生きる意味について スマナサーラ長老の法話より
2010年 1月 23日 (土)に中野サンプラザで行われたアルボムッレ・スマナサーラ長老の講演会「仏教カルチャーセミナー:生きる意味について」(主催:財団法人 日本仏教鑚仰会 )を適宜Twitter実況したメモです。見出しは便宜的に付けました。
生きる意味を誤魔化してきた人類
「生きる意味は何なのか?」この質問は比較的若い人が訊くことです。子供達も訊きます。子供達も思春期になって異性を追いかけるまではよく訊くのです。これは歴史上、誰にも答えられなかった問いです。みんな推測、感想、自分の意見を言ってるだけです。
生きる意味は何なのかというと、「神が大事な命を与えたのだから大事に守りなさい」「一つしかない命なのだから」「人間の魂は生きることで浄化する」などと、訊いてもいないことを答える。
別に神がいるか否かとか、命がいくつあるかとか、魂が有るか否かとか、誰も訊いていません。訊いているのは、生きる意味は何なのか?ということ。でもそういう誤魔化しに見事に騙されるのです。
誰もこの問題に答えようとしません。答えようとしない理由は? 怠け者のロバを働かせるために、棒の先に人参を吊るすでしょう。我々がやっているのはそういう人生です。神の話、永遠の天国の話などを目の前に吊るして、働かせているのです。
巨大なカテドラルを作る。神殿を作る。でも一人でも天国を見た人が居るでしょうか? 妄想が病的に進んだ人、ダンテとかノストラダムスとか……。そういう人々を除けば、我々は全然経験したことがない。そういう色んな概念を作って、「生きる」ことを忘れさせてしまう。仏教はそれに反対なのです。
世の中のあらゆる宗教では、「生きる意味は何?」という問いを徹底的に誤魔化そうとする。話題をそらす。我々はその誤魔化しに乗らないといけないのです。話題をそらされて、騙されて考えないようにさせる。ブッダは違います。その問題を考えさせてしまうのです。まず、「生きるとは何か?」と研究することを勧めるのです。
生きるとは「動くこと」
答えだけを言います。生きるということはすごくシンプルです。「動くこと」なのです。生きるとは動くことです。死んだように横たわった人も、動いています。医者が生きているか死んでいるかを調べる場合も、動いているかどうか調べるのです。別に、魂があるかどうかは調べません。神父さんには電話しないのです。
医者は、脈をとって、呼吸を見て、心音を確かめて、生死を決めます。釈尊は2500年前にそれに気づいていました。では、なぜ動くのでしょうか?「なぜ?」から科学が始まるのです。
なぜ呼吸するのか?
我々は死ぬまで呼吸しています。それに「なぜ?」と訊くと変な顔をされます。「細胞に酸素が必要だから」というのは間違いです。犬猫も子供も呼吸しています。「呼吸することで細胞にどんな変化が起こるのか?」と訊かれたならば正しい答えになります。しかし、「なぜ呼吸するのか?」という問いへの答えにはなっていないのです。
一分くらいでも息を止めてみてください。息を吐いて止めるとどんどん苦しくなるでしょう。ガタガタ震えがきて、脂汗が出るのです。それでも続けると死んでしまいます。吸って止めても同じことです。なぜ呼吸するのか、といえば呼吸しないと苦しくてたまらないからなのです。苦しみがあるから、苦しみを放っておいたら死ぬから、呼吸するのです。
苦を逃れるために動き続ける
なぜ椅子に座っても動いてしまうのでしょうか? 苦しい状態を変えたいからです。なぜ食べるのでしょうか? 空腹感の苦しみを無くしたいからです。美味しいから食べるのではありません。空腹感がない時にはご飯は美味しくないでしょう。テレビをつけるのも、消すのも、退屈の苦から逃れるためなのです。
まばたきさえも、しないと苦しくてたまらないのです。私たちの身体全体に、苦しみというパワーが渦巻いています。苦しみを無くそうと動き続けているのです。しかし、終わりがないのです。苦を避けた先もまた苦です。生きることは、苦から苦へと動くことです。仏教はそれに輪廻と言います。輪廻とは、キリがなく続く苦の循環なのです。
生きることに意味はない
では、生きる意味は? 皆さんで答えを出してみてください。簡単に出てきます。全然、無いんです、生きる意味は。
生きることに意味はない。苦から苦への転換に意味はない。本当の意味は「苦しみを無くすこと」なのです。これは真面目な話です。生きる意味があるならば、皆知っているはずです。我々は意味のない行動はしません。意味が無いのは、生きることだけなのです。
なぜ生きるのでしょうか? 見事な答えは、「まだ死んでないから」です。明るく幸福に生きる人には、そういう答えが出てきます。
行為には結果があるという確かな事実
生きることは動くこと。そして、すべての動きは結果を出してしまうのです。行為という言葉の方が相応しいでしょう。一切の行為に結果があるのです。同じ行為をしても、その結果が善い場合も、悪い場合もあります。しかし、行為が終わった時点で結果の管理はできないのです。
善い結果を出そうとして行為するのは、皆が努力して行っていることです。ブッダはそれを思い出させてあげるのです。神様は自分の好みで選べますが、「善い結果を出しなさいよ」という教えは好みでは選べません。選択の余地がないのです。
善い結果を出すように生きるべき
「行為には結果があるんだよ、善い結果を出すように行為しなさいよ」と。理性ある人はそれを理解して、善い結果を出します。だらしなく生きている人は悪い結果を出します。だったら、善い結果を出すように生きてみてはどうかと提案するのです。これは、議論の余地のない教えです。
生きることは行為である。行為には善し悪しがある。だから、いつでも善い行為をして生きてください。
真理はいつでも足元にある
一切の悪を止めること。善を行うこと。
自らの心清らかにすること。それがブッダたちの教えです。
我々は変なことばかり考えているから、真理が見えなくなるのです。真理は目の前にあります。遠くを見ても真理は見えません。真理は足元にあるのです。
死ぬまでやるべき仕事は人格育成
我々は死ぬまで生きています。死ぬまでやるべき仕事があります。ポイントは、その仕事とは何なのかと探すこと。それに失敗してはいけないのです。釈尊は、若い時は財産を作ってください、と仰っています。幾らか蓄えて、施しの習慣も身につけること。年を取ってリタイアしたら人格を育てないといけないのです。
人は年を取ると性格が頑固になります。だから柔軟で明るく、ありがとうと言える性格を育てるべきです。天国に行くのは、神を信じる人ではありません。一切生命の幸福を願う気持ちを育てるならば、その人が天国に行くのです。
苦しみを無くすことを目的に生きる
生きることに意味はない、というお話をしました。であれば、強引に意味を作ることです。作るべき本当の意味は「苦しみを無くすこと」です。そのための最短の道が仏教です。行為には結果があるのです。だったら、善い結果を出すように気をつけて生きなければいけない。そのためには、一切生命の幸福を願う心を育てることです。
(休憩)
Q&A① 仏教は霊魂を認めるのか?
Q:物理学者です。生きる意味があるか? 価値論からすると霊魂があるか否かと思う。仏教は霊魂が有るとも無いとも言わない。誤魔化してるように思ってしまます。上座仏教は霊魂にどういう立場なのでしょうか?
A:人間は価値を勝手につけるものです。霊魂が有るというならば、科学的に説明して欲しいのです。私が知る範囲では、原始時代から今まで、未だに見つかっていません。何か言う前に少し調べて欲しいのです。釈尊は調べられる範囲で全て調べたのです。
霊魂というのは、定義すれば「何があっても変わらないもの」です。ならば最初に知っているはずです。事実は、すべて無常なのです。釈尊は論理的に、「これは無常だよ」と言う。川が有ると言っても、ただ水が流れるだけで、変わり続けています。無常が存在です。無常だから生きているのです。
「私が生きている」というのは単なる言葉に過ぎません。その単なる言葉を我々は実体と誤解するのです。実際は、ただ流れているだけ。原因と結果の流れです。「私」という気持ち、その実感が何処から生まれているのかと探すことが、ブッダの瞑想です。瞑想とは神秘的なことではないのです。
その都度、身体に起こる感覚に「私が」という実感が割り込みます。感覚が俗に言う「命」であり、感覚が俗に言う「霊魂」なのです。感覚は恐ろしいスピードで変わらないと生きていられません。強烈な無常だからこそ、生きていられるのです。
物質宇宙も無常です。感覚(こころ)はなおさら無常です。釈尊は、「肉体が魂(常住不変)というならまだ分かる。何十年かは形が持つのだから。だが、こころが魂(常住不変)というのはイカレている。こころは瞬時に変わってしまうのだから」と仰っています
非難されている偽科学にもそれなりにデータは有ります。魂論には何のデータもないのに、証拠もないのに、皆信じているのです。
Q&A② 生老病死の意味
Q:生老病死の教えについて知りたいです。
A:講演で話した「苦」について、一般人に言っても理解してもらえないのです。そこで、具体的なケースに沿って説明しています。生まれることは赤ん坊にとって大変な苦しみです。産道を通るのは死ぬほど苦しいことなのです。
羊水が破れて、母胎から押し出される瞬間から老の苦しみが始まります。絶え間無い変化に晒されて、安心できないのです。皆さん、都合の悪いこと忘れますが、私は憶えていますよ(笑)。老いることは、産まれた瞬間から老いるもです。死も同じです。いまの幸福はすぐ壊れるのですから。それも死ですよ。
命そのものが、病でできています。クシャミすることも、腹が減ることも病なのです。命そのものが生老病死です。それを乗り越えることに「解脱」と言うのです。
Q&A③ 生老病死の「生」とは?
Q:生老病死の生は「生きる」ではなく「生まれる」という意味で取らないといけない?
A:生きることは「生老病死」です。生老病死の「生(しょう)」は生まれることです。我々は好むと好まざると因果法則の中で生きています。だったら善い結果出すように調整しなさい、もうちょっと気を付けなさい、ということです。よく観察して調整するのです。それが修行です。修行とは、敢えてすることなのです。因果法則に従うだけならば、輪廻を超えられません。仏道とは、輪廻のサイクルを壊す道です。因縁に従いながら、ちょっと違う道に歩まなくてはならない。それが仏教の道なのです。(了)
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
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