクの評価、特に周りのスタッフとの信頼関係がズタズタに崩れてしまっていたからだ。 それは紛れもなく、長年ボクを悩ませてきた業務中の自制できない居眠りが原因だった。
自分なりに、周りから注意指摘を受けるたびに猛省、再発予防の策を自分なりに模索をするが、状況は変わらずむしろ悪化、「怠け者、常識知らず」のイメージが固定化するのに時間はかからなかった。
そして休職の前日にも、上司からの叱責を受けたこともあり、この休職で一時的とはいえ、今の絶望的な環境からの逃避ができる意味でほっとした。 そして、このご時世での手術もなんとか予定通り済ませ、直後から始まるリハビリの日々を過ごしながら、改めて自分自身を見直すことになった。
あっという間に退院の日になった2月末。 職場との話の結果、病院側のリハビリ療養の指示もあり、退院後の初めての再診検査結果次第で復職するとボクは決めた。 当然このときは復職するのに何の迷いもなかった、というより退職など、今の自分にはとてもできる身分じゃないと思い込んでいた。
ただ、休職前のその職場での「あの」状況がまた始まるのかと思うと、憂鬱さと足がすくむ暗い気持ちになっていた。 こんな時ほど、退院後の休養の日々はあっという間に過ぎていくものだ。
そして迎えた再診の日、検査も異常なかったものの、もう少し足のリハビリが必要という主治医の助言もあり、もう少し休職できることに、やはりほっとしている自分がいた。
しかし、無常にも日はすぎていき、復職前の挨拶に職場へ行く日がやってきた。 何ともいえない緊張、不安。 上司からは復職に向けて改めてアウェイともいえる、職場での逆風が巻き起こっているという報告をボクは耳にしてしまう。 そしてこのことがさらにボクの復職への足を鉛のような重さにしてしまった。
案の定、ついに復職を明日に控えた前日の晩、一睡もできずに復職当日の朝を迎えた。
そして休職が決定的になった瞬間が・・
たまらなく緊張、不安、恐怖が・・・。 そんな中でも、家族にもそんな顔を見せる勇気もなくこわばった表情のまま、ボクは家を後に職場へ向かった。
なんとか職場へはいくことはできた。 しかし、何かがおかしい。 職場の出会う人出会う人が挨拶はしてくれるのだが、なんかそっけなく感じる。 いや、今思うとそういう風に自分には映っていたんだと思う。 さらにその姿が、「今ごろ出てきやがって。おまえの居場所はもうねえんだよ!」 といっているように思えて仕方がなかった。
先日上司の言っていた「アウェイの空気がこれなのか・・・。」すぐにボクの頭の中をかすめた。 そう思うともうそこにはいられなくなり、人気のないところへ思わず避難して、膨大にデスクに積まれた自分の休職中の申し送り事項など、遅れを取り戻すべく情報収集にとりくんだ。 だがどうだ。 全く頭に入らない。 おまけに数年前に経験して以降、薬で落ち着いていたはずの過呼吸症状が出てきて、時々事務所へ入ってくるスタッフに対して、ボクはその異変に気づかれまいと必死に笑顔で対応するのがやっとだった。
結局復帰初日はそれだけで勤務時間は過ぎ、明日から改めて頑張ろうと思い直そうとするも、こんなんでやっていけるのか? という不安がそれ以上に押し寄せる。 自分の中でもやもやが止まらず、息がつまり、たまらず「うわーーーーーつっ!!!!!」って誰もいないところで叫びたい気持ちにかられた。 それだけで精神的にもくたくたになり、なんとかかんとか家路にもついた。
翌日は休みだった。 というよりも、シフトを組む上司にボクから復帰したては疲れると思うので一日おきにしてもらうよう配慮を願い出ていたのだ。 しかし、もうすでに明日の出勤がすでに不安になって、昼前になっても布団から起きたいと思わず、やる気もおこらずごろごろしていた。 完全にうつ症状の再発そのままだった。
ボクの不安は一日中収まらず、何も考えずぼーっと頭に入ってこない録りためていたビデオの画像をすっと見て不安を掻き消していた。 しかし、いよいよ寝る時間になる。 しかし、全く眠れるわけでもなく、日が変わった夜中にたまらなくなって、寝ている嫁をたたき起こした。 それは今までのこの不安な気持ちを伝える中で、当初、副業をして家計を助けるべく意気込んでいた講座に高額資金をカード払いしていたという事も全部うちあけた。
いつも冷静客観的考えを述べるヨメもさすがに、寝ているところを無理やりボクに起こされたことも手伝い、珍しく感情的な「怒り」の気持ちをぶつけてきた。 そして結局は、明日勤務に行く自信がとてもないボクの打ち明けに失望のため息をつかれながら、ヨメが一緒に付き添って職場についていくことになった。 いや、むしろ付添してもらう幼稚園児のような情けない気持ちでいっぱいのボクだった。
そして翌日の朝、上司へあらかじめメールでヨメと一緒に行くので面談を希望、受理され、ヨメのあとへついていくように面談室へ入っていったー、
まさにボクにとっては生き地獄の時間
話を先へ進めよう。
職場の面談室というか、3人も入るといっぱいになりそうな小さな部屋に入り、まともに上司に目線も合わせられなくなり、首もうなだれているボクに代わって妻は昨日のことも含め、今後の対応について相談を始めた。
実は、直属上司とボクの妻とはこの日が初対面ではない。ざっと遡れば遙か20年前のボクたちの結婚式での職場の2次会を開催してくれた幹事役の一人だったわけであるので、その時以来だというと長い間ということもあるが、ボクの知らない間に、ボクのこの居眠り問題などの相談をしだしたのは、昨年になってからだ。
ボクは昨年1月にも、仕事中に極度の鼠径ヘルニア(ご存知だろうか?ボクくらいの中年男性に頻発する、いわゆる鼠蹊部をよばれる脇腹下あたりに他ある直腸がそれを覆う鼠蹊部の膜を圧迫、それが破れて腸が飛び出てしまう病気だ)による極度の腹痛に襲われ、施設に居合わせた看護師の方のヘルプで提携病院へ救急搬送されたことがあった。それはもう叫ばずにいられないほどの激痛で、多少のことは我慢強いと自画自賛していたボクでさえ、我慢できず脂汗が垂れるなか、飛び出た直腸をひっこめるべく腹腔内鏡カメラと開腹による緊急手術を実施。もう少し手当が遅れたら手遅れだったと主治医に言われた。
要は鼠径ヘルニアの中でも最悪の陥頓(かんとん)という、患部が浮腫みきって、飛び出た腸が戻らなくなっていたそうで、放置すると腸も腐っていっていたらしいとのこと。そんなこんなでまた、なんとか一命をとりとめた。
結構以前から直腸の脱調具合に違和感を感じながらも、自分でそれをひっこめて我慢して無理して業務を続けた結果だった。その際に、心配したボクの妻が直属上司に病院対応に訪れたことを機に、普段のボクの勤務態度であったり、睡眠障害的症状も出ていたことなど何かと相談していたようだ。
そういう間柄もあり、妻が直属上司に相談するのはあまり堅苦しいものでもなかった。しかし、そんなことよりこのときのボクはそんな余裕もなく、ただ上司の体調を心配してくれる呼びかけに「はい・・・。」と声になるかならないかの返答をするだけで精一杯だった。
一方ボクの妻は直属上司と話を進めていき、いわゆる職場でのボクとスタッフとの信頼関係の崩壊、はたまた普通仕事上では考えられない行動(業務中に菓子類をほうばる、ごみを落としまくる・・・などボクが罪悪感なく行っていること)といったモラル観の欠如・・などの話を聞いた上で、ボクの妻は、ボクの現職である「ケアマネージャー」の適正について話し始めた。
ボクの直属上司は、この職務に限ったことではないが一般的に必要と言われている「マルチタスク」「時間管理」「デスクの書類整理」「電話対応の仕方」ーそしてもちろん「業務中、会議中のありえない居眠り、寝落ちのことー。そんなボクが耳を塞ぎたくなるほど恥ずかしい内容の会話の果てに、妻はこのように話を切り出した。
「主人(ボク)はケアマネという職には向いていないんだと思います。このようなことを繰り返すばかりではこちら(職場)にも迷惑をかけるのを今後も繰り返すだけならば、この障害のある身体と精神的に発達障害の疑いのあることを配慮してもらう障害者枠での復職では無理なんでしょうか?」
直属上司はその言葉に、しばし「うーん、そうですね・・・。」と考えあぐねていた。
その様子を見て、ボクはいたたまれなくなり、情けない、哀しい気持ちがこみ上げ、思わず涙声で「ボクは今朝Aさん(直属上司の仮名)に面談希望の電話をした際、本当に『もうボクは今日限りで辞職します!』といいそうになった。実際今でもそう思っています。もうこれ以上皆さんにご迷惑かけられないから・・・」と言ったきり、涙が止まらなくなった。
普段、感動してもあまり涙の出ないボクが涙を止められず号泣したのである。自分でも驚きだった。思わず上司が差し出してくれたティッシュでボクは涙をふきながら、上司からの有難い言葉を聞いた。それはー、
「Oさん(どりしげ仮名)辞めないでください!Oさんに辞められたら困ります!」という言葉だった。
ボクは嬉しかった。それがたとえその上司がボクを落ち込ませまい、ヨメの手前上の配慮があっての言葉であったとしても、単純にボクはその言葉が有難い、救われる言葉としてボクの心の中で響いた。
結局、ボクはしばらく仕事は無理に出勤はせず、できるだけの時間で、周りに支障のない範囲の業務を考えてやってもらおうということになった。ただこれないときはそれはそれで連絡もらえればいいという配慮をいただいた。ボクは上司からの「それだったら仕事にこれそうですか?」という問いかけに、即答で「はい」とも言えず、なんとかというようなうなずきしかできなかった。
そんなボクの様子を見た妻は、「もっと自信持って、そんな時は嘘でも『はい!』っていわないと!」とハッパをかけられた。その塩対応もこの時のボクには変なプレッシャーしかかからなかったのだー。
今までの不安、ストレスが爆発した出勤への恐怖
ボクがつい先月まで在職していた職場の復帰初日でのパニック症状から、結局そのままの勤務継続が厳しくなったため、出勤も任意によるものになった。
実はその面談で決まった直後から、ボクはもう明日の予定されていた出勤の可否について心配という不安に襲われていた。怖かった。
そして次の日、やはりその不安は的中した。朝になると、いてもたってもいられなくなる気持ちすきがボクを襲い、すっかり心はそわそわしながらも、妻がパートにいき、子ども達も学校ということで、一人である気楽さで午前中ずっと布団にもぐりこんでいた。
何もしたくなかった。何も考えたくなかった。
結局午後になっても不安な気持ち入れず、事前に出勤できないときは連絡を入れることだけは忘れずにと思い、自分で連絡をいれた。
ほっとした。
と同時に、この時、ボクは直感した。
「あ、またこれ休職するのかも・・」と。
そして、その予感はこの日の晩には的中することになる。
仕事から帰って来た妻の「これはいよいよ復帰できないかもね。」という言葉につづき、結局どうするのか答えを迫られた。 ボクは、ありのままに今は出勤に自信がないことを伝えた。
妻は一息ため息をつき「わかりました。 そしたらもう休職するとして、その間の生活費はたちまち困るから健康保険の傷病手当金を申請してほしい。 こちらは、自分の給与も少しでもあげれるようパート時間を長くしたり、新しく職を探すか・・。長男については、まだ高校受験を控える身。 こっちは子供達のこともあるし、手一杯だから、自分(ボク)まで手が回らない。 だから、(ボクは)実家にいって(同居の兄に)食費だけでもなんとかならないか頼んでみる・・・」と。
「ボクは実家へ行くことになる、ということは「ここ」を離れるということか~?」と思うと「ちょっと待って」という言葉が思わず出た。
ん?出た言葉があまりにも衝撃過ぎてよく覚えていない(笑)。
ただ、何らかの抵抗(笑)ともいえるアクションは起こしたと思う。
しかし、妻はボク以上に、もう一緒に一つ屋根の下にいることが限界だった。
というのも、妻とは結婚して20年を越えるが、いつしか「夫婦」というより、単なる生まれてきた二人の子供がつなげる「同居人」というほうが正しいほど、夫婦仲は冷めていた。今思うと、ボクのこの「発達障害」ならではの多動性の落ち着きなさなどあったが、何よりも妻には金銭遣いの荒さが相当なストレスになっていたような気がする。
基本、ボクの場合、小遣いを妻からもらう。つまり生活費などの金銭管理はヨメ管理だ。だからというか、ボクはただ毎月もらうお金を自由気ままに使っていた。足らなくなったらある程度工面してなんとか生き延びようとするが、どうしても乗り越えられないときがある(笑)。そのときは、頼むなら「ちょっとお金が足らない」ということをボクも言えたらよかったのだが、ボクにも変な意地や恥ずかしさ(お金管理ができないと思われたくない。かといってもう少し小遣い額を上げてと言っても「そんな余裕はない。」と一蹴(笑)されるだけだ・・とか。)があった。
ではどうするのか?
その場しのぎのあることないこと(つまりは嘘)言って(仕事で必要なお金がある・・など)、とりあえずのお金を必要資金として出してもらう。当時はそれで過ぎていたからうまくいったと思っていた(笑)。自分で「なんでここまで・・。」と「切ないな・・・。」と思いながらも「これが現実だな。」と、どこかで腑に落とした。決して、妻1女1男の養う世帯主の、良いとは思えない収入でなんとかやりくりしてくれている、妻への妥協をしている自分もいた。
しかし、妻は分かっていた。それがその場しのぎで対応したボクの嘘も何もかも。でもその時には言わなかった分、確信犯的に起こしてきたボクの「前科」を一気に連ねていったのだった(笑)
そういったこともあり、ボク自身も「もうこれ以上ヨメを苦しませたくない。」「ボク自身ももう息の根がつまるほどヨメと一緒の生活がしんどくなってきていた。
「今はお互い距離を置いたほうがいいのかも・・・。」と。
最終的にボクはそのヨメの要求を飲んだ。そして1か月後、必要最小限の荷物を持ってボクは自分の自宅を後にしたのだったー
実家は実家で居場所があまりなく・・・。
今年3月にボクは現職場を休職に追い込まれ、さらに家庭でもヨメから「自分(ボク)までのことを考える余裕がない。」とボクの実家への移住をすすめられる。
挙句の果てに、実家の兄からも「長期間の滞在は無理、うちにも余裕ないから短期間でなんとか戻るようにして。」ということに。
一文無しに近かったボクは、藁にもすがる気持ちで実家に居候感覚で身を寄せた。
目的はボクのメンタル面の療養でもあったのだが、ヨメとは距離を置いてさすがにメンタルも落ち着いたものの、実家は実家でそこでの主要人物になる兄に対しての気遣いが新たに加わった。
もともと人との関わりを極力もつのを避ける傾向にある兄は、血のつながった身内であるボクでさえ、元々実家には寄せ付けない人であった。
しかし実家には、現在大腸がんの術後にあり、ストーマという人工肛門、膀胱留置バルーンという尿管にカテーテル管が入った要介護状態である父も同居していた。
たまにその父の様子を観に来ていたボクにとっては、24時間体制で様子をみることができることもあり、その点ではボクにとっては安心材料であり、自分のメンタル面への気をそらせる材料にはなった。
そんな感じで、ボクの実家での居候生活は始まった。
自宅と違い、食事など妻に任せていた分はセルフサービス的になり、ある意味気は楽だったが、細かい点で、兄から自身で決めていた暗黙のルールというものがあり、そこのラインをボクが知らずに立ち入る行動をすると、兄の鋭い指摘が入った。
そのことがボクのメンタルには重荷であり、暮らし辛さの原因にもなった。
しかし、父の介護のことについては、まさにこの時は福祉分野の職業についていたボクには、兄も一目置いてくれていたこともあり、何かと相談しに来てくれたので、身体障害で直接的介護に制限もあるボクができる唯一の手助けになった。
もちろん、介護保険を受けている父には担当してくださるケアマネジャーもいた。
だからあくまで、実際の父の今後のケアについて決めていくのはその人であり、主介護者である兄とのやりとりで決めてもらい、ボクは自分の療養を第一に考えるようにした。
とりあえずボクは、実家への転居前から相談対応してもらっていた発達障害支援センターに通いながら、自宅から持参した一昔前のノートパソコンで発達障害のことをより深く知るべくネット検索で様々な情報を入手、無料でできる関連イベントなど、体験を中心にこなしていった。
それはボクをひきこもりになりがちな休職生活を外に開かれたものにすることができた。
そうすることで、ボクは月1~2回のペースで面会する職場上司と妻とも新鮮な気持ちで会う事ができ、一時的にパニックになっていたボクを落ち着かせていく要因になった。
そんなこんなで実家での生活にも慣れてきたボクに、まさかの「大事件」が起こる。5月末のことだった。
家での居候生活が始まって約1か月の5月末、ボクにとって大事件が降りかかる。
ボクの退職を決定づけた大事件
ある日の朝、一戸建ての実家でこれまでずっと使われてなかった2階の和室を拠点にしていたボクは、何も考えず階段を普通に降りていた。
いや、今思うと普通ではなかった。
いつも歩行時に装着するはずの足装具もつけず、しかも朝一というころもあり、半分寝ぼけていたのもあったのだろう。
階段もあと3段で終わりというところで、「グラっ」とバランスが崩れ、臀部を軽く階段にお尻から座り込んだ、つまり、軽い尻もち、いや、軽くストンとお尻が落ちた感覚だった。
すると、「バキッッッッッ!!!!!」
何とも言えない体の中から劇音が!!
「何だ!???」と思った直後、とてつもない激痛が自分の右足を走っていくのを感じた!!
それは同時に、何とも言えない「不安」という暗雲があっといいう間にボクの頭中を覆い尽くすことを意味した。
「やばい!!」と思った時はすでに遅し。
そこから立ちあがろうにも、痛すぎて立ち上がれない。
ましてや、歩くなどとんでもない!!という感じ。
それは「自力の移動不可」ということを決定づけた。
1階のベッドで寝ていた父親がこの事故時のボクの異変に気づき、そこからは死角で見えない場所から「どうした?大丈夫か??」と心配な声掛けが。
とたんに、父に心配かけまいと思ったボクは返事こそ明るい何でもないような声で「ああ、大丈夫大丈夫。」という言葉を発していた。
しかし、立ち上がりもできないボクは、座りながらそのまま後ろ向きに、さっきまでくつろいでいた2階の部屋まで、なんとか精一杯の力出して必死に来た道を戻っていったのだった-。
痛みをこらえながら・・・(泣)
さて2階部屋へ戻っても、和室だけにそのまま床に座るのだが、これが激痛でなんとも普通に座れない。
ボクはすぐ横にあった机に手をついて、なんとか右足をかばうようにして座ったものの全く痛みはひかず、思わず脂汗が出るほど。
そこで結局数時間そこからうごけず、トイレに行くのもおっくうになるほどの痛さで、その日は結局のた打ち回って終わりました(笑)。
さらに追い打ちをかけたものは、その日が「土曜日」だったこと。
自分の中では、この時点では骨折とは「まだ」認めていないということもあり、病院へ緊急でも行こう!とはならなかった。
なぜなら、自分の主治医の外来診察担当日が毎週月曜・火曜だという理由にこじつけて、とりあえず今日明日の土日を様子を見たいというかすかな望み(⇒一晩足を休めたら、歩けるようになるんじゃ・・・という、今思うとありえない期待(笑))をかけて、とにかくなんとかそれまで乗り切ろう!と考えた。
とにかく、この痛みをなんとかしなくては!とまず行動したのが、頓服用で持っていた市販の鎮痛剤を飲み、気慰め程度の痛み抑えで、どんどん熱感を帯びてくる右足を恨めしそうに凝視していた・・・。
階段上り下りするにも、というか、そもそも階段上り下りできないでしょ!っと突っ込まれるような状況(笑)ながら、なんとか立たずに、しかも痛みを最小限に座りながら階段を上り下りする方法を自己流に編み出した(笑)。
そんな日々に限ってなかなか時間のたつのが遅い!のだが、なんとか迎えた翌週の月曜日。前述のように私の通院している大学病院主治医である整形外科担当医の外来受診日だったのだが、「まあ、明日火曜日もそう(受診担当日だし・・:)という恐れと甘えが出てしまい、結局その日も病院に足を向ける勇気はでなかった。
さあ、いよいよ病院へ赴く決心が・・
そして迎えた火曜日!今日をやり過ごすと結局入院レベルで受診することになれば、色々時間もかかるし、厄介なことになるっ!とボクは覚悟した。
その日はよりにもよって、朝から結構などしゃ降り雨・・(笑)。
しかしそうも言ってられない、かといって事前電話をしても今日は予約一杯だろうし、すぐには予約できないことは百も承知だったので。飛び込みでなんとか午前中で締め切ってしまう受付時間に間に合うようにして、なおかつ松葉杖でぐらぐらの右足をかばいながら電車に飛び乗った(笑)。
しかも単身だったため、ヘルプする人もいない中、もう今ではどう乗り切ったのかわからないくらいのシビアなものだった(笑)ー。
さてさて、緊急で激痛の右足をなんとか松葉杖で浮かせつつ、時々はすわり場所をみつけながらなんとか3時間以上かかる病院までの道のりを激走、当日受付時間ぎりぎりで病院へすべりこんだ。そして、主治医の指示で受けた足レントゲン検査の後、ボクを待ち受けていた検査の衝撃の結果は・・・。
「あ~、(右足の骨が)折れてるね~(笑)」と、主治医の苦い表情・・・。
つまり、もともとの抗がん剤治療、度重なる手術で、人工関節を支えていた大腿骨上部の自分の骨が、ついに支えきれなくなり、今回の事故で完全に折れてしまったのだ!!
つまり、あの時の「バキッッ!!!!!」の衝撃音は、紛れもなく骨折の音だったことがこれで確定してしまったわけだ(泣)。
ということは勿論、「これは手術でしか治せない!」との主治医の決断により、再び入院が無惨にも確定(笑)。
そこからの怒涛の入院前検査。急遽、病院の車椅子を用意いただき、長年福祉職の経験で使いこなした車椅子自走の華麗な(笑)テクニックにより、自走で検査会場をぐるぐる回り、一日がかりで夕方すぎに入院予約をしてなんとか終了。
主治医はこの足の惨状から、今日からでもボクを入院させたかったようだが、入院準備もあるからとなんとかこじ開けてもらえた手術日の二日前に入院予約を済ませ、また帰りも死にもの狂いで帰宅。
絶望の中、我がヨメにも勇気を出して重苦しい再入院報告(笑)。
「・・・・もう、カンベンしてよ・・・・。」と妻のさじ投げ状態の一言。
「おれが一番カンベンしてほしいよ!」と思わず言い返した。
それはつまり「わざと事故したわけじゃないし!」といういらっとした気持ちを「結局、結果がすべてだしな・・。」という思いでおさえこみきれなかったボクの必死の対応だった。
同時に、「やるしかないな」という改めてのボクの決意表明を決心させるものだった。
それからボクに降りかかる過酷な日々
その日からというもの、ボクの実家での居候生活はさらに身体的に過酷なものとなっていった。
まず、実家の1階は父親の介護用ベッドで占められていた背景から、拠点を2階にしていたボクに避けられなかった最大の難所は「階段」だった。
なんとか右足の負担痛みなく最小限にするため、座りながら、かつ杖を持ち運びしながら昇降する独自の手段を編み出し(笑)して、ごはんやトイレなどの度に往復をしていた。あとは、常に骨折の尋常でない痛みをおさえるために数時間ごとの鎮痛剤服用。
そんなこんなで1週間が過ぎた。骨折翌日から始まった骨折部分の内出血部位は、右足の大腿部全体を表側から裏側の順に、皮膚色が真っ青になり黄色くなっていくのをズボンを下ろす度に確認、ボクに起こっている事の重大さを実感(笑)。
そして「入院予定日までまだ1週間もある」とふとボクの頭の中に浮かんだ瞬間、すぐボクは、入院予定の病院へ入院日の繰り上げをしてもらおうとスマホを手に取り、いつの間にか電話をかけていた。そして、このご時世に奇跡的に入院前1週間目の日に入院予約ができたのだ。
今思い出すと、とんでもない日々を送っていたと思う。その日々のスポットライトは思い出せるが、細かいところはどうしていたのかは思い出せない(笑)。
それほど、過酷なものだったように思う。
そして、再入院となった6月中旬から7月までの1か月余りの期間、いよいよ自分の職場退職を決定づけるきっかけとなるー。
さて、再度病院に再入院することになった当日、ボクは骨折して全体が内出血で腫れ上がった右足に重心をかけないように、なおかつ最低限にまとめながらも重くなってしまった入院の重い荷物をリュックに背負い、往路を急いでいた。
今まで電車で空席の保証のないまま利用していたが、今回ばかりは座っていかなければ足がもたない緊急事態ゆえ、まずは満席にはなりにくいバスのみを利用する作戦でルートを開拓、ほぼ電車を避けれる方法を見出し、いざ出陣。
が、早速自分をたちはだかる壁が!それは高速バスの出入り口の段差。
思いのほか高く、杖を支えに上ることはできず、一瞬杖を脇にはさみこみ、バスのどこかに手をついて腕の力で体を持ち上げるという荒業に出た(笑)。
今振り返ると、我ながらよく一人で行けたもんだというほど、体幹バランスが問われるものであったが、普段より体幹バランス運動を行っていたことが功を奏した?(笑)ようだ。
3回ほどの乗り換えを経て、なんとかかんとか病院へたどり着いたのだった。
その時病院の車椅子を見るなり、すがりつくようにボクはすわりこんだ。
ほっとした。とにかくほっとした。
車椅子がこんなありがたいとは今まで考えもしなかった。
片足を乗せながら、しかも前へすすめる。こんなに楽な方法があったのか?
と再確認できたのだ(笑)。
そんななかで週明けの病院らしく、ごったがえした空気の中で入院手続きを済ませ、荷物カートも借りて自分のずっしりした荷物を入れて押しながら、片方の障害の無い足でこぎながら車いす自走で、整形外科病棟へ無事入院した。
さあそこからの1週間後の手術まで、つかのまの快適時間ながら、今思うと長かった~(笑)。コロナ対策のPCR検査も異常なく、あとは手術を待つだけだったので、早くやってしまいたい気持ちと、やはり手術は怖い、逃げ出したいといった気持ちが交錯していた。
そんな手術待機期間も終わりをつげ、いよいよ再手術当日。いつものように、下剤を使ってでも腸の中をからっぽにさせられ、いざ手術室へ移動。ボクはこの時が一番緊張する。手術台へ乗せられ、血圧測りながら点滴をとり、徐々に入れられる麻酔が効き、うとうと意識がなくなるまでの間、ばくばく心臓がなっているのを感じる。
「さあ、覚悟しろ!」と言わんばかりに(笑)。
そして、ボクの中でははかない夢を見させられている間に(笑)3時間ほどの手術がおわった。予想どおり、ありとあらゆる管が体につながれている。やはり身動きがとれない。まあとりあえずは、無事手術は終わった・・・。
こうなったら、ほぼ8割がた恐怖は減る。もうこっちのものだ(笑)。
ただ、ここからが今までと違う「戸惑いの」リハビリの日々がボクを待っていたー。
再び「リメイク」されたボクの右足の本性は・・・
いよいよ今年2度目の足の再手術も終わり、リハビリが始まったのだが、今回は今までとは明らかに「違った」革命的なものがあった。
つまり、今回の再手術により、右足の足首より上が全て「人工関節」になったことを意味した。
言い換えると、股関節に直接関節が触れることになるので、術前説明で主治医より、より脱臼しやすくなるという警告を受けていた。
同時にそれは、今後洋式中心の生活へシフトしなければならないことを意味していた。たとえば、今まで布団を床に敷いて寝ていた習慣をベッド寝起きに変更することからだ。
ただ、その心配より何より、右足を動かすこと自体が今までとは比にならないほどの「違和感」があったのだ。
言ってみれば、右足自体が「誰の足やねん(笑)!」といったイメージ。
さらに、その動かし方にもちょっとコツが要るとのことだったので、長年ボクの担当をしてくれていた理学療法士(以下PT)に、「脱臼を避けるための足の動かし方」たることを徹底的に聞きまくった。
もともと自分の分からないことを質問するのは得意ではないし、恥ずかしさでどうしても消極的なボクが、それをしないと自分自身が困るということが明らかだと、これだけ真剣、必死になるんだと思った。
自分がその変化に一番驚いていた。
今思い返すと、この頃からだった。自分が今の現職(福祉職:ケアマネジャー)から「退く」ことを意識し出したのは・・・。
いよいよ身体の制限がさらに厳しくなり、もうすぐ50歳という、人生100年とすればまさに折り返し地点、つまり第2幕の幕開けともいえる。そんな自分が何らかの決断を出すのにこの機会を逃す手はない、と直感した。
そのために、まずは再手術で蘇ったこの右足の使用法を知る必要があった、つまりは「ボクの右足取扱い説明書」といったところだろうか(笑)。
それは、毎日の生活習慣から変えざるをえないことが出て来た。たとえば、かがんで靴のひもを結んだりする姿勢はNGとか。両足をクロスする行為がNGとか。寝るのは床ではなくベッドで寝る。とか・・・・。
改めて自分で自分を見直すことにもなっていったのだ・・・。
さてそれからというもの、土日祝以外の平日朝は毎回リハビリテーションに明け暮れた。
まずは、健足(手術していない足)を使った体幹トレーニング(足あげ、臀部あげ、腹筋、ダンベル運動など。
そして、患足(手術を受けた足)のPTによる容赦ない他動運動。
だが、「あれ、変だぞ」。
患足の感覚があまりにも鈍すぎる。というか違和感。以前より確かに人工関節部分が増えて、結局は足付け根から足膝~すねあたりまでを3つの関節でつながれている。
しかしだ。
ぶっちゃけ、「誰の足!??」と突っ込みたくなるほどの他人の足感覚。
それほど力が入らなくなっていた。
まで以上に長い補装具を用意、しっかり覆っているにもかかわらず、だ。
さらに、PTより患足の使い方の説明がなされていく。
「脱臼しやすいこと」
「足組みは厳禁」
「極端に前かがみにならない」
「靴をはくとき,かかとは手ではなく、靴ベラで足を入れる」
「立位から急に臀部を床まで降ろさない。」
「転倒に『より』注意!」
・・・・・・・・・・
やっぱりマニュアル作成が必要だ(笑)。
おまけに、手術の度に短くなる患足の長さはさらに短くなり、健足との差も明らかにわかるように。
とうとう、使用している杖の長さも左右バランスを考え、長さを変えなければならない羽目に。
さらに健足と患足の使用する杖が今後決まってくるので、わかりやすいよう患足の杖に「ヘルプマーク」(いわゆる東京都より最初考え出された「赤地に白抜きで救急を表す白十字とハートマークが描かれている札)をつけた。
これは、さりげなく公共の乗り物などで「席を譲っていただければありがたい」という無言のアピールをするためだった(笑)。
そんなこんなで、この後約1か月ほど。ただひたすら患足を元の「自分」の足に戻すべく(笑)、ただただ、リハビリメニューをこなしていった・・・・・。
退院を迎えたボクに待っていたものは・・・
そんなリハビリの甲斐もあり、いよいよ待ちに待った退院。
時は7月に入り、いやおうなしに夏がもう始まっていた・・・・。
ボクが退院したその日、入院中に手術により新たにリニューアル版が作製された患足の補装具などをはじめ、荷物も入院時より確実に増えていた。
それは、明らかに当然一人での退院となるボクにとって、杖歩行の自分にもてる荷物の許容範囲を大幅にオーバーしていることを意味していた(笑)。
なので、退院直前にもてない分の荷物は、院内の郵便局より、再び居候する実家へ郵送し、ボクはもてる最大限の荷物を背負い、長い帰路を辿った・・・。
そして、とうとう再び実家へ戻ってきた!
が、しかし、ゆっくりするまのないほどボクの頭の中はこれからの課題は山積みだった。
そのボクの頭の中をパカっと開いてみると、ざっと次のようなものが見れた、と思う(笑)。
〇さて、いつこの実家を出よう・・?(要は元の自宅へ帰るか、新たに一人暮らしの住処を探すか・・・)
〇今後床に座れない「洋式生活」を実践すべく住環境の改善が必要・・・
〇休職中の今、いずれは復職するのか、それとも退職するのか・・・。
その他、諸々・・・。
頭はパンク寸前だった。
その後、自分が自由にできるお金も底をつき始め、ひどいときは電車代など移動するにも工面せねばならない始末・・。
愛用のウクレレも泣く泣くリサイクルショップへ売ったにもかかわらず、買取価格はスズメの涙・・。
そんななけなしのお金を使い、再びボクは今後一生のつきあいとなる、発達障害のことを掘り下げるため、支援センターへ通う日々ー。
そんな中、職場より思わぬ1本の電話がかかってきた。
それは紛れもなく、いずれはボクの「行く末」を決定づけたきっかけになるものだった。
その電話の主は、意外にも休職前まで、あまり親しいとはいえない、寧ろ自分が苦手としている人事部担当の男性職員Mさんだった。
どうも聞くとこによると、ボクが休職して以来半年がたち、ボクの知らない間に進められていた上層部の「そろそろボクが復職か退職かの決断をする
時期」だという、ボクへの促し役になっていたMさんへの度重なる催促をうけていたという。
その際、もう復職は無理だなという簡単なあきらめモードの含んだ上層部の物言いに、Mさんは頑として抵抗、ボクの実力の可能性を信じ、もうちょっと待ってもらうよう上層部にかけあってくれていたとのこと。
つまりは、Mさんはボクへの今後の進路の決定を促す役になっていたというのだ!
結局はFさんの相談は
「それで(ボクは)どうする?」
という相談であった。
自分の身の振りようの決断まで、もう少し考える余地があると思っていたボクは、その場でさすがにすぐ決められず「考えさせてください」という言葉しかでてこなかった。
しかし、同時にボクが苦手であるうえに、てっきりボクを嫌っていると思いこんでいたMさんがボクのことでそんなに真剣に思ってくれていたとは思いもよらなかったので、そのことが本当にありがたく、素直にうれしかった。
Mさんをボクは今まで誤解していた申し訳なさを心中実感しながら、何度も感謝のことばを述べていた・・・。
そしてさらに、Mさんの口から衝撃的な事実を言い渡された!
「まあ仮に(ボクが)退職したとすると、ウチ(職場)は、退職金というものが3機関の保険機関から出される。そのうちの最も高額の出される機関の(ボクの)退職金をこちらでシミュレーションで出せるサイトがあって、勝手ながら(ボクの)勤務年数から算出させてもらった」と。
「すると、勤務27年目の人は単純計算だが、合計800万以上もの退職金が出されるみたい。だから今家庭の経済面で困っているのなら、とりあえずはいったん退職して、目の前の経済面の問題を解決するのもひとつの手かも」というのだ・・・!!!!!
ボクは思わずその現実に耳を疑った!!!!!!
まさかこの、いまだに役職もつかないボクが単純に勤務年数だけ長いという理由だけで、そんな「宝くじにでも当選したかのような」額がもらえるものなのか???と信じられない気持ちだった。
しかし、それを手に入れられれば、確かに経済面のいくつかの現状問題は解決できるかと思われる。
さらに退職すれば、組織へのしがらみで今までできなかった転職活動の取り組みもできるかもしれないー。
そう考えると、ボクの心臓の鼓動は速くなり、緊張にも似た息苦しさが込み上げてきたーー。
それから約1週間、ボクはその間になんとか、ボクに「都合が悪い」と何かと会いたがらない様子の妻に退職金の話をメールで相談した。
妻は、ボクが退職することで、今の休職の間を支えている健康保険の傷病手当金の支給が停止してしまうのでは??と恐れたが、それは退職後も出してもらえること、自分は復職してもやまったく新しい職場でない限り、再び元のもくやみ(パニック発作)に戻ってしまうように思うことを事前に伝え、退職する決意を表明した。
最終的には妻も賛同してくれたこともあり、職場のFさんには、改めて「自分は退職することにします」と決心した旨を伝えた。
そこから、正式に退職することになった9月末までは、本当にあっという間だった。
退職に際しての次々の手続きがこれほど複雑で数多いものだということが、初体験のボクは改めて実感した。
しかし、同時に自分の中に湧き上がる退職後への形にならない希望、熱望が燃え上がった。
そしていよいよ、9月末の退職日を間近に迎えた直前の9月27日。
この日、総合理事長、いわゆる職場のトップであるNさんに退職届を提出。
そして、今まで在籍していた部署にお礼の菓子を配りまわり、会う人会う人に驚かれ、ボクの退職を残念がってくれた職員の人ひとりひとりとのたわいのないやりとりがここまでの偉大なものになっていたのだ。
改めてこの事実を実感したボクは、この27年間の重みをひしひしと実感したのだったー。
さて、これでようやくタイトルにもある「入職27年目のボクが退職を決意した理由とは」の答えが出た・・・。
要は「退職金」だ(おいおい、笑)。
金目当てかよ!と言われるかもしれないが、やはり現実一番大きいのは、生活を成り立たせるのに必須のお金の存在なのであるー。
ーさて、そんなボクにとって、人生の大きな転機となったこの退職から約3か月が経過した。
結局、ボクは退職日の翌日には、退職金の一部を初期費用にあてた実家そばの賃貸マンションでの人生初の「一人暮らし」を始動させた。
今となっては、それが50歳の誕生日を間近に控えたボクの第二ともいえる人生の門出だった・・・。
これからも、この「門出」という「パズル」を構成する一つ一つの喜怒哀楽あふれる様々な「経験」という「ピース」は、どれひとつも欠けてはならない、言い換えれば無駄ではなかったということを改めて実感している。
そんな自分のこの「居場所」を大事にしながら、これから立ち向かう転職活動をはじめ、やはり新たに体験するであろう苦難にも、後に再び完成する2つめの新しい「未来」という「パズル」の「ピース」をつくりあげていくのだと感じれば、苦難もすすんで引き受けるという気持ちになっている。
ただ、ひとつ言えること、そして今までと明らかに違うのは、もう自分に鞭をうたない、自分をないがしろにしない、自分を犠牲にしない・・・そう、自分第一を正直に受け入れ、大事にする生き方。
ほかの誰でもなく、ボク自身のために!(終)
