日本語という「共鳴箱」を解読する ―― アーキテクトが考える『世界一閉鎖的な言語』の正体⑧
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あとがき:
思えば、私の半生は「共鳴」と「論理」という、二つの極端な引力に引き裂かれ続けてきた歴史でもありました。
子供のころ、私が時間の多くを注いでいた演劇という世界は、まさに「共鳴」を突き詰める空間そのものでした。「頑張ること」「相手によく思われること」が至上の価値であり、互いの精神波動を同期させることでしか到達できない、あの無形の美しい調和に、私は確かに魅せられていたのです。
しかし、社会人となり、コンピュータ業界という全く異なる世界に足を踏み入れたとき、私は激しい目眩を覚えることになります。そこは、これまでの人生のルールが一切通用しない、冷徹な「論理」の要塞でした。どれほど血の滲むような努力を重ねようが、どれほど周囲に善人として振る舞おうが、ロジックが間違っていれば、機械は1ミリたりとも動いてはくれない。「頑張る」「なんとかする」という情緒が、完璧なまでに遮断された世界に、私は度肝を抜かれたのです。
けれど――そんな冷徹な論理の鎧をまとったコンピュータ業界のなかにも、隠し切れない熱や、固有の情緒を仕事に持ち込んでくる奇妙な人たちが少なからずいました。そして私は、そんな彼らの不器用な熱量に、どうしようもなく深く共鳴してしまうのでした。
日本人は、この「論理」と「共鳴」を、一体どのように使い分ければいいのか。
大人になってから、私の脳内は、ずっとこの答えのない問いをサンプリングし続けていました。
感情に溺れれば集団の生贄にされ、論理に狂えば心が砂漠化する。その狭間でサバイブするための、私なりの「多重起動(マルチブート)の生存戦略」こそが、この『日本語という共鳴箱を解読する』という試みでした。
本作は、かつて表現者として「空気」を呼び覚まそうとし、現在はアーキテクトとして「システム」を構築している私自身の、ひとつの終着点であり、祈りです。
白日の下の戦場では、冷徹なメスを。
大切な人と過ごす暗闇の余白では、心地よい共鳴を。
この論考が、言語という見えないOSに囚われ、息苦しさを感じているあなたの明日をデバッグする、ささやかなパッチコードとなることを願って、筆をおくことにします。
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