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午前三時のコンビニには幽霊が来ない

レジがふたつあるのに、片方には誰も立たない店を、僕は知っている。

「準備中」の札はもう何年もそこにあるようで、埃をかぶるでもなく、かといって新しいわけでもない、妙に据わりのいい古さをしている。その札の向こうの照明だけは、他の売り場より心なしか暗く、それでいて一度も消えたのを見たことがない。

誰に聞いても、あのレジがいつから使われていないのか、うまく答えられる人はいなかった。
天井の隅では、丸い黒いドームが、瞬きもせずにフロア全体を見下ろしていた。

八月の午前三時というのは、不思議な時間だとしたらどうだろう。

アスファルトが溶けそうな熱気はもうどこにもなくて、かわりに湿った空気だけが街に残っている。

街灯はいつもと同じ明るさで、いつもと同じ角度で通りを照らしているのに、その下を歩く人間がひとりもいないというだけで、この時間はずいぶん違う顔をする。

空の端のほうは、黒からほんの少しだけ藍色に傾き始めていて、それでいて夜明けにはまだ遠い。

くすんだ色をした白い月が、まるで誰にも見つからないように、うすい雲の裏側にぼんやりと張り付いていて、誰もいない公園のベンチが、街灯の丸い光の中で、少し孤独そうに見える。

僕は四十歳になる。とくに理由はないのだが、この頃、眠れない夜にはコンビニまで歩くことがある。買うものは決まっていて、コンビニのアイスコーヒーをひとつ。あたたかい必要はなく、ただ何かを買うという行為そのものが、夜を少しだけ日常に近づけてくれる気がするからだ。

彼女がいなくなってから、というのが正確なところなのだけれど、それを口に出すと急に重たい話になってしまう気がして、僕はいつも「眠れないから」というところで説明を止めている。

実際、理由よりも、歩くことそのものが目的になっている夜も多い。玄関を出て、シャッターの下りた小さな商店街を通り過ぎて、コンビニの明かりが見えてくるまでの五分ほどが、僕にとってはちょうどいい長さの散歩だった。

最初にあのレジに気づいたとき、べつに何も思わなかった。壊れているレジがひとつあるだけの話だ。世の中にはそういう、使われないまま置かれているものがいくらでもある。使われない自転車置き場や、閉店したままの喫茶店の看板と、同じようなものだと思っていた。

三度目に店へ行ったとき、三時十分という時間に、そこにひとりの女の子が立っているのを見た。

グレーのスウェットの上下で、髪はゆるく結んであって、素足でサンダルを履いていた。そういう格好で、彼女はまっすぐにその「準備中」のレジの前に立ち、じっと動かずにいた。

蛍光灯の光というのは妙なもので、健康そうな顔でも少し青白く見せてしまう。だから彼女がそこに立っている姿は、どこかぼやけて、まるで最初からそこにいなかったもののように見えた。

僕は少しだけ、背中のあたりがひやりとした。

声をかけるつもりはなかった。ただ氷の入ったアイスコーヒーのカップを取ってレジに向かうつもりが、足が思うように動かず、結局、彼女の少し後ろで立ち止まってしまった。

店の中はいつも通り静かで、遠くのほうで、道路工事の何かの機械が低く唸っている音がかすかに聞こえていた。

それ以外には、何も聞こえない。冷房の吹き出し口から、少し埃っぽい、冷たい風の匂いがしている。

しばらくして、店の奥から、人がひとり出てきた。

白いTシャツにエプロンをつけた、日に焼けた男の人だった。どこかで見た顔だと思ったら、思い出した。昼間、この駐車場の隅でスイカを売っているお兄さんだ。

トラックの荷台に山盛りのスイカを積んで、暑い日差しの中、大きな声で「安いよ、甘いよ」とやっている、あの人だった。

夜のこの人からは、あの声の元気さがすっかり抜け落ちていて、かわりに少し眠そうな、けれど落ち着いた気配をまとっていた。

お兄さんは女の子に向かって、軽く頷いた。

「今日のぶん、あるよ」

それだけ言うと、「準備中」の札をひょいとどけて、レジのうしろに立った。彼女は財布から小銭を出しながら、初めて口を開いた。

「まだ間に合いますよね」

「三時十分は、ぎりぎり間に合う時間だから」
そんな会話が交わされているあいだ、僕はただ突っ立っていた。

何が起きているのか、まるで見当がつかない。怖いというよりも、何かとても静かな決まり事があるみたいに、たまたま行き会ってしまったような気持ちだった。

お兄さんはレジの下から、小さな発泡スチロールの箱を取り出した。中には、賞味期限の切れかけたおにぎりと、少し形の崩れたサンドイッチが、几帳面に並べられている。女の子はそれを受け取ると、小さく頭を下げて、店の外へ出ていった。

自動ドアが開くとき、生ぬるい夜の空気が一瞬だけ店内に流れ込んで、すぐにまた冷房の冷たさに押し戻された。

僕はしばらく迷ってから、聞いてみることにした。

「あの、これは……」

「ああ」と、お兄さんは特に驚いた様子もなく答えた。

「廃棄になる前のやつを、欲しい人にだけ、こっそり分けてるんです。店長には内緒で。だから三時十分、って決めてるんですよ。誰も来ない時間だから」

「その子は」

「毎晩じゃないですけどね。バイトの帰りに寄るみたいで。前は俺も、夜にこんなことするとは思ってなかったんですけどね」

お兄さんは、少し照れたように笑った。昼間、あの声でスイカを売っている人と同じ人だとは、やっぱりうまく結びつかなかった。ひとりの人間の中に、こんなふうにいくつもの時間帯が住んでいるのだと、彼はそのとき初めてちゃんと思った。

「毎日、あんなに大きな声出して」と僕は言った。

「疲れないんですか」

「疲れますよ、そりゃあ」
お兄さんは箱にラップをかけ直しながら答えた。

「でも、暑い日にスイカ切って渡すと、みんな一瞬だけ、すごくいい顔するんですよね。それを見るために、朝から声出してるようなもんです」

僕はその言葉を、しばらく黙って受け止めていた。昼の声と、夜の静けさと、そのどちらもが同じひとりの人間から出ているのだということが、なんだかとても不思議で、それでいて、ひどく当たり前のことのようにも思えた。

幽霊でも、この世に未練を残した何かでもなく、ただ、廃棄になるはずだった食べ物と、それを必要としている人が、こっそりと出会うための時間だった。

彼はなんだか拍子抜けして、それでいて少しほっとしていた。アイスコーヒーを買って店を出ると、外の空気は相変わらず生ぬるく、湿っていて、遠くの空はさっきよりわずかに明るくなっている気がした。

ストローがズレて鳴る音が、静かな駐車場に少しだけ響いた。

駐車場の隅には、まだ組み立てたままの、あの木製の台が置いてある。昼になれば、そこに大きなスイカが山になって、氷水を張った盥の中で冷やされているはずだ。

今はただの空っぽな台で、街灯の光を受けて、ぼんやりと白く浮かび上がっている。

夜のあいだだけ、この街にはこんなふうに、誰も知らない使われ方をしているものが、いくつもあるのかもしれない。僕はそんなことを、アイスコーヒーをひとくち飲みながら考えた。

振り返ると、コンビニの明かりだけが、住宅街の暗がりの中でぽつんと灯っていた。あの光の中に、これから先も三時十分になるたび、名前も知らない誰かと誰かが、静かに落ち合うのだろうか。

それを、悪くない話だとも思った。

次の夜も、彼はまた、あの店まで歩いていくと思う。コーヒーはやっぱりひとつでいい。もし三時十分に間に合えば、あの「準備中」の札の向こうを、少しだけ覗いてみるつもり。

ただ、あたたかいものを待つ誰かの影が、今夜も冷たいレンズの底に静かに溜まっていくのを、誰も知らない。

幽霊は、多分もう来ない。

かわりに、冷たいおにぎりなんかを待っている誰かが、今夜もひとり、そこに立っているのかもしれない。




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