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よんだ「日本語が亡びるとき - 英語の世紀の中で」水村美苗 著 (※追記あり)

松岡正剛の千夜千冊 1699夜(読相篇)
2008/10/31 初版第一刷発行

1章 アイオワの青い空の下で<自分たちの言葉>で書く人々
2章 パリでの話
3章 地球のあちこちで
4章 日本語という<国語>の誕生
5章 日本近代文奇跡
6章 インターネット時代の英語と<国語>
7章 英語教育と日本語教育


小説家であり、日本近代文学を教える方の随筆。
私らが話したり書いている「日常の日本語」が亡びるわけでは無い。
とりあえず。
学問としての言語は、全て英語で統一される方向に進んでいる。
近い将来、日本語で小説を書く日本人の作家と、英語でしか小説を書かない日本人の作家が現れるかもしれない。日本語での小説は先細りとなる。
日本語で書かれた小説も、今までのように英語に翻訳される。
でも、それは翻訳にしか過ぎず、日本語でしか表現出来得ない小説は、
英語に翻訳される事無く取り残される。現実もそうだろう。

そうなった状況で、日本語で小説を書く意義とは?
日本語の小説は誰にうったえる事が出来るのか?

英語でのみ書かれる世界。
それは多様性を欠く、言ってしまえば全体主義的世界。

将来、人類の歴史も、英語でのみ記録されるのかもしれない。
英語圏中心の世界観。
その一面的な歴史記述に、日本のことはどう記載されるだろうか?

今は、日本語で考え、日本語で入力出来ることに感謝したい。
既に、道の先が消えているかもしれない「日本語」。
「日本語」が失われるということは「日本文化」が失われるということ。
そこに「日本人」は存在しているだろうか?

手応えのある本に出会うと、もれなく「切実さ」が付いてくる。
しんどいが、それが現実だ。
現実を受け止めて重い気分となるか、現実逃避をするか。