連載小説【和歌はまだ、泣いている】第三話 第一部「あしびきの」
あしびきの 山鳥(やまどり)の尾の しだり尾の
長々し夜を ひとりかも寝む
柿本人麿(3番) 『拾遺集』恋3・773
●現代語訳
山鳥の尾の、長く長く垂れ下がった尾っぽのように長い夜を(想い人にも逢えないで)独りさびしく寝ることだろうか。
※本作品は、百人一首への親しみと理解を深めることを目的としており、純粋な学術研究や歴史資料としての使用は意図していません。あくまでもフィクションとしてお楽しみください。
今回の「あしびきの」は三部作に分かれます。
あしびきの
朝靄の立ち込める山里。
霧島千夜(きりしま ちよ)は薬草を摘むため、露の残る斜面を歩いていた。
彼女の指先は繊細に、一つ一つの草を見分けていく。
薄絹の単衣は朝の湿気を孕み、身体の線を浮かび上がらせていた。
風が吹くと、袖口から白い腕が覗く。
かつて都で仕えた名残りか、その所作には何気ない優美さが宿っていた。
千夜は背伸びをし、高い場所の薬草に手を伸ばした。
単衣の裾が風に揺れ、足首の白さが一瞬だけ露わになる。
髪が長く背中を流れ、風に舞うさまは、山中の精のようだった。
「失礼します」
突然の声に、千夜は振り返る。
見知らぬ男が立っていた。
「どなたですか」
千夜の声は、鈴を転がすように透明で、僅かに艶を帯びている。
「葛城宗景(かつらぎ むねかげ)と申します。この地方に赴任してきた役人です」
男は名を名乗った。
若く、凛とした姿だが、額に浮かぶ汗に苦痛の色が滲む。
「頭が痛くて…薬を分けていただけないかと」
千夜は男の顔色を見て頷く。
「庵までどうぞ」
摘んだ薬草を籠に入れ、男を自分の庵へと案内する。
宗景は千夜の歩く姿を見つめながら、懐かしさを覚えていた。
都の女性のような立ち居振る舞い。
しかし、それ以上の何か。
庵の中は、薬草の香りで満ちている。
千夜は囲炉裏に火を入れ、薬草を臼で丁寧に擦りつぶしていく。
宗景は彼女の動きを目で追う。
「お熱はありますか」
その問いかけに、宗景は我に返る。
「いいえ、ただの頭痛です。旅の疲れかと」
千夜が身を乗り出し、彼の額に手を当てようとした瞬間、宗景の心臓が早鐘を打つ。
その手の白さ、指先の繊細さ。
「確かに熱はないようですね」
千夜は安堵したように微笑む。
彼女が薬草を調合する様子を、宗景は見入っていた。
包丁で刻む手つき、火加減を見る仕草。
すべてが洗練され、どこか官能的ですらあった。
千夜の袖が滑り落ち、手首から肘までの白い肌が露わになる。
宗景の視線がそこに釘付けになり、
千夜はそれに気づき、さりげなく袖を直したが、二人の間に一瞬の緊張が走った。
「これをお飲みください」
千夜は小さな陶器の器に煎じ薬を注ぐ。
宗景がそれを受け取る時、指先が触れそうになり、二人は思わず目を合わせる。
宗景は一気に薬を飲み干す。
苦さと同時に、心地よい温かさが体内に広がり、
彼の顔色が良くなっていくのを見て、千夜は静かに微笑んだ。
「不思議な薬ですね。すぐに効きます」
宗景は正直に驚きを表す。
「山の恵みです」
千夜はそう言って、囲炉裏に湯を沸かし始める。
炎が彼女の顔を照らし、陰影を浮かび上がらせていく。
宗景は千夜の素性を尋ねたくなったが、言葉を飲み込む。
この女性には秘密がある。それは彼にも見抜けた。
だが、それも含めて彼女の魅力だと感じていた。
「また来てもよろしいでしょうか」
別れ際、宗景はそう尋ねる。
単なる薬草師に過ぎない女性に、こうして関心を示すのは不自然かもしれない。
しかし彼は抗えない引力を感じていた。
「どうぞ」
千夜の声は静かだったが、瞳の奥に小さな揺らぎが宿る。
それから宗景は、月に一度、千夜の庵を訪れるようになった。
時には薬を求め、時には山の生活について尋ね、時には単に対話を楽しむ。
夏の終わり、彼は山の霊泉を見たいと言って千夜を誘った。
二人は狭い山道を歩き、木々の間から漏れる陽光を浴びる。
千夜の髪が風に揺れ、宗景の頬に触れた。
さりげない接触に、二人の間に言葉にできない緊張が生まれる。
季節は変わり、秋の訪れとともに夜は冷え込むようになった。
宗景の訪問の度に、千夜は湯を沸かすようになる。
囲炉裏の熱さと、互いの視線が交わる度に高まる体温。
二人の間に流れる空気は、次第に熱を帯びていった。
ある晩、千夜は宗景に問うた。
「なぜ、こんな山奥の私のところへ」
宗景は黙って千夜の目を見つめる。
言葉にせずとも、彼の視線には答えがあった。
千夜は火を見つめ、頬を紅潮させる。
火の粉が舞い上がり、二人の間で小さな星のように消えていく。
千夜は少し息を詰め、宗景の視線を感じていた。
彼女の胸が波打つように上下するのが見える。
唇が僅かに開き、言葉を探している。
「夜が更けました」
その声は、いつもより低く、かすれていた。
宗景は千夜に近づき、彼女の髪に触れる。
指が絹のような黒髪を滑り、肩に落ちる。
千夜の呼吸が乱れ、その胸の高まりが単衣を押し上げていく。
「帰るべきでしょうか」
宗景の声も平静ではなかった。
千夜は答えず、ただ彼の手を取る。
互いの手の熱さに、二人とも息を呑む。
指先から伝わる脈動は、互いの欲求を雄弁に物語っていた。
「このまま…」
千夜の言葉は途切れた。
宗景は彼女の首筋に顔を寄せ、その香りを深く吸い込む。
肌と肌が触れる瞬間、電撃のような感覚が走る。
千夜の背が弓なりに反り、小さな声が漏れた。
囲炉裏の火が強く燃え上がり、二人の影を壁に大きく映し出す。
単衣の結び目が緩み、千夜の肩が露わになる。
宗景の指先がその白い肌を辿り、鎖骨の窪みに触れた。
「千夜…」
その名が宗景の唇から滑り落ちる時、彼の声は絹を引き裂くように震えた。
胸の内で混沌と渦巻く想いが、血管を熱く脈打たせる。
指先まで灼熱を運ぶ。
言葉にできぬ願いが、喉の奥で絡み合う。
ただその名だけを放つことしかできなかった。
千夜は彼の胸に手を置いた。
掌の下で鼓動が小鳥のように早く打つ。
その震えが彼女の体にも伝わる。
二人の間に流れる時間が溶け、呼吸が同じリズムを刻み始めた。 吐息が混じり合う度に、庵の空気は厚く、重く、熱を帯びていく。
互いの瞳に映るのは、もう自分自身ではなかった。
理性という薄氷は音もなく溶ける。
残ったのは深く、暗く、底知れぬ渇きの池。
その水面に映るのは、ただ相手の姿だけ。
言葉も、身分も、明日さえも消え去る。
二人を包むのは今この瞬間の炎だけだった。
外では山鳥が一声鳴いた。
その声が、二人をわずかに現実に引き戻す。
