見出し画像

「愛のなかにいるという実感」──『カラマーゾフの兄弟』第六編(二)を読んで

ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』(第六編 二 (C) 俗界にあったゾシマ長老の青年時代と青春の思い出。決闘)を読んで、
改めて愛と感謝を想い起こし恍惚な状態に浸った。
同じような境地に至った過去の事例を思い出しながら明記することで、より多くの方にも同じ体験を味わう機会となったら嬉しい。


「一は全、全は一」

アニメ『鋼の錬金術師』の大きなテーマの内のひとつに「一は全、全は一」というものがある。
主人公は修行のために無人島で過酷なサバイバル生活を強いられるというエピソードの中で、初めは捕らえた野生動物を殺めることが心苦しく見逃してしまう。代わりに自身が空腹により極限の状態にまで追い詰められるが、その時ひとつの真理を見出す。

我々が普段、当たり前に生活している中で口に運ぶ食料についてだ。極限の状態でアリを口にした彼は、今ひとつの生命を頂いて自分が存在している事に気が付く。同じように草食動物は野草を、肉食動物は他の動物を喰らい、また、肉食動物が死んで朽ちた時にはその死体が栄養となり野草を生やすという食物連鎖や、海から雨、川、そしてまた海という自然の連環といった命の連鎖の中で自身が存在していると知る。

地球の循環の中に一人の人間が在り、一人の人間が地球の循環を促している。
「一は全、全は一」、私は世界の一部であり、またそれと同時に世界は私の一部である。

「愛されているから、今まさに存在している」

生まれてきた意味を考えたことはあるだろうか。そんな事考えたことも無いと言う人もいる。私は物心ついた頃から常に存在理由を考えずにはいられなかった。今思い返せば、その原因は愛されている実感が少なかったからなのだと考察している。決して愛されなかった訳では無いが、物心ついた頃から両親はケンカをしない日は無いという家庭環境だった。夫婦喧嘩は子供に自責の念を募らせる。それが原因となって存在理由に執着するようになったのだろう。これに関して今となっては深い哲学的洞察へと昇華したので感謝している。

本題に戻る。
生まれてきた意味とは?この答えは、普段から常に考えている私も「これだ!」とハッキリすることもあれば、また分からなくなるを今も繰り返している。恐らく一生正解には辿り着かない。ただ、間接的になら仮の回答を用意できる。「一は全、全は一」の知見から、今日まで生きてきた原因を見いだせるのだ。

人生は苦しみが多い。学校や職場での人間関係や、生活の為にお金を稼ぐ、そにために毎日朝早くから家を出て夜遅くに帰り、寝てまた出勤... 良い大学、良い会社、安定した給料、なるべく長生きして死ぬ。この不安への直接的回答は最後に述べる。
ここで言えることは私達が生まれてくるには愛情が不可欠であるということだ。例え望まれない妊娠だったとしても、愛情の言葉を掛けられないと赤ちゃんは死んでしまう。
13世紀、フリードリヒ2世は「人間の自然な言語は何か」を知るために、乳児に食事や世話はさせるが、
一切言葉をかけないように乳母に命じたとされています。意図としては、言葉を教えなければ子どもは「神の言葉」や「自然言語(ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語など)」を自発的に話し出すのではないかというものでした。しかし、結果としてすべての子どもは言葉を話す以前に死亡したとされます。理由としては、言葉をかけられないことによる情緒的・社会的刺激の欠如(愛着の形成失敗)が死に至る原因となったと考えられています。この記録は、13世紀の修道士サロニタスやロジャー・ベーコンなどの著作に言及がありますが、実験の実在性や詳細については歴史学的に議論があります。あくまで伝承や批判的記録として残されたもので、現代科学における厳密な実験ではありません。

私は愛が必要だったのだと信じている。肉体を持っている即ち愛された体験があるということなのだ。潜在意識は知っている。「愛されているから、今まさに存在している」という認識を経て初めて他者を愛せる様になる。また、そうして先祖代々受け継がれてきた何千年、何万年という連鎖の先頭に立っているということが今生きている原因と言える。人によってはこれが即ち生きる意味に直結することもある。

「許せないのは他者ではなく自分自身の過去の言動」

愛されている実感を経て、他者を愛せる土台が出来上がると、それまでどうでもよかった他人の小さなものが目に付くようになる。そしてそれは大概良くない部分が目立つ。自分から見なくても向こうの方から良くない部分を提示することがある。

学生の頃、私と目が合ったヤンキーが血相を変えて私の方に走ってきて、胸ぐら掴み殴る蹴るといった行動に出た。彼曰く「俺を嘲笑った」との事だった。たしかに思春期の青年は自分以外の全ての他人を嘲笑している節がある。一理あるかもしれない。ただ私と彼とは面識が無く、目が合った時の私の氣分もむしろ好調だったので嘲笑った目付きであったとは考えにくい。どうして暴力を振るわれなければいけなかったのか、そしれそれがどうして僕である必要があったのか。その日は悶々としたが意外にその時間は短かった。

「昨日の敵は今日の友」と言わんばかりに向こうの方から曇りない笑顔で挨拶を掛けてくれるようになったのだ。私自身「根に持つ体力が勿体ない」というタイプだったので、仲良くなれたから結果オーライと思っていた。少しの間隔を開けて、本屋に寄った時になんとなく開いた本の一文に衝撃を受けた。
「許せないのは他者ではなく自分自身の過去の言動」というものだった。殴られたあの当時、私は合氣道を習っていたので自他ともに傷つけずに済む方法とその心構えを身につけようと努力していた。そのおかげでお互いケガ一つ無く済んだ。後腐れないと思っていた。しかし心の奥底では許せていなかった。その対象は彼ではなく、反撃しなかった自分自身だった。

本当は殴り返したかった。その心を認めることを通り越して無視していた。その事に氣付いた瞬間、私の世界から「許せない他人」が完全に消えて無くなった。そして許せない対象が自分自身なら許してしまえば良い。やり返したいという幼稚な本音を認め、慰め、
許してしまえば心がうんと軽くなる。聖書の「隣人を愛しなさい」という有名なセリフの「隣人」を「過去の自分自身の言動」と置き換えても良いかもしれない。
「過去の自分自身の言動を愛しなさい」
許せない他者は存在しないのだから。

「十界を自他ともに認める」

許しを続けても根本的に気が合わないこともある。
人の数だけ価値観があるから仕方がない。とは言え
80億通りを研究する訳にはいかないから、4通りまでに絞ろう。

仏教には十界論というものがある。下から順に
地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・
衆生・声聞・縁覚・菩薩・仏陀
天皇家に伝わってきた固有の学問に言霊学というものがある。それに従ってみるとこの十界論が何を言っているのかわかりやすい。言霊学ではこの十界論を5つの精神的基盤の陰陽としている。即ち、
五官・経験・感情・理性・生命
の5つの鏡合わせなのだ。
・五官は欲望と産業
・経験は執着と科学
・感情は癇癪と芸術
・理性は不安と道徳
・生命は生と死。

人間にはこれら全ての性質が備わっている。そして上の立場から下の立場を理解することはできるが、下の立場から上の立場を理解することは難しい。
この十界論を知っていれば、他人の言動の原理はあらかた説明が付く。気が合わないということは、立場のズレから生じるのである。
芸術に対して科学で物申したり、科学に対して欲望で物申すことはできない。
過去に執着している者と、一時の感情で癇癪を起こしている者はお互いに分かり合えない。

気が合わないと感じたら、相手がどの立場で振舞っているのかを考えると良い。
・素直に欲望を表現しているのか
・過去のデータを見ているのか
・直感や感性が強いのか
・不安に怯えているのか
大体この4通りに当てはまる。また、自分自身も欲望・執着・癇癪・不安に陥っていないか確認すると良い。
そして菩薩、即ち道徳とは、それぞれの立場に自ら意図的に移行できる状態を指す。
我が子を愛する親の様に。親を愛する子の様に。

「心理機能の第1,4機能の確認」

もう1つ人の心について紹介する。少し前にMBTI診断という性格診断が流行った。知っている人も多いと思う。これは心理学者のルイス・R・ゴールドバーグ氏が提唱したビッグファイブ理論というものが元になっている。広く知れ渡った分、毛嫌いされることも多いが、心理学の類型論を多くの人が知り、統計の母数が大きくなることは多方面に役立つと思う。また、相手と共に自分自身の心理をよく理解することは生きやすさに直結するから、是非知って欲しい。

ここではビッグファイブ理論の内3つを使用して簡単に説明する。
直感or感覚、思考or感情、
そしてこの2つの区分から成る4つのものをさらに
内向or外向に分けると8つの心理機能が出来上がる。

内向的直感・外向的直感・内向的感覚・外向的感覚・内向的思考・外向的思考・内向的感情・外向的感情

それぞれ
Ni・Ne・Si・Se・Ti・Te・Fi・Feと表記される。
(直感:iNtuition/感覚:Sensing/
思考:Thinking/感情:Feeling/
内向:Introversion/外向:Extraversion)

並び順にも意味を付ける。
①長所②仕事③報酬④短所
⑤認めづらい長所⑥厳しさ⑦楽観⑧怒り

注目すべきは長所と短所、即ち第1機能と第4機能だ。例えば自分の第1機能がSe、第4機能がNiだとしよう。もし長所と短所が逆の相手が現れたらどうなるだろうか。自分は外に向かって身体で表現することが得意で、逆に内に向かって内省することが苦手。
対して相手は自己内省が得意で、逆に身体を使った表現が苦手。おそらくお互いに自分が当たり前にできることが相手には難しくて、自分が難しいことは相手は簡単にやって退けることへの苛立ちが生ずる。自分の短所となる心理機能を理解し、克服に努めていれば、苛立ちではなく尊敬となるだろう。

長所と短所の関係だけを記しておくので、是非みなさんも診断した時には役立てて欲しい。
Se←→Ni、Si←→Ne、Ne←→Si、Ni←→Se、Fe←→Ti、Fi←→Te、Te←→Fi、Ti←→Fe

「努力する限りにおいてのみ、
知性的世界原因の究極目的に
適従しているものであると判断して差支えない」

哲学者カントを紹介する。近代哲学の祖と言われたり、四聖に数えられ孔子・釈迦・ソクラテスと共に並ぶ。カント以前はカントに集約し、カント以降はカントの派生とも捉えられる重要な人物だ。彼の理論に対して全ての者が同意している訳では無いが、彼の使用した言葉は、その概念を共通認識にする上で大切であることは誰もが認めるであろう。
彼は著書『判断力批判』において道徳とはなんたるかを説いている。岩波文庫 下巻の161ページ(417項)を参照しながら彼の言葉を伝える。

「感謝、服従、恭順(当然受くべき懲戒に服すること)の念は、義務に対する特殊な心的状態である。」

冒頭で述べた「一は全、全は一」により私の心は、命を頂いて生きていることへの感謝、また、自身の死を循環の一部として受け入れ服従し、それは自然の摂理として当然に受け入れられなければならないという恭順の念で満たされた。

「そしてこの場合に道徳的心意の拡充を志す彼の
心意識は、世界の内には存在しないような対象を
自発的に思い設け、できるならかかる対象に対して
自分の義務を果したいと希うのである。」


そして感謝、服従、恭順の念から、「愛されているから、今まさに存在している」と思い、現存しない先祖代々が受け継いできた意志を自発的に思い設けた。私の場合、三島由紀夫さんの『葉隠入門』に触発されて、戦死した兵隊さんや、彼らと共に戦い、生き地獄を生き延びた者達に対して恥の無いように生きたいという義務に繋がった。

「要するに道徳的法則を与える立法的存在者を、
世界の外に想定することが必要なのである。」


自身の先祖だけでなくとも、自然の摂理や、キリスト教の神様、お天道様が視ているよという教訓、はたまたスピリチュアルや神智学での高次的存在、ハイヤーセルフ、プレアデス星人、等々、表現方法としての言葉は何でも構わないが、大切なのは道徳的な教えの内容、もっと言えば利他主義に移行できるかが重要なのである。

「そしてその場合に我々は理論的証明や、まして
利己的関心などをいささかも顧みることなく、また
はたからの影響に一切関わりのない純粋な道徳的根拠に基づき、それ自体だけで道徳的法則を与える立法的な純粋実践理性の賞賛のみを期待して、かかる存在者を想定するのである。」


先祖の守護霊や神様、その他超感覚的世界の存在を理論的に証明することは難しいが、肝心なのは利己的関心から利他的な精神へと移行することであり、「許せないのは他者ではなく自分自身の過去の言動」であるといった気づきや、思考の転換を促す機会に触れると良い。

「このような心的状態は稀にしか出現しない、
また永持ちせずに忽ち消滅して持続的な影響を残さないかもしれない、更にまたこうして朧げに表象された対象をよく考えもしないで、従ってまたかかる対象に明瞭な概念を与える努力を払おうともせずに過ぎ去ってしまうかも知れない」


確かに我々は常に感謝し道徳的に生きている訳では無い。仏教の十界論と言霊学の解釈によれば、欲望に溺れ、過去のしがらみに執着し、感情的に癇癪を起こすといったことが、人類に共通して見られる。

子供はみんな泣く。子供じゃなかった人は居ない。有り難いことがあっても直ぐに忘れてしまったりする。相手の立場を考えるのは気力を使うから疲れてしまう。それでも「心理機能の第1,4機能の確認」により、自分には当たり前にできることが他人には酷く難しい場合もあり、その典型的なパターンを知っておく、といった努力はできるし、是非皆さんにも、
それぞれの形で取り組み続けて欲しい。

「努力する限りにおいてのみ、知性的世界原因の
究極目的に敵従しているものであると判断して
差し支えない。」


菩薩の様に相手の立場に寄り添い、キリストの様に隣人を愛し、少なくともそういった努力をしている時の我々心の中には優しく暖かいものがある。

少しでも多くの人が、心の内に優しく暖かいものを感じ、道徳的な世の中が広まることを願います。







いいなと思ったら応援しよう!