ちょい読み 2025/ 5/29
・ 『読書の歴史』 アルベルト・マングウェル 著(柏書房 1999)
ー あるいは読者の歴史 ー
【千夜千冊・0383夜(読相篇)】 61 / 354 頁
これはものすごい本である。
どのくらいすごいかを説明するのが息苦しいほど、
この手の本ではダントツだ。類書はとうてい及ばない。いや、類がない。
まずもって、読書という体験こそが「経験」であると断じきっている。
私が、本を読んでいる行為自体を、これは私にとって無駄なのだと、
理解出来れば、もう、本を読まずに済むのだ。
でも、現時点で、無駄かどうか分からないし、
それよりも今まで生きてきて、
本には結構、助けてもらったりしているのだ。
そう言えば、本を読まないけど、なんの悩みもなさそうな知人がいた。
『俺は、本を読まないからダメなのかなぁ。』とか言っていたような。
なにがダメなのかも分からないし、
この世で上手くやってそうな印象を持っている。
彼に、本は不要なのだろう。
この世間話は、この本とは、全く関係の無い話だ。
少し抜粋して、次に行く。まぁ、明日も読むだろうし。
読書をしている時、我々の目は、何かに妨げられることなく滑らかに
頁に記された文字の行に沿って動くものであると一般には考えられている。
(・・・)
我々の目は実際にはページの上を跳ね回っているとうことを発見した。
(・・・)
この動きにより、文字を連続的に知覚することには
何らかの支障が起きるはずである。
つまり、我々が実際に文字を「読む」のは、まさにこの眼球運動が停止する
きわめて短い時間に限られるということになるのである。
眼球運動とは関係ない話になるが。
私の場合、睡魔に襲われたそうな状態で、
本の、ある箇所を読む。睡魔に襲われる。今読んだ箇所をまた読む。
睡魔に襲われる。
悪夢から起きて、また、悪夢のような展開。
それと、本を読んでいる際中で、予告なしに、
「私の中の気になっている事」が脳内を走り出す。
もちろん、本の内容は入ってきていない。
読書行為は、不思議なものであり、謎である。
・ 『アウトサイダー (上)』 コリン・ウィルソン 著(中央公論新社 2012)
【千夜千冊・0372夜(歴象篇)】 185 / 273 頁
何が言いたいのか分からないが読み進めている。
ゴッホと、ニジンスキー(ダンサー)の箇所を読み、
思い当たることがあった。
「ゴッホ」と「ニジンスキー」と「私」の
共通点が見つかったわけではない。
T.E.ロレンスも含め、彼らは自分を分からなかったということ。
ゴッホは、己を画家と認識する期間は短かったと言える。
コリン・ウィルソンは、彼を、アウトサイダーとしてのゴッホ、
と言う。
個人的に思い当たったのは、
私が、私の事を客観的に見れていなかったということ。
この言葉は死語なのかもしれないが、「神経症」という症状は、
見られている自分を気にするが、客観的な自分を分かっていない。
この、自分が見えてない自分という存在について、
『アウトサイダー』は、歴史的人物を取り上げて、
彼はこうだ、ゴッホはこうだ、と言い進めている。
どうも『アウトサイダー』は不幸らしい。
ダンサー(舞踏家)であるニジンスキーは発狂している。
それは、その方が楽なのかもしれない。ある現実にさらされるより。
『アウトサイダー』は、
妙に引っかかるし、文庫下巻も読むだろう。
今まで読むことも無かった、コリン・ウィルソンの他の著作も
読むかもしれない。
その著者の、本のほとんどを読む場合は、
かなり自分の核にくいこんでいるし、
逆に相性の悪いと思われる本も、
逆の意味で、自分の核の部分に反応している。
特に本だけではなく、人間関係でよくある話だ。
昔、友人だった人が、
「嫌いな人の事を忘れてはいけない」と言っていた。
そっか、これが「影」という事でしょうか。
ずいぶん前にみたハリウッド映画。
正義のヒーローと悪役が表裏一体であるというストーリー。
ちょっと違うか。
いろいろと興味深い本はあるが、それらの本に対し、ああなったり、
こうなったりする「読者」としての自分に興味がある。
改めて言いますが、この「ちょい読み」は、
誰かに本の紹介をするような類ではない。
どちらかと言えば、自分を探るための道具、だと思う。
まぁ、こんな本あったよ、の 世間話ではある。
